第二章 たった半分しか破らなかった
後悔した。物語が始まったばかりだというのに、僕はもう後悔していた。あんな欲張るんじゃなかった。だけど幸いなことに半分しか破らなかったおかげで、戻ったのは大学に入学したばかりの頃だった。
目を開けると、講義室では教授がケースワークの支援計画(処遇)について解説しているところだった。
思い出してきた。大学時代の僕といえば、講義中はほとんど寝てばかりいた。一人暮らしをせず自宅から通っていたから、クラスには親しい友達も一人もいなかったのだ。大学時代の記憶がすっかり抜け落ちていたのは、きっとそれが原因だろう。……高校時代も似たようなものだったのかもしれないけれど。
チャイムが鳴り、僕はポケットから携帯電話を取り出した。……おかしいな、二つ折りケータイ(ガラケー)しかない。この頃の僕は、まだスマートフォンを持っていなかったのだ。これじゃ講義スケジュール(履修表)を確認することもできない。
仕方なく学科事務室へ向かい、助手に自分の学籍番号を尋ねて、自分で履修表をネット印刷し直すことにした。当然、助手は怪訝そうな顔をしていたけれど、その気持ちも分からないではない。
だが……一番厄介な問題が発生した。
携帯の画面を確認すると、今日は3月23日だった。日付は分かったものの、自分のスクーターをどこに停めたかなんて覚えているはずがない。……この頃の台中には、まだBRT(バス高速輸送システム)すら開通していないのだ。
静宜大学のバイク駐車場といえば、台湾全土でも屈指の「バイクのブラックホール」として有名だ。
……けれど、この時間軸に戻ってきたのは正解だったのだろうか? 僕はふと疑問に思った。
今の彼女は、同じく台中にある東海大学に通っているはずだ。
ランダム性(世界線のズレ)によって歴史が変わっていなければ、の話だけど。
この時期、僕のおじいちゃんはまだ存命だった。ただ人工肛門を造設していて、毎日ストーマ袋を交換する必要があったはずだ。だから僕は急いで家に帰り、夜の交換の時間には家で手伝いをしなければならない。
よりによってこんな時にバイクの駐車場所が見つからないなんて。もっと前の時代に戻るために、またタイムペッパーを破るべきだろうか?
だけどそんな理由でタイムペッパーを使うのは少し勿体ない気もするし、この世界線のおじいちゃんが人工肛門をつけているかもまだ確認できていない。まずは家に帰って確認するのが先決だ。
ランダム性はすべての事象を不確定にしてしまう。自分の周囲から離れれば離れるほど、その変化は大きくなるのだ。古人も「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為す、これ知るなり」と言った。
デカルトの言った「我思う、故に我あり」のように、僕はいま思考しているのだから、間違いなくここに存在している。
僕が知覚できる範囲内の事物は、そこまで大きく変わってはいないはずだ。けれど、僕の知覚が及ばない範囲では、何か劇的な変化が起きているのかもしれない。僕には分からないし、知る術もない。
例えば、僕のすぐ身近にあるような出来事なら、そう簡単には変わらないはずなのだが。
とにかく、僕はいつも後ろから5列目あたりにバイクを停めていたはずだ。まずはそこを探してみよう。いくらランダム性があるからといって、バイクが東海大学まで飛んでいってしまっているわけでもあるまいし。
幸運なことに、わずか2時間ほどで自分のバイクを見つけることができた。
何事も、まずは家に帰ってみなければ確認できない。
バイクに跨がり、台湾大道を疾走する。これは僕の大学時代の日常風景だ。6年間の通学生活の中で、スピード違反で捕まったことは一度もない。
そういえば、せっかく大学時代に戻ってきたのだから、今度は学業に集中して、卒業までに6年もかけずに済ませることもできるんじゃないだろうか?
