第三章 家に帰る
再び目を覚まして携帯の画面を確認すると、もう夜になっていた。
どうやら本当にかなり酷く打たれたらしい。こんなにも頭がグラグラと眩暈を起こすのは久しぶりだ。
そういえば今の僕は、睡眠薬を飲まなくても眠れるんだった。もしかすると、この若い身体にはまだ薬物耐性や依存がついていないからかもしれない。
(元いた時代では)一日十錠も薬を飲んでいたのに、今は一錠も飲まずに済んでいる。
そうだ、みなさんにはまだ紹介していなかったけれど、僕がずっと片思いしている高校の同級生の名前は陳逸樺という。
なぜ僕が彼女を好きになったのかといえば、僕の高校時代において、彼女が占める割合があまりにも大きかったからかもしれない。僕の高校時代の思い出といえば、彼女以外にはほとんど誰も存在しないくらいだ。
高校時代の僕は、ほとんどずっと孤独だった。彼女が話しかけてきてくれるまでは。彼女のおかげで、僕は少しずつ交友関係を広げていくことができたのだ。
別にクラスのみんなからハブられていたわけではない。むしろ僕の側から周囲を遠ざけていたのだと思う。自分は成績がどん底だから、みんなの友達になる資格なんてないと思い込んでいたから。
そんな中で唯一、僕の成績なんて気にせずに話しかけてくれて、一緒に遊んでくれたのが彼女だった。
そろそろ家に帰らなくちゃな。いつまでも救急外来のベッドを占領して、他の患者さんの邪魔をするわけにはいかない。
「哲兄ちゃん、今日は車で来たの? それとも叔母さんと一緒?」
「俺? 俺は車で来たよ。体調が大丈夫なら、家まで送っていくけど?」
「あ、うん、ありがと。お医者さんを呼んでもらって、退院していいか確認してくれる?」
「おう、わかった」
「サンキュ」
今日の午後に彼女と過ごしたおしゃべりの時間を思い返すと、今でも胸の奥がキュンと甘酸っぱく疼く。もちろん事故のショックで動悸がしているわけじゃなくて、本物の「胸がときめく」ってやつだ。
余韻に浸っていると、医師がやってきた。
状態を確認してもらうと、塗り薬の処方と後日の再診を指示されただけで、無事に病院を出る許可が下りた。
両脚にたくさんの擦り傷や打撲を負っているため、歩くとどうしても千鳥足になってしまう。
「車をここまで回してくるから、ここで待ってな」そう言って従兄は去っていき、僕は救急外来の入口にある椅子に一人残された。
携帯電話を開く。うーん、未だにこのフリック入力じゃないテンキー(9文字)入力には慣れないな。すっかり26キー(QWERTY)入力の形状に慣らされてしまっていたらしい。
『今日はわざわざお見舞いに来て話し相手になってくれてありがとう。診察が終わって大丈夫だったよ。あとは通院するだけで良いって』
しばらくすると、彼女から返信が届いた。
『なら良かった! 無理しないで大事にしてね XD』
思わず口元がほころんだ。
そこへ従兄が車を回してきた。この頃の彼の車は買ったばかりで、新車独特の匂いがまだ漂っている。
「足、大丈夫か? 肩でも貸そうか?」
「ううん、自分で歩けるから……」僕は必死に足をひきずりながら車に乗り込んだ。
「ふぅ……空気が美味いな」
さっきまでずっと救急外来にいたから、周囲は消毒液の匂いばかりだった。あの匂いも嫌いじゃないけれど、やっぱり外の空気の方がずっと新鮮に感じられる。
ついに自宅へ到着した。梁や柱も崩れ落ちてはいない。
おじいちゃんの部屋へ向かい、元いた世界線ではとっくに亡くなっていたおじいちゃんの姿を見に行く。
「おお、阿華(ア華)、帰ってきたのか。叔母さんから車に跳ねられたって聞いて心配したぞ、大丈夫か?」聞き慣れた懐かしい台湾語の声が響き、僕は思わず涙がこぼれそうになった。
……
……
待てよ。僕は突如として違和感を覚えた。状況がおかしい。この時期のおじいちゃんは、ベッドに横たわって人工呼吸器に繋がれて生きているはずじゃなかったか?
