第二十三章 大学に合格したよ
「ごめんね、傷つけるようなこと言っちゃって」
夜、Yahoo!メッセンジャーにそんなメッセージが飛び込んできた。
「ああ、気にしないで。特に何も感じてないから」
正直に言えば、今でも心は痛んでいた。一度は破り捨てて胸の奥深くに埋めたはずの希望が、どうして今になって浮かんできては僕を攻撃してくるのだろう。
「あんたには本当にたくさん助けてもらったし、すごく感謝してるの。だからどんなお願いでも言ってくれたら聞くよ」
頼むから、そんなことを言わないでくれ。そんな言い方をされたら、僕の胸の中の恋心が再び燃え上がってしまうじゃないか。まるで、まだ希望が残されているかのように勘違いしてしまう。
「……ヘヘヘヘ」
僕は強がりから、良からぬ妄想を抱かせるような怪しげな擬音を送ってみた。
「何笑ってんのよ、こっちは真面目に言ってるのに。でも、そういうのは……ちょっと……」
「そういうの」ってどういうことだ。言葉を途中で濁さないでくれ。「そういうの」が具体的に何を指すのか。たったそれだけの曖昧な文字が、これほど強い破壊力を持っているとは思いもしなかった。
「じゃあ、僕の望みは、君が台中の大学に合格することかな。僕ももう一度頑張って、静宜大学の社会福祉学科に合格してみせるよ」
「そんなの、最初から約束してたことじゃない」
「じゃあ、他にどんなお願いをしろって言うんだい?」
「……いじわる」
「じゃあ、ちょっと理不尽な提案をさせてもらうよ。三十歳になるまでの間、周任っていう男に出会わなかったら、それまでは誰とも恋愛しないこと。三十歳を過ぎてから考えるんだ」
「うわ、それってすっごく酷い要求ね。人生の三分の一も彼氏を作っちゃいけないなんて、ちょっと寂しすぎるじゃない」
「君を保護するためだよ。成績から見ても僕たちは同じ大学には行けないだろうし、君に無理させたくもない。だから、僕が君を守れない長い空白期間ができる。その間は、まず自分で自分を守れるようにならないと」
「わかったわよ。そんな未来に遭遇する可能性があるなら、賭けてみる価値はあるわね。くだらない悪縁に人生を台無しにされるわけにはいかないし」
「そうだね。僕たちはそれぞれ自分だけのタイムペッパーを持っているけれど、それでも『人生は一度きり、今この瞬間を精一杯生きる』っていう理念は大切にしたいんだ」
「うつ病のくせに、なんでそんなに前向きな考えができるのよ。変なの」
「自分でも変だと思うよ。きっと薬が効いてるからかな?」
「嘘おっしゃい。そんなに効くならあたしも飲みたいわよ」
「おいおい、これには依存性があるんだから安易に飲むもんじゃないよ。ほら、早く勉強に戻りなよ。僕も勉強するから」
「はいはい、わかったわ。ばいばい」
そう送られてくると、彼女のアカウントはすぐにオフライン表示になった。
本気で努力しなければ、指定科目試験(指考)までもつれ込んでしまう。流石にそこまで長引かせたくはなかった。
翌日、六組の鍾軒祐が学校を休んだという噂を聞いた。どうやらストーカー行為が親にバレて、転校手続きを進めているらしい。あくまで僕の推測に過ぎないが、とにかく彼がこの学校から消えてくれるなら僕たちにとっては万々歳だ。これで少なくとも学測(大学学科能力測驗)の準備に専念できる。
この時間軸では、僕は塾にも通わず、家庭教師もつけなかった。すべては自分の力だけでやり抜くしかない。
陳逸樺は学校で僕と話す頻度を減らしたが、その分、Yahoo!メッセンジャーでチャットをする機会が増えた。
面と向かって話すのに比べれば温度感は薄れるものの、学校での心ない噂話は急速に沈静化していった。こうしていれば効果があると分かっていたなら、もっと早くそうすべきだったのかもしれない。ただ、僕の心は今も傷を負ったままだ。元々女性と話すのは得意ではないが、親友という存在は僕にとって別格だった。三十六歳の僕の話し方は以前より成熟しており、昔のように口が滑って余計なことを言うこともなくなっていた。
僕は時折、自分のタイムペッパーを取り出しては、じっと見つめることがあった。破りたいという欲望が全くないと言えば嘘になる。けれど、一時的な挫折で破り捨てるような真似はしない。これは陳逸樺と交わした固い約束なのだ。「お互いの知らないところで、勝手に一人でタイムペッパーを破ってはならない」と。
生徒たちは毎日勉強に明け暮れた。冬休みに入っても努力を続け、友達と遊びに出かけることなど一切なかった。光陰矢のごとし。瞬く間に学測の当日はやってきた。
当日を迎えると、むしろ緊張は消え去り、心が穏やかに澄み渡っていた。普段心を保つことこそが、実力を発揮する最良の方法なのだろう。
試験会場は新竹高校だった。僕がここに足を踏み入れるのはこれが初めてだ。事前に下見をする余裕などなく、すべての時間を勉強に注ぎ込んでいた。
「あれ、オタク華? あんたもここが会場なの?」
突然、背後から女子の声が追ってきた。
「やあ、小玉。なんだか久しぶりだね。建功高校の生徒はみんなここに集められてるのかな」
振り返ると、そこにいたのは小玉だった。
「未来人のあんたなら、出題内容くらいもう知ってんじゃないの?」
「もし知ってるなら今頃台湾大学に合格してるよ、トホホ……」
「もう少し抱負を持ちなよ。まあ、あんたの成績じゃ逆立ちしても無理だけど」
「うわ、手厳しい!」
「事実でしょ。見たところクラスの何人かもここにいるみたい。他の人は別の会場かもね」
「そっか。じゃあ集中して心の準備を整えるとしよう」
「何よその言い草は!」
彼女は冗談めかして僕の頭を小突いてきた。
「ああっ、助けて! 女侠、お命だけはご勘弁を!」
試験直前にこうして緊張をほぐせたのは実にありがたかった。心の中で小玉に深く感謝した。
いよいよ受験生が入場する時間となった。教室と座席番号をしっかり確認し、筆箱から2B鉛筆と消しゴムを取り出す。
未来は、ここで決まる!
