第六章 学校へ戻る
お医者さんが信念を貫いてくれて本当に良かった。あるいは、心理カウンセラーさんが間に入って粘り強く説得してくれたのかもしれない。とにかく感謝、感謝、感謝だ。
どうにかこうにか、手に入れるべき薬はすべて無事に確保できた。
次に待ち受けているのは、学校への復帰だ。これこそ僕が最も向き合いたくなかった、けれど避けては通れない現実だった。
父さんに校門の前まで車で送ってもらい、そこで降ろされると、父さんはそのまま仕事へと向かっていった。
お父さん、本当にありがとう。
この年齢(魂の歳)になって再び高校のキャンパスに足を踏み入れるというのは、想像以上にハードルが高い。胸の奥から湧き上がる羞恥心と恥ずかしさの葛藤だけで、精神がズタズタに削られていく。
よし、まずは警衛(守衛さん)に「3年1組はどこですか?」と聞きに行こう。
……いやいや駄目だ、そんなことをしたら一発で不審者扱いされてしまう。おとなしく自分の記憶だけを頼りに探すことにしよう。
幸いにも、校舎の構造はすぐに思い出せた。僕の通っていた学校は昔から変わらず、1年生が4階、2年生が2階、3年生が3階と決まっているのだ。だから探すのはそれほど難しくなかった。
ちょうど講義(授業)の最中だったため、廊下には人っ子一人いない。自分のペースでゆっくり歩いて進むことができる。
目の前に広がるのは、何もかもが懐かしい景色だった。記憶の断片が、頭の中で少しずつ、けれど確実に蘇ってくる。
けれど、最終的には教室のドアを開けなければならないのだ。意を決して(フードを深々と被ったままだが)教室の中へと足を踏み入れた。
「施懷華、戻ったのか。じゃあ早く自分の席に着きなさい」教壇に立つ先生が僕に声をかけてきた。
……で、僕の席ってどこだっけ?
教室を見渡すと、空いている席が2つあった。これは参ったな。席を間違えて座ってしまったら、恥ずかしさで死んでしまう。
「あの……先生、授業中にすみません。僕の席ってどこでしたっけ?」
「ん? お前の席はそこだろ。急に何を言い出すんだ? 体調は大丈夫なのか、もうしばらく保健室で休んでいくか?」
先生は前から2列目、後ろから2番目の席を指さした。どうやら僕が病欠していた理由は高熱だと処理されていて、その熱で脳ミソがすっかり茹で上がってしまったと思われているらしい。
「あ、はい。ありがとうございます、先生」
「オタク華、本当に大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。ちょっと頭がぼーっとしてて、状況が掴めてないだけだからさ、ははは……」僕はおちゃらけた態度でその場をごまかそうとしたけれど、そのせいでかえって周囲のクラスメイトたちから、より一層怪訝な視線を浴びることになってしまった。
あ……そうだ、思い出した。僕の高校時代には、一度だけ「輝かしい」時期が存在していたのだ。高校3年生の時、周りのクラスメイトたちが僕をクラスの輪に引き入れようと手を差し伸べてくれた。僕は先生のカウンセリングを受けながら、少しずつ、本当に少しずつクラスに馴染んでいったのだ。そのおかげで、卒業アルバムの片隅にも僕の居場所が残されたのだった。
それって、まさに「いま」のことじゃないか?
けれど教室を見渡してみても、周りにいるのはすっかり忘れてしまった顔と名前ばかりだった。
急にクラスメイトと話すのが怖くなり、彼らをただの「見知らぬ他人」として見てしまう自分に気づく。こんな態度をとっていたら、どんどん気まずくなってしまうのに。
胸の中で激しい葛藤が渦巻く。
タイムペッパーを破る量が少なすぎたのだろうか。もっと前の時代、高校2年生の頃まで戻るべきだったのかもしれない。そうすればクラスメイトの顔や名前を知らなくても、何一つ不自然ではなかったのだから。
けれど、この世界線が僕にくれた幸運は捨てるには惜しかった。これ以上、英語の授業に苦しめられるのは絶対に御免だ。僕の日本語は決して完璧とは言えないけれど、英語に比べればはるかにマシなのだから。僕の英語能力なんて、英検初級(GEPT初級)すら落ちるレベルで悲惨なのだ。
「すみません、先生。少しだけ時間をください」
僕は意を決して立ち上がった。周りからどれだけ不審な目で見られようが、どれだけ馬鹿げた発言だと思われようが構わない。どうせもう崖っぷちなのだから、なりふり構っていられない。
「施懷華、急にどうしたんだ?」
「クラスのみなさん、本当にすみません。実は僕、記憶喪失(失憶)になってしまったんです。みんなの顔も、名前も、先生の顔も名前も、いつどんな授業があるのかも、教室の場所も、授業の内容も……何から何まで、綺麗さっぱり忘れてしまいました」
僕は教室全体を見回した。その視線の先に、陳逸樺の姿を見つけた。彼女の姿だけが、僕の記憶から決して消え去ることのない唯一の存在だった。
「えっ、マジで……!?」
