第八章 薬が私にもたらす平穏
ラツーダ半錠、リボトリール一錠、レメロン三錠、マイスリー一錠、ランドセン二錠、トリンテリックス二錠。
コピペ(複製)で済むくらいにはシンプルだ。しかも今回は薬がすべて揃っていて、何ひとつ欠けていない。
病院で薬を受け取ったけれど、これほどの量の薬袋を目にした父さんは目を丸くし、「本当にこんなに大量の薬が必要なのか」と難色を示した。
僕は「お医者さんの判断を尊重してほしい、そうじゃないとまた先生に怒られちゃうから」と頼み込み、どうにか納得してもらった。
初日からそんなわけで学校を休み、家で過ごすことになった。教科書すら持って帰ってこなかったので、今日の新聞を手にして自分の部屋へと戻った。
うわあ、株価がもう四万ポイントに届きそうじゃないか。一体いつから台湾はこんなにも競争力のある国になったんだろう。TSMC(台積電)のおかげだろうか、それとも他の産業だろうか。この時代にはまだAI関連の産業チェーンなんて存在しないはずなのに。
まあ、僕は株式投資なんてやらないからどうでもいいけれど、家族は少しやっているみたいだし、結構儲かっているんじゃないだろうか。
こんなにも豊かで活気に満ちた台湾の中で、うちの家庭だって別に貧しいわけじゃない。社会全体が歓喜に沸く中で、僕一人だけが俯いてうつ病の薬を苦々しく飲み下している……なんだかすごく変な構図だ。
そういえば昔、どこかの芸能人が「うつ病なんてものは身の程知らず(知足を知らない)からなる病気だ」なんて言っていたっけ。
時々、その言葉が正しいのかどうか考え込むことがあるけれど、今の僕の状況から見れば、間違いなく暴論でしかない。
今回の紙破りがもたらした結果について、後悔はしていない。第二外国語の日本語が消え去ってしまい、またあの忌々しい英語の授業と向き合わなければならなくなったけれど、全体的に見れば、ここまでの展開はすべてコントロール(把握)の範囲内だ。
ただ、初日からクラスで一躍「有名人」になってしまったことについては、深く反省している。おとなしく目立たない高校2年生として過ごしていればよかったものを、これじゃクラス全体の注目の的だ。暴走した自分というのは、我ながら少々恐ろしい。
僕は新聞に目を戻した。社会面のニュースというのは、いつの時代も僕の心を惹きつけて止まない。幼い頃からニュースや新聞を読むのが好きだった。そこに書かれた記事の一つひとつが、まるで新しい物語のようで、視野を広げてくれるだけでなく、僕の脳内にある「ストーリー集」の引き出しを豊かにしてくれるのだ。
高校1年生の時の教科書を眺めながら、この世界線でも陳逸樺は6組にいるのだろうかと、ふと気になった。
もし6組にいなかったら、僕はまたタイムペッパーを破らなければならないのだろうか? 彼女が見つかるまで、何度も、何度も破り続けるのだろうか?
そんな行動、まるでストーカーみたいだ。流石にやめておこう。
……けれど、もしそうしないのだとしたら、僕が過去へ戻ってきた意味はいったいどこにあるというのだろう?
『I don't know where to go』——脳内で見覚えのある歌詞がリフレインする。この曲を再び耳にするまでに、まだ二十年近くかかるのだ。いや、そもそも同じ曲を聞けるかどうかすら分からない。この距離は僕にとってあまりにも遠すぎて、もう僕のタイムペッパーでコントロールできる範囲を超えているのだから。これほど長い歳月を経てようやく、HANAの『Cold Night』を聴くチャンスが巡ってくるのだ。
けれど、これも僕自身が選んだ道だ。誰を恨むこともできない。
僕はパソコンの前に歩み寄り、電源を入れた。やはりまだダイヤルアップ接続だったけれど、意外なことにパスワードをまだ覚えていた。試してみると一発でログインできた。パスワードは昔のままの、単純な数字だった。
ネットの読み込み速度は呆れるほど遅い。けれど、この遅さが懐かしい記憶を呼び覚ましてくれた。
高校2年生の時の校慶運動会(文化祭記念運動会)の日、僕はクラスの観覧席で一人イヤホンを耳に当て、『CLANNAD』を観ていたのだった。これっぽっちも興味のない運動会に強制参加させられ、応援することもなく、ただ一人で一日をやり過ごしていた。
もともと運動神経が壊滅的だったから、運動会の選手に選ばれることもなかった。それがかえって、クラスの中で自分を孤立させる助けになっていたのだ。
けれど、この世界線ではもうそんな孤立は無理かもしれない。今朝のあのショッキングな発言の数々は、教室にいたクラスメイトたちに相当なインパクトを与えてしまったはずだ。
きっと多くの生徒が「うちのクラスに、あんなヤバいやつがいるのか……」と呆然としていたに違いない。
ネットでアニメの情報を調べてみたけれど、画面に並んでいるのは見たこともないタイトルばかりだった。観たことがないどころか、名前すら聞いたことがない。どうやら二十年後の世界線でも『メダリスト』の第2期観賞はおろか、第1期すら拝めそうにない。そもそもあの漫画がこの世界で誕生するかどうかすら怪しいものだ。
ネットの通信速度が遅すぎるため、正直言ってBT(BitTorrent)でダウンロードする期待すら持てない。僕は諦めてパソコンを落とし、自分の部屋へ戻ってベッドに横たわった。MP5プレイヤーを開くと、中には『CLANNAD』、『瀬戸の花嫁』、『かのこん』といった作品が詰まっていた。