過去に戻ってみて初めて、自分の手で変えられる出来事がこんなにもたくさんあるのだと気づかされた。なるほど、タイムペッパーショップの店主が「購入を思いとどまらせる役目」を担っているのも頷ける。こんな人生のやり直しなんて、あまりにも魅惑的すぎるのだから。
「よし、GOGOGOGO、家に帰るぞ!」
そう声を張り上げた瞬間——右折しようとしてきた一台の路線バスにドカンと接触された。重心を失ったバイクを制御しきれず、僕は一瞬で地面へ叩きつけられ、バイクは前方へと勢いよく吹き飛んでいった。ヘルメットを被っていたおかげで助かったものの、激痛が体を襲い……。
再び目を覚ました時、僕は台中榮民総医院の救急外来(ER)のベッドに横たわっていた。ベッドの脇には、従兄と叔母さんが立っていた。
「くそくらえだ……ランダム性のやつ……」
僕が開口一番に吐き捨てた言葉に、二人は困惑した表情を浮かべた。
「急に何を言ってるのよ。あなた、バスに跳ねられたのよ? 覚えてる?」
「おい、華、大丈夫か?」
「うん、覚えてるよ。きっとあの、台中でも評判の悪いあのバス会社でしょ?」
「記憶ははっきりしてるみたいだな、良かった」
「台中のお父さんには連絡しなくていいよ。たぶん擦り傷と打撲くらいだと思うから、大丈夫」
「じゃあ叔父さんには電話しないでおくよ。阿哲がここで付き添ってくれるから、私は先におじいちゃんのストーマ袋を替えに家に帰るね」
阿哲というのは僕の従兄だ。どうやらこちらの歴史は改変されていなかったらしい。僕は相変わらずおじいちゃん、従兄、叔母さんの四人で一緒に暮らしているようだ。
唯一変わってしまった歴史は、僕が人生で初めてバスに跳ねられたということだけ。……これもある意味、人生の貴重な体験と言えるのかもしれない。
いや、前言撤回。貴重な体験なもんか。くそくらえだ、ランダム性。
全身が痛む。まさか擦り傷や打挫傷だけじゃないのか……?
「哲兄ちゃん、医師の診断結果って出てる? 本当に擦り傷だけ?」
「それだけじゃないぞ。肩が脱臼しててな、さっき医者に嵌め直してもらったところだ。まだ痛むだろうけどな。それに首への衝撃で軽い脳症盪(脳分盪)を起こしてるらしい」
「道理でこんなに痛いわけだ、くそっ」
「目が覚めたことだし、医者を呼んできてやるよ」
「待って、僕のバイクは?」
「もうバイク屋に頼んでレッカー移動してもらったよ。バス会社から連絡があって全額補償するって言ってるから、心配しないでゆっくり休め」
「頭がクラクラする……」僕はずきずき痛む頭を軽く振り、眩暈を払いのけようとしたが、まったくの無駄骨だった。
彼女が本当に東海大学に通っているのかどうか、確かめなければならない。Messengerでメッセージを送りたいけれど、スマホもパソコンもない今の状況では、ただじっと待つことしかできないのだ。
それにしても、一体なんて送ればいいんだろう。そんなこと考えたこともなかった。元の世界線では、僕たちは小学校の頃に知り合い、中学では別の学校へ進み、高校で再び再会した。けれど大学へ進学してからは、ほとんど連絡を取らなくなっていたのだ。
彼女が結婚することを知ったのも、ご祝儀を渡して引き出物(喜餅)を受け取ったのも、すべて向こうから連絡が来たから返信しただけに過ぎない。
そう考えると、当時の僕は受動的すぎたのではないだろうか? 自分から一度も連絡を取ろうとせず、ただ高校時代の告白を一回断られただけで一切の可能性を諦めてしまった。しつこく食い下がることもなく、あまりにも消極的すぎたのではないか。
いくら考えても、答えは出なかった。
とにかく、まずはショートメッセージ(SMS)でも送ってみよう。SMSは1通あたりの料金が結構高いけれど、背に腹は代えられない。
『久しぶり。ちょっと聞きたいんだけど、いま東海大学に通ってるよね? さっきバスに跳ねられちゃって頭がぼーっとしてるから、記憶の整理を手伝ってほしいんだ』
しばらくすると、彼女から返信が届いた。
『オタク華、久しぶり! なんで車に跳ねられてるのよ!? もしかして台中でもあの風評の悪いバス会社? 今どこにいるの? 榮総(病院)にいるなら直接お見舞いに行けるけど。私は東海大で合ってるよ』
『気にしないで、わざわざ来てもらうほどじゃないよ。ただの擦り傷程度だからさ。加害者はやっぱり、台中でも評判の悪いあのバス会社だったよ』
送信ボタンを押してから、僕はハッと気づいた。これじゃ駄目だ。まさにこういう態度をとっていたからこそ、将来二人の距離がどんどん離れてしまい、3年に一度しか連絡を取らないような関係になってしまったのだ。友達として付き合うにしても、あまりにも疎遠すぎる。
僕は慌てて次のメッセージを打ち込んだ。