真っ先にリアクションをとったのは先生だった。その表情はまるで「もうすぐ指定科目試験(指考)だというのに、何を冗談言ってるんだ!? 私がこれまで教えた授業は全部無駄になったっていうのか!?」と絶望しているかのようだった。
ある意味では、まさにその通りだ。ごめんなさい、先生。
「じゃあ、お前が今朝病院に行っていたのって……その記憶喪失のせいなのか?」隣の席のクラスメイトが僕に尋ねてきた。
「あ……うん、まあそんな感じかな」僕は嘘をついた。けれど、これくらいは「優しい嘘(善意的謊言)」の範囲内だろう。
突如として教室の中が蜂の巣をつついたような騒ぎになり、大勢のクラスメイトが僕の席の周りに押し寄せてきた。
「ええっ!? じゃあ僕の名前が楊曉郁だってことも本当に覚えてないの!?」
「ていうか、覚えてないのにどうやって自分の教室までたどり着いたのさ?」
「通りでさっき教室に入ってきた時の様子がおかしいと思ったんだよ!」
「おいおい、名前を忘れたのは百歩譲っていいとして、俺のあだ名くらいは覚えてるだろ!?」
「オタク華、大丈夫なの……? 本当に記憶が飛んじゃったの?」
「……本当に、私のことまで忘れちゃったの?」
最後にそう尋ねてきた彼女の名前は、陳逸樺。彼女だけは、僕の記憶から消えていなかった。「女に目が眩んで友達を忘れる(見色忘友)」と言われても言い訳できないくらいだ。
「みんな、本当にごめんなさい。すっかり忘れてしまいました。とりあえず今は授業に集中しましょう。話を聞いていれば、何か思い出すきっかけになるかもしれないから」
「……これは担任の先生にも報告しておいた方がよさそうだな。まさかお前、担任の顔まで忘れてるんじゃないだろうな?」
「はい……すみません……」
タイムペッパーを破る前に、卒業アルバムを開いてみんなの顔を確認しておくべきだった。今のこの状況は、あまりにも気まずすぎる。
「コホン! よし、みんな教科書に戻るぞ。さっきは太平洋の海流の話をしていて……」
こうして、どうにかこうにか地理の授業は終了した。僕にとっては非常に実りの多い講義で、たくさんの知識を再吸収できたような気がする。
休み時間になると、僕は慌てて机に突っ伏し、狸寝入りをして時間をやり過ごそうとした。……けれど、無駄だった。すでに大勢のクラスメイトが僕の席を取り囲んでいる。その中には、高校時代の僕と親しかったと思われる見覚えのある顔もいくつか混ざっていた。
「なあなあ、お前が『オタク華』って呼ばれてるのは、お前が筋金入りのオタク(宅)だからなんだぞ。それくらいは覚えてるか?」
「……それは覚えてるよ」数年後の世界でも、陳逸樺が僕をそう呼び続けてくれていたからこそ覚えているだけの話なのだが。
「俺の名前は古文彥。みんなからは『燕子(ヤンジ=ツバメ)』って呼ばれてて、お前もそう呼んでたんだぞ。本当に忘れちゃったのか?」
「え? 燕子……? 僕の知り合いにそんな名前の人いたっけ……?」
「うわあああん! ひどいよお前! 俺、めちゃくちゃショックなんだけど!」
みんなが代わる代わる僕の元へやってきては、自己紹介をしてくれた。記憶の引き出しと合致するものは思い出すことができたけれど、引き出しが存在しないものはどうあがいても思い出せなかった。
それに、この状況の中にも「ランダム性」が紛れ込んでいるのかもしれなかった。僕の記憶に存在しないはずの人間がこの教室に登場し、僕の思い出をぐちゃぐちゃにかき乱しているのだとしたら……本当に腹立たしい限りだ。
けれど、これも元はと言えば僕自身がタイムペッパーを破ったことが原因なのだ。誰も責めることはできない。「くそくらえ、ランダム性」と心の中で吐き捨てるのが関の山だった。
◇
「何が『病院を受診して薬を飲んだら記憶喪失になった』だ! そんなの絶対その医者が藪医者なんだろ! もうそんな医者の薬なんて飲むんじゃない! 俺はあの病院を訴えてやる!」
やばいことになった。両親への言い訳を完全に失念していたのだ。記憶喪失の件は、担任の先生経由で僕の保護者へ連絡がいってしまっていた。
せっかくここまで苦心して舗装してきた道が、たった一つの不手際ですべて台無しになってしまった。
自分の準備不足と詰みの甘さが憎かった。この世界線に踏みとどまることすらできないなんて。
まさか裁判沙汰になった時、裁判官に向かって「裁判官閣下、実は僕は未来からタイムスリップしてきた人間なんです。だから昔の出来事を忘れてしまっているんです」なんて口にするわけにもいかないだろう。
そんなことを言えば、翌日のニュースの一面を飾ってしまうかもしれない。トップニュースにはならなくても、世間にちょっとした波紋を呼んでしまうのではないだろうか? ……いや、考えすぎかもしれないけれど。
とにかく、もう八方塞がりだ。こうなったら、もう一度タイムペッパーを破るしかない。今度こそ「2年1組」の時代までしっかり遡るのだ。僕がみんなのことを知らなくても、みんなも僕のことを知らない……そんな真っ新な時代へと。
僕はポケットから、残り半分を切ったタイムペッパーを取り出し、さらにその端を小さくちぎり取った。