一話を再生してみる。昔のアニメは本当に作画や作り込みが丁寧だ。今の……元いた時代の作品とは雲泥の差がある。……まあ、これはノスタルジー(懐古趣味)補正がかかっているからそう感じるだけかもしれないけれど。昔の人が「恐らく世人は尽くすこと能わず、多くは古を貴び今を賤しむ、故に情を称して狂言するのみ」と言ったように。
タイムペッパーを破った僕には、まさにこの言葉を口にする資格がある。というか、現代(いまのこの時代)において、この言葉を吐くのに最もふさわしい人間こそが僕なのだろう。
なぜだか突然、胸の奥から万能感(意気揚々)が湧き上がってきた。まるで革命を成功させた偉人が、丘の上に立ち、旗を高く掲げているかのような気分だ。
……いや、よそう。世界中でタイムペッパーを破った人間が僕一人だけなんてことはあり得ない。けれど、タイムペッパーはほんの少しの差異で新しい世界線へと分岐していくのだ。数億、数兆もの世界線が存在する中で、僕と同じ世界線にたどり着く人間なんて存在するはずがないのだから。
◇
ようやく午後五時になった。みんな学校が終わって下校した頃だろう。僕の話題でどれほどの生徒が持ちきりになっているのだろうか。……あるいは、誰一人として僕のことなんて気にしていないのかもしれないけれど。
突然、家の電話が鳴り響いた。僕は急いで受話器を取った。電話の主は父さんで、今日の夕飯は何がいいかという確認だった。
僕は好き嫌いがないから何でもいいと答え、家で食べると伝えた。
受話器を置こうとしたその瞬間、再び電話が鳴った。
「はい、もしもし。どちら様ですか?」
「あなたに用があるのよ。タイムペッパーを破った、施くん」
若い女の子の声が受話器から聞こえてきた。
「えっ……誰ですか!? ちょっと待ってください、僕に……」
相手が誰なのか問い詰めようとしたけれど、何の答えも返ってこないまま、電話は一方的に切られてしまった。
……あり得ない。僕がタイムペッパーを破ったことを知っていて、しかも僕の自宅の電話番号まで知っているなんて。
クラスの生徒だろうか? 僕が未来から戻ってきたという事実を知っているのは、詳しく知っている心理カウンセラーを除けば、クラスメイトと担任教師だけだ。
放課後というこのタイミングから推測すると、授業が終わった後、何らかの手づるで自宅の電話番号を調べてかけてきたクラスメイトの可能性が高い。
けれど、うちの電話番号を知っているのは担任の先生くらいのはずだ。それに今の声は、担任のような落ち着いた大人の女性の声ではなかった。
僕は激しい混乱に陥った。あの電話の声は、胸の奥に薄暗い恐怖を植え付けると同時に、熱い塊のような感情を燃え上がらせた。……まさか、僕と同じようにタイムペッパーを破ってこの世界線へやってきた人間が他にいるのだろうか? それとも、この世界線にも実はタイムペッパーが存在しているのだろうか?
時空跳躍をして以来、この世界にタイムペッパーがあるかどうか調査したことすらなかった。けれど担任とのやり取りから察するに、この世界にタイムペッパーが存在しているようには思えなかった。
自宅の番号以外、誰の電話番号も覚えていない僕は、一番手っ取り早い手段——110番に通報して警察に訊ねるという行動に出てしまった。
案の定、警察官からは「お客様、一度病院を受診された方がよろしいのでは……?」と心配される始末だった。
そうだ、僕は馬鹿だ! 大馬鹿野郎だ!
あらゆる可能性を排除していくと、高一と高二でずっと同じクラスだった生徒くらいしか思い浮かばない。けれど一人ひとりに尋ねて回るわけにもいかないし、聞かれたところでまともに答えてくれる保障もない。そんなことをしたら、さっき警察に電話した時のように完全に頭のおかしいやつ扱いされてしまう。
僕はテレビをつけ、懐かしいブラウン管の低画質画面を眺めたけれど、そこに流れるアニメもCMも一切頭に入ってこなかった。
頼むから勘弁してくれ。この作品はサスペンスミステリーじゃないんだ。甘酸っぱい青春キャンパスラブコメのはずなんだ。どうして僕の歩む道をこんな風に歪めてしまうんだ。
やがて家族が帰宅した。僕はあらかじめ炊飯器のスイッチを入れておいたので、彼らが適当におかずを作ってくれた。お腹を満たした後、急いで薬を飲み下した。薬こそが僕に平穏をもたらしてくれるのだから。
……平穏なんて嘘っぱちだ。せっかく薬を飲んだというのに、僕の正体を知る「謎の人物」の影におびえなければならないのだから、平穏なんてほど遠い。
もし高一と高二でずっと同じクラスだった生徒だとすれば、捜索範囲は最小限で済む。
けれど、もし今日僕が教室でぶちまけたあの発言が学校中に知れ渡っていたのだとしたら……対象は学校全体に広がり、もはや特定なんて不可能になってしまう。
両親に「高一の時の連絡網(連絡表)はないか」と聞いてみたけれど、「そんなものはない」と素っ気なく返された。
となると謎は深まるばかりだ。まさか心理カウンセラーが僕の秘密を外部に漏らしたのだろうか? 守秘義務があるはずだし、仮に漏らしたところで、誰もそんなおとぎ話を信じるはずがない。
タイムトラベルができる人間が存在するなんて、突拍子もない話を誰が真に受けるというのだ。
これが僕の執筆している小説の中でなかったら、僕だって「未来から来た」なんて言っているやつの言葉なんて絶対に信じないだろう。
けれど最終的に、混乱を極めた脳みそは疲弊しきり、睡眠薬の強力な催眠作用には勝てず、僕はそのまま深い眠りへと落ちていったのだった。