『あ、ううん! いま榮総の救急外来にいるんだけど、自分がどのエリアのベッドに寝かされてるのか分からなくて。医療スタッフの人に聞いてくれればすぐ分かると思う!』
ちょうどその時、医師がやってきて、どこか痛む場所はないか、目眩はしないかといった問診を始めた。
意識ははっきりしているので、僕は正直に答えることができた。
医師の問診が終わったのとほぼ同時に、彼女が姿を現した。
「うわあ……華、久しぶりに会ったと思ったら、全身包帯だらけじゃないの」
「やあ……ミイラみたいでしょ。久しぶり」
僕が冗談を言えるくらいには元気そうなのを見て、彼女はホッと胸を撫でおろしたようだった。
「どれほど重症なのかと思ってヒヤヒヤしたよ。あの評判の悪いバス会社、確か昨年も人を跳ねて亡くならせてるでしょ? 被害に遭ったって聞いて、重体なんじゃないかって焦ったんだから」
「おいおい、そんな物騒なこと言わないでよ。僕に重傷を負ってほしかったの?」
「違うよ、そんな意味じゃないってば」
「あ、哲兄ちゃん。この子、僕の高校の同級生なんだ」
僕が女の子と楽しそうに話しているのを見て、従兄が不思議そうな顔をしていたので、僕は慌てて紹介した。
「はじめまして。君はこの近くに住んでいるのかい?」
「はい、東海大に通っていて、このすぐ近くに下宿してるんです」
「なら二人でゆっくり話しなよ。俺は邪魔にならないように救急外来の外で待ってるから」
「あ、ありがとね」いろいろと世話を焼いてくれた従兄に感謝を伝えると、彼はその場を離れていった。
「で、なんでまた跳ねられたりしたのよ?」
「他言無用で頼むんだけど……実は僕のスピード違反。相手もスピード出してたんだけどさ……曲がろうとしてきたバスに擦られて、そのまま吹き飛ばされたんだ」
「うわぁ……本当に大事にならなくて良かったね」
「うん……次からはあの会社のバスがトラウマになりそうだよ。次にバイクに乗れるのがいつになるのかは分からないけどさ……」
「もう、そんな弱気にならないの。ただの擦り傷なんでしょ? だったら数週間もすればまたバイクに乗れるようになるって」
「まあそうなんだけどさ。じゃないと大学の講義に出られないよ。強制サボり状態になっちゃう」
元の世界線での僕は、何を隠そう「サボりの常連」だった。だからこそ6年もかけて延期卒業(留年)する羽目になり、最終的には「卒業即失業」というどん底を味わったのだ。
「なんだかすごく眠そうね。私、邪魔しないようにそろそろ帰ろうか?」
「ううん、たぶん脳揺盪のせいだと思う。講義中にたっぷり寝ておいたはずだからさ」
「講義中に居眠り!? 華、あなた高校の頃と全然変わってないじゃない。そんなんだと卒業できなくなっちゃうよ? 高校は留年させられない仕組みだったけど、大学は容赦なく留年させてくるんだからね」
「いやあ……夜遅くまでゲームに熱中しちゃって、講義内容が全然頭に入ってこないんだよね……。というか、僕、選ぶ学部を間違えたかもしれない……」
「今、何学部なの?」
「社会福祉学科(社工系)だよ。あ、ボランティアじゃなくてちゃんと給料が出るところね」
実を言えば、当時の僕は社会福祉学科を選んだことをこれっぽっちも後悔していなかったし、それどころか「人を助けたい」という情熱に満ちあふれていたのだ。後悔し始めたのは、卒業後に「卒業即失業」の現実に直面してからだ。うつ病を抱えていた僕を雇ってくれる福祉施設なんて、どこにも存在しなかった。まさに古人の言う「これを愛してはその生を欲し、これを悪みてはその死を欲す」といったところか。
大学を選ぶ時、僕は一人暮らしをせず実家から通うことが、クラスメイトとの距離をどれほど遠ざけてしまうのかにまったく気づいていなかった。
新歓イベントにも参加せず、合宿(宿營)にも行かず、直属の先輩・後輩を決めるイベントやコンパ(家聚)にも一切顔を出さなかった。そればかりか、副専攻(副系)として日本語学科まで履修してしまったため、授業スケジュールは過密を極めた。その上、夜は家でおじいちゃんの介護をしつつ、ネットの友人たちとの交流に没頭していたのだから、朝の講義で寝落ちしてしまうのも無理はない。クラスメイトと親しくなる時間なんて、最初から一分一秒も残されていなかったのだ。
こうして振り返ってみると、タイムペッパーを「半分しか破らなかった」というのは、あまりにも保守的すぎたのかもしれない。高校時代まで一気に戻って、もう一度受験勉強をし直して、学部を選び直すべきだったのだ。
けれど、受験勉強をやり直すとなると、それもまた大きな問題だ。高校で習った知識なんてすっかり忘れてしまっているのだから、高一まで戻って受験に必要な知識をイチから学び直し、高校時代の友達と交友関係を結び直して、当時の心残りを取り除いていく必要がある。
……いくらなんでも、中学校レベルの知識くらいならまだ残っているはず……よね?