元いた世界線での僕は、冬休みの間に病院でおじいちゃんの付き添い(介護)をしていた。だが、痰が喉に詰まっているのに気づくのが遅れ、おじいちゃんは缺酸素で顔面蒼白になってしまったのだ。ナースコールを押しても誰も来ず、僕はパニックになって泣き叫びながら病室を這い出し、ナースステーションへ助けを求めた。急いで叔母さんに電話をかけたものの、号泣してしまって一言も喋れなかった。
その場にいた唯一の家族だった僕は、医療スタッフから「気管切開(気切)をするかどうか」の同意を迫られ、気管切開が何なのかも分からないまま、言われるがままに頷くしかなかった。
あのトラウマ的な記憶は、僕にとって恐ろしく、そして今なお自分を責め続けている「忘れられない記憶」の一つなのだ。
それなのに今のおじいちゃんは、自分で歩くことすらできている。……この世界でも、また「ランダム性」が働いたのだ。
けれど、このランダム性は良い方向への変化だ。もし僕が自分だけの幸せを追い求め、他人の幸せを顧みないのだとすれば、タイムペッパーを破ったのはあまりにも自私(身勝手)な行為ということになってしまうのだから。
「うん、大丈夫だよ。ちょっとした擦り傷だけだから」僕は台湾語でおじいちゃんに返事をした。
自分の部屋に戻ると、部屋の中はまるで自分のものではないと思えるほど綺麗に片付いていた。
机やインテリアの配置も昔のままで、僕がまだ何も手を加えていない状態だ。懐かしい感覚が再び胸に込み上げてくる。
僕は慌ててFacebook(FB)を開き、投稿した。
『痛たた……今日、台中でも評判の悪いあのバスに跳ねられた。全身傷だらけで痛すぎる』
同時にQQグループにも投稿した。……当時の僕はまだ新参者だったけれど、「千夏」というアニメの海賊版字幕組(海賊版字幕グループ)に参加していて、そこでたくさんの台湾や中国のオタク仲間と知り合ったのだ。みんな志を同じくする大切な仲間たちだった。
すぐに大勢の人から心配のコメントが寄せられた。これも、元の世界線ではもう二度と味わえなくなっていた温もりだ。
元いた世界線では、僕のうつ病の発症と政治的な偏執が重なったことで、こうした中国の友人たちを含む、多くのものを失ってしまっていたのだから。
今回の人生では、そうした過ちを絶対に回避しなければならない。
こうなると僕は酷く忙しくなる。自分の恋愛を保ちつつ、友情も大切にし、さらには家庭での介護もこなさなければならない。……あ、それと大学の課題や単位のことも忘れちゃいけないな。
けれど、この忙しさがあるからこそ、僕は自分がこの世界線に確実に存在しているのだと実感できるのだ。
最初にタイムペッパーを破った時、僕が最も恐れていたのは「ランダム性」と、「古い魂が、新しい肉体に宿る」ことによって生じる「自分は本当は存在していないのではないか」という不気味な異物感だった。
今となっては、ようやく胸を撫でおろすことができる。
バイク屋に電話をかけ、僕が持ち主であることを伝えると、2週間ほどで修理が完了すると言われた。
体を怪我してしまったから、数日間は大学を休むことになるだろう。
週末と合わせれば一週間ほど休養できるから、それからは大学へ復帰しなければならない。けれど当分は叔母さんのスクーター(小綿羊)を借りることになるだろう。僕の125ccバイクで台湾大道を飛ばすことはもうできないのだ。
そういえば確認していなかったけれど、道路の名称はすでに「台湾大道」に変更されているんだろうか、それともまだ「中港路」と呼ばれていた頃だろうか。
まあ、そんなことはどうでもいい。大切なのは自分のやるべきことをしっかりこなすことだ。僕はこれからの未来の人生を、自分の手で塗り替えていくのだから。
まずは中国医薬大学付属病院を受診すること。重度のうつ病は僕と一緒にこの過去へ戻ってきてしまっている。身体的な外傷はタイムペッパーで過去へ持ち越されないかもしれないけれど、精神疾患や悲観的な思考パターン、常に「死にたい」と考えてしまう自殺願望は、そのまま僕の中に留まり続けているからだ。
気づいてしまった。それらはすべて僕の心の奥底に潜んでいて、まだ本格的に暴走していないだけ、完全に掘り起こされていないだけに過ぎないのだと。
大学三年生になれば、授業のグループワーク(班級分組)がきっかけで、僕が直視したくなかったトラウマの蓋が開け放たれてしまう。
さらに代替役(代替兵役)の期間にはそれが完全に白日の下に晒され、結果として途中退役(停役)へと追い込まれ、何年も就職する勇気を失い、「卒業即失業」の泥沼にハマってしまうのだ。
そのバッドエンドルートを回避するために、まずやるべきことは「自分の心と向き合うこと」だ。
これは敗北宣言ではない。逃げることは「間違った道」を選ぶことと同義ではないのだから。正しい人と出会えさえすれば、たとえ逃避であっても、それは正しい道になり得る。
大学三年生の時に読んだ漫画『銀の匙』にそう書いてあった。あの作品は、当時の僕が生きる道を見つける手助けをしてくれたのだ。
そう、グループワークなんて一人でやればいい。他の人と組む必要なんてない。教授さえ説得できれば、一人でレポートを作成することなんて造作もないことだ。むしろ僕一人でやった方が効率が良い。僕は根っからの「一匹狼(獨行俠)」なのだから。
けれど今夜はもう遅いし、今期のアニメも改編期を迎えている。だから字幕組の仕事は一度すべて断って、大人しく寝て体を休めることにした。
……とは言ったものの、全く眠れない。睡眠薬の助けがなければ、まともに眠ることすらできない身体なのだ。
翌朝目を覚ますと、全身が痛んだ。けれど、これくらいなら何とか耐えられる。
幸いなことに昨日ネットで事前予約を入れておいたので、今日は哲兄ちゃんに車を出してもらって中国医薬大学付属病院へ向かうことにする。
精神科(身心科)に定期通院して、兵役免除の診断書(免役證明)を手に入れるのが先決だ。そうすれば、兵役期間中に再び心身を擦り減らされずに済む。
803国軍病院の精神科医から言われた言葉が、今でも耳から離れない。
「耐えていればそのうち過ぎ去るものだよ。泣いたって無駄だ。君は病気なんかじゃない。さあ、次の患者さんが待っているから出て行きなさい」
あの不快な体験も、絶対に回避しなければならない出来事の一つだ。
もっとも、今の僕は重度の発作を起こしているわけではなく、対人恐怖症(社交恐懼症)が少し出ている程度だ。焦らず段階を踏んでいこう。
美徳大樓(病院の病棟)に到着すると、従兄には先に帰ってもらい、僕は一人で病院内で待つことにした。当日に飛び込みで予約を取ったため、受付番号はかなり後ろの方だ。相当な待ち時間を覚悟しなければならない。
エレベーターで5階へ上がる。ここは精神科の成人外来だ。
現在の呼び出し番号はまだ56番。僕の番号は103番だ。習慣でポケットを探り、二つ折りケータイを取り出して「スネークゲーム(貪食蛇)」をプレイし始めた……。
大人になってからの僕の習慣といえば『パズル&ドラゴンズ(パズドラ)』を遊ぶことだったけれど、この時代にはアプリがリリースされて間もないか、あるいは僕がスマホを持っていないせいで遊ぶことができない。
確か、僕が生まれて初めて手に入れたスマートフォンは、従姉(表姊)が機種変更した際に譲ってくれたお下がりだったはずだ。
それを受け取れるのは確かあと2年先のことだ。……いっそのこと、自分でスマホを買いに行ってしまおうか。
「103番、103番の施さま」ゲームに興じていると、ようやく僕の番号が呼ばれた。
さて、自分の症状をどう説明したものだろう。医師の第一声は間違いなく「今日はどうされましたか?」だろうから。
まさか「未来の僕はあなたの外来に通っていたんですよ」なんて言えるはずもない。そんなことを言えば精神病棟に一ヶ月ほど強制入院させられてしまう。そんなの耐えられない。精神病棟ではスマホも使えないし、外部との連絡手段もほとんど断たれてしまうのだから。
あそこは真剣に療養したい時くらいしか入りたくない場所だ。
「こんにちは。今日はどのような症状で精神科を受診されたのですか?」
案の定、医師の第一声はその質問だった。
「クラスの輪に馴染めなくて……対人恐怖(社交恐慌)があるんです。それに授業のペースについていけなくて、それも怖くて。あとは……その、死にたいという気持ち(自殺念慮)があります」最後の言葉を口にするのは一番勇気が要ったけれど、最も重要なポイントだった。