高校時代の成績は学年ワーストを争うレベルだったけれど、それでもなんとか大学には合格できたのだし。
もし中学校の知識すら怪しいとなれば、中学一年生まで戻らなければならなくなる。そんな遥か昔まで戻ってしまっては、ランダム性の影響が恐ろしすぎる。今日の交通事故のように、僕の予想を完全に裏切る出来事が次々と起こってしまうかもしれないのだから。
だから……いま置かれているこの世界線で、腹を括って突き進むしかない。
「で、君はどの学部なの?」
「私は経営管理学科(企管系)だよ。講義で何を学んでるのかさっぱり分からないけどね!」まるでテキストの文末に「XD(笑)」がついているかのような、お茶目な口調で彼女は言った。……やっぱり僕は、いまの彼女のことが好きなんだ。
もう一度、告白してみようか? ……いや、正直言って、怖くてたまらない。
「あのさ、僕……」
いまは「ただの友達」という関係が保たれているのだ。もしこの関係が壊れてしまったらどうなる? 今日のように、僕が事故に遭った時にお見舞いに来てくれるような関係すら失ってしまうかもしれないのだ。喉まで出かかった言葉を、僕はぐっと呑み込んだ。
「ん? どうしたの?」
「僕……考え直したんだけど、君の言う通りだね。講義中に寝るなんて、もうやめるよ。僕、この学部の講義がすごく好きなんだ」
「えっ? さっき自分は学部選びを間違えたって言ったばかりじゃない」
あ、しまった。辻褄が合わない発言をしてしまった。
「ほら、古人も『毒を食らわば皿まで(間違えたなら間違いを突き通せ)』って言うじゃない。一度選んだ道なんだから、腹を括って努力し続けるしかないよ」
「そんな前向きな発言、あなたらしくないね。やっぱり大学に入ると、人って変わるものなのかな?」
ううん、変わってなんていないよ。僕は大学に入っても、ずっと君のことが好きなままだ。
……当然、そんな言葉を口にする勇気なんて、僕には欠片もなかったけれど。
「そうかもね。それに副専攻も履修してるんだから! 高校の時よりずっと勉強熱心になったよ」
「副専攻って何を選んだの? そんなに手を広げて大丈夫?」
「日本語だよ。アニメやマンガが好きだからね!」
「相変わらずのオタクぶりね。大学に入っても、そこは変わってないみたいで安心したよ」
「でしょ? 僕はずっと僕のままだよ。それに社会福祉学科なんて女子ばかりだからさ、僕、女の子と話すのが苦手で……そのへんの事情は君も知ってるでしょ?」
「それってつまり、私のことを『女の子』として見てないってこと?」彼女は僕の頭を小突くような仕草を見せたけれど、事故に遭ったばかりの僕を気遣ってか、すぐに手を引っ込めた。
「君、君は友達だからね! 特別なんだよ」
「何が特別よ。私だって女の子なんだからね。そんな言い方されたら傷ついちゃうなー」
「ああーっ! 僕のピュアな少年心を弄ばないでくれー!」
「ハハハハ! ピュアだなんて、どの口が言ってるのよ!」
それから二人で30分ほど喋り倒したけれど、目眩が限界に達してしまい、僕は彼女に挨拶をして一足先に帰ってもらった。
まさかこの「ランダム性」が、僕にこんな……ご褒美?をもたらしてくれるなんて。これって「怪我の功名」って言っていいですよね? みなさん、どう思いますか?