事実、僕は毎日自分が死ねることを祈っていた。けれど痛みは怖いから、「死にたいけれど死ねない」という量子重ね合わせのような状態に陥っていたのだ。
「なるほど……。これまでにカウンセリング(心理諮商)を受けられたことはありますか?」
正直なところ、中国医薬大学付属病院のカウンセリング費用は年々高騰していく予定だ。今の段階ならまだ安いけれど、元の世界線での価格は僕の経済力では到底払えない金額になっていた。
「自分には不要だと思います。大学内でカウンセリングを受けていますので」もちろん嘘だが、病院側に確認する術はない。
「ふむ、私としてはしばらくカウンセリングを試してみて、それでも効果がない場合に受診されることをお勧めしますよ。精神科の薬には依存性がありますから、最初から投薬治療を行うのはあまりお勧めできません」
「大丈夫です。まずはラツーダ(樂途達)を半錠だけ処方していただけませんか?」
「ラツーダですか……ふむ、なぜそのお薬の名前をご存知なのですか? 事前にネットで調べられたのですか?」
元の世界線で僕が服用していた薬といえば、ラツーダ半錠、リボトリール(利福全)一錠、レメロン(彌鬱停)三錠、マイスリー(悠眠)一錠、ランドセン(克癲平)二錠、トリンテリックス(除憂錠)二錠、それに手の震えを抑えるインデラル(心律錠)一錠という、膨大な量の薬だったのだ。
薬を飲まなければ到底眠れず、翌朝には激しい自我嫌悪に襲われる毎日だった。
ところで……この世界線にはタイムペッパーは売られているのだろうか?
「先生、奇妙な質問でお恥ずかしいのですが……この近くにタイムペッパーショップはありますか?」
「タイムペッパーショップ? それは一体何ですか?」
「あ……いえ、なんでもありません」
「?」
まだ発明されていないのか、あるいはこの世界線にはタイムペッパーという存在そのものが無いのか。
どうやら最初の跳躍で、「タイムペッパーが存在しない」というランダム性を引き当ててしまったらしい。少なくとも僕のポケットの中には、まだ半分残ったタイムペッパーがあるけれど。
もしかすると、タイムペッパーが存在する世界線の方が少数派なのかもしれない。己の欲望に任せてタイムペッパーを破り、タイムペッパーの無い世界線に迷い込んでしまうなんて、僕はなんて愚かなのだろう。
「カルテを確認しましたが、まずはプロザック(百憂解)から試してみるのはいかがですか?」
「あの、できればランドセンを二錠追加していただけませんか? その方が眠りやすいんです。実は今、不眠症にも悩まされていて……」
「では先にリボトリールを一錠処方しておきましょう。半月後の再診時に様子を見ましょうね」リボトリールとランドセンは成分こそ同じだが、用量が異なる。リボトリール一錠はランドセン四分の一錠に過ぎず、僕にとっては到底足りないのだ。
「駄目です、それじゃ本当に眠れないんです! それにさっき事故に遭ったばかりで全身が痛くて……お願いです先生、二錠処方してください」
「そこまでおっしゃるなら二錠出しておきましょう。ただ、半月後の再診時に『寝すぎてしまうかどうか』を教えてくださいね」
正直に言えば、間違いなく寝すぎる。けれど今の段階でそれを口にするわけにはいかない。
中国医薬大学付属病院で薬を受け取った後、従兄に電話をかけて迎えに来てもらった。
これで兵役回避ルートのフラグは立ったと言えるだろう。次に進むべきは、恋愛ルートだ。
けれど……今の僕には足となるバイクも無く、体中が痛む状態だ。おとなしく静養に専念すべきだろうか……。
いや、まずはタブレットかスマートフォンを手に入れに行くのが先決だ。
「哲兄ちゃん、携帯ショップに寄ってくれない? スマートフォンが欲しいんだ」
「いいよ、家の近くに最近台湾モバイルがオープンしたから、そこへ連れて行ってやるよ」
手元に金銭的なゆとりがあるうちに、急いでスマホを購入しておこう。ゲームもできるしチャットもできる、なんて素晴らしいのだろう。
こうして僕の初代スマホ「ZenFone 5」が手に入った。……待てよ、ZenFone 5って今年発売だったっけ? 一後年(2年後)じゃなかったか?
まあいい、急いでGoogle Playを開き、必要なアプリをインストールしていこう。……ここで驚いたことに、『パズル&ドラゴンズ』が検索に引っかからないのだ。代わりにパズドラのパクリとして有名な某大作ゲームが存在していて、ネットでさらに調べてみると、なんとそのパクリゲームが「パズルRPGの始祖」という扱いになっていた。パズドラなんて最初から存在しないのだ。一体この世界線はどうなっているんだ!? それに『Pokémon GO』まで存在するだって!? あれは数年後にリリースされるはずのゲームじゃないのか?
まあいい、そんなことは重要じゃない。FacebookとMessengerさえあれば十分だ。
幸いなことに、FBの存在は帰宅した初日に確認済みだ。
なんといっても、僕が過去に戻ってきた一番の理由は「引き出物を受け取る側」ではなく「引き出物を配る側」になりたいからなのだから。
僕は急いで彼女にメッセージを送った。
『スマートフォンを手に入れたよ! これからはいつでもメッセージを送ってね〜』
ともあれ、きっかけを作ることが大切だ。この一通を送るだけでも散々苦悩したけれど。
……しばらく待った。
既読がついた。
……返信は来るだろうか?
僕の心は不安で押し潰されそうだった。
『おめでとう! アンドロイドにしたの? それともアボカド(酪梨)?』
アボカド? この世界では「アボカド」なのか? さっき携帯ショップで契約した時、ロゴマークが一回かじられたリンゴ(Apple)ではなく、一回かじられたアボカドに見えたのは気のせいじゃなかったのだ。
『アンドロイドだよ。アボカドは高すぎて買えないよ』
『でも私はアボカドの方が使いやすいと思うな〜。何買ったの?』
僕は痛感した。自分は本当に会話が下手くそだ。彼女がボールを投げてくれてばかりで、僕はそれを受け止める(返球する)ことしかできず、自分からボールを投げ返すことができない。
『ASUSの新機種だよ。Intelのプロセッサーを使ってるからすごく安いんだ』
『へえ〜そうなんだ! 全然知らなかった』
頼む、頼むから僕の脳みそ、何か話題をひねり出してくれ! 彼女にばかり話題を作らせるんじゃない!
『そういえば、君がアボカド使ってたなんて知らなかったよ』
死にたい。一瞬で脳内をその言葉が駆け抜けた。
『うん、アボカド本当に使いやすいよ! スマホ買うって知ってたら、絶対にアボカドにしなよって勧めてたのに』
『僕はもともとロリコンだからさ、アボカド(酪梨=ロリと同音の駄洒落)なんて使ってたら警察に逮捕されちゃいそうだよ』
死にたい。再び脳内を絶望が駆け抜ける。
『爆笑! 自覚あるんだね、このロリコンめ XD』
……やっぱり生きていよう。なんとか話題がつながった。
『そうさ! 僕は誇り高きロリコンなのだ!』
『もし彼女ができたら、絶対に私が真っ先に通報してあげるね XD』
『おいおい! 話を飛躍させないでよ。ロリコンなんて二次元限定の産物なんだから、現実にロリな彼女を作るわけないじゃないか!』
『ふーん、じゃああなたはどんな人がタイプなの?』
うぐっ……なんという鋭いストレートボール。
『古人も「身を苦しむるかな、我に一言の難きを教う」って言ってるでしょ。急に言われても答えに詰まっちゃうよ』
『……もしかして、まだ私のこと好きなの? XD』
直球どころか、真芯を撃ち抜いてくるような一球。僕は何も考えずに返信を打ち込んだ。
『そうだよ。だったら駄目かな?』
……既読がついた。
ストレートに言いすぎただろうか? それとも、彼女はどう返信すべきか困惑しているのだろうか? 僕の心臓は激しく波打ち、鼓動が止まらない。
三分後、ようやく彼女からの返信が届いた。
『じゃあ今夜、東海大学まで来られる?』
えっ? これはOKなの、それとも拒絶? 直接会って話そうってこと?
『もちろん行けるよ!』
『じゃあ夜、ルース礼拝堂(路思義教堂)の前で待ってるね。行き方は分かるでしょ?』
『うん、分かるよ』
その時、部屋の外でドカンという大きな衝突音が響いた。僕は慌てて部屋を出て確認に向かった。音の発生源はおじいちゃんの部屋だ。
僕は迷わず部屋のドアを開けた。そこには、床に倒れ込んでいるおじいちゃんの姿があった。
えっ? なんでこんなことに……!?
部屋の床に横たわり、いくら呼びかけてもピクリとも動かないおじいちゃん。唇は紫色に変色し、顔面は蒼白だ。体を揺すり、直接胸に手を当てて確認してみたけれど、心臓の鼓動はほとんど感じられなかった。
僕は慌てて心肺蘇生(CPR)を開始し、119番通報をした。病院が家からそう遠くない場所にあったため、救急車はすぐに到着した。
救急隊員が引き継いでCPRを継続する。
「喉に痰が詰まったのかもしれません! 早く、早くお願いします!」僕はパニックになり、今にも泣き出しそうだった。けれど実際には涙は出なかった。35歳の魂は、こうした危機的状況に対して冷静に対処できるようになっていたのだ。それでも焦燥感はどうしても抑えきれない。
救急隊員は素早くAEDを取り出して電気ショックを行い、吸引器を使って喉に詰まった痰を取り除こうと試みた。数回のAEDの後、ようやく心拍が再開したようだった。隊員たちは急いでおじいちゃんをストレッチャーに乗せ、僕は外部で講義中だった叔母さんに電話をかけて事態を伝え、急いで帰宅するよう頼んだ。
最終的に気管切開を行い、人工呼吸器を装着することになった。こうなるとおじいちゃんの部屋も改装して電動ベッドや呼吸器を置けるようにしなければならない。それまでの間、おじいちゃんは病院に入院して療養することになった。
『ごめんなさい、今夜は行けなくなっちゃいました。おじいちゃんが救急搬送されて、付き添いが必要になってしまって』
僕は彼女にメッセージを送った。彼女なら理解してくれるはずだ。
『うん、分かったよ。ご家族のことが一番大事だからね』
やっぱり、なんて心優しい女の子なのだろう。
もし「僕がおじいちゃんの喉に痰が詰まるのを目撃する」というのが世界線の収束(必然性)なのだとしたら、素直に受け入れるしかないのだろうか。
今、僕の目の前には、おじいちゃんの子どもたち——僕の父親たちの世代の親族が集まり、ベッドを囲んでいる。誰もが深刻な表情を浮かべていた。
特別個室(高級單人病房)だったため、室内にはソファが備え付けられていた。僕と従兄はそのソファに腰掛けていた。
彼は震えが止まらない僕を慰め、「お前が早く気づいてくれて本当に良かった」と声をかけてくれた。
正直に言って、僕はこれっぽっちも嬉しくなかった。「早く気づけて良かった」だって? 未来の僕がこの「必然性」をこの世界線に持ち込んでしまったからこそ、こんなことが起きたのではないか? 僕がタイムペッパーを破りさえしなければ、この惨状を再び目にすることもなかったはずだ。おじいちゃんも僕の持ち込んだ必然性のせいで苦しむことはなかったかもしれない。すべては我が儘で自私な僕のせいなのだ。……本当はそうじゃないかもしれないけれど、僕の脳内はその思考で支配されていた。
親族たちはひそひそと話し合った後、病室の外へ出て行った。
ドア越しに、彼らが外で激しく争う声が聞こえてきた。もし本当に本人が亡くなった場合、遺産は誰が相続するのか、家業は誰が引き継ぐのか。
僕はすでに一度、この醜悪で耐えがたい光景を目撃しているのだ。元いた世界線では、彼らは昏睡状態のおじいちゃんの病床ではなく、棺桶の脇で、告別式(公祭)の当日に大喧嘩を繰り広げたのだ。あの地獄のような光景が再び目の前で繰り広げられるなんて、到底耐えられない。
だから僕はポケットからタイムペッパーを取り出し、決意を固めると、端からさらに一部分を破り捨てた。
僕の最初の目的は、ただ自分の恋をやり直すことだけだったはずなのに。今の僕はその初心を忘れ、もっと大きな幸せを追い求め、心に渦巻く苦痛を消し去りたいという強欲に呑み込まれていたのだ。