一日目の試験が終わり、二日目を迎えた。
二日目も小玉に捕まり、他愛もない雑談を交わした。
彼女の目標は中字輩(國立中央・中興・中山・中正大学)の難関大学らしい。さすがは成績優秀者、見据えている視野が違う。
学部についてはまだはっきり決めておらず、試験後にネットで詳細を調べてから決めるそうだ。文系が進める道はそれほど多くない。僕の第一志望は東海大学の社会福祉学科で、最低ラインは靜宜大學の社会福祉学科だ。その他の大学や学部は今のところ考慮に入れていない。
日本語学科なども考えなくはなかったが、将来の職探しを有利にするには副専攻を修める必要があり、今の僕にはそこまでの体力も余裕も残されていなかった。
二日目の試験が始まった。だが文系の生徒にとって、この日の試験はある意味消化試合のようなものだった。授業で習っていない理科や、理系レベルの難易度を誇る数学が出題されるからだ。さらにこの代からは作文が追加された。小説を執筆することはあっても、作文となると全く別次元の話だ。華美な修飾語や多様なレトリックを駆使する必要があり、今の僕にとってはハードルが高すぎた。そういった文章を書く感覚からはすっかり遠ざかっていたのだ。
二日目の試験もすべて終了した。新竹高校で受験していた帥哥、小玉、芊涵、阿哲と落ち合い、近くのレストランで昼食をとることにした。
テーブルについたみんなは、さっそく先ほどの試験問題の話題で持ちきりになっていた。
突然、僕の携帯電話が鳴り響いた。おや、今日は外で食べて帰ると家族に伝えておいたはずだが、一体誰からだろう?
「はい、もしもし……」
「オタク華、試験終わった? 私、自分の学校で受けてたの」
「羨ましいな、慣れない環境に行かなくて済むなんて!」
「ねえ、今からこっちに来られない? 鍾軒祐がこの会場にもいるみたいで……さっき教室を出たとき、柱の陰からあたしをじっと見つめてたの」
「なんだって!? すぐに行くよ」
僕はいきなり立ち上がり、みんなに向かって告げた。
「みんなごめん! 学校に戻らなきゃいけなくなった。急用ができたんだ」
「試験が終わった後も学校って開いてるの? ご飯食べてから行けばいいじゃない」
「ごめん、本当に緊急なんだ。また今度集まろう」
僕は言葉を残してレストランを飛び出し、タクシーを拾うと、急いで建功高校へ向かうよう運転手に告げた。
「ご両親は?」僕は携帯を開き、素早く陳逸樺に電話をかけた。
「今日は元々友達と清華大学の近くでご飯を食べてから一人で帰る約束だったから、親は迎えに来ないの」
「なら少し待ってて。タクシーに乗ったから、すぐ着くよ」
「うん、ありがとう。警備室の前に立ってるね」
「それでいい。いい場所を選んだよ。安全にはくれぐれも気をつけて」
「それじゃ、あとでね」
「ああ」
通話を切った。新竹高校から建功高校までは、車なら最速で十分ほどだ。試験が終わって晴れやかな気分だったのに、どうしてこんな時に余計なトラブルが起きるのかと、苛立ちと焦りが募った。
ようやく校門に到着すると、すぐに陳逸樺の姿が目に入った。見たところ、彼女は他の友人たちと談笑しているようだった。僕の知らない顔ばかりだったので、おそらく六組の生徒だろう。
「やあ、大丈夫かい?」
「あ、オタク華、来てくれたんだ。うん、あたしは大丈夫。ただ、このあと家まで一緒に帰ってほしいの」
「彼女たちにお願いするのはダメなのかい?」彼女の隣にいる友人たちを指さして尋ねた。
「できるなら迷惑をかけたくないし、あたしの家がどこにあるか他の人に知られたくないの……」
「分かった。じゃあ、彼女たちと先に清大へご飯に行きなよ。僕は後ろからついていくから」
「ありがとね」
テストが終わった解放感からか、彼女はどこか嬉しそうに見えた。心の中の大きな石が、ようやく下りたのだろう。
無事な彼女の姿を見て、僕の心の中の大きな石も、ようやく下りた。
さて、ここからは長い糸を垂らして大物を釣るとしよう。
僕は彼女の後ろをついて歩き、そして僕の後ろには、誰かがついてきていた。
これはいわゆる「螳螂力及ばずして蟬を捕らえんとすれば、黃雀これに乘ず(カマキリがセミを狙い、そのカマキリをスズメが狙う)」という状況なのだろうか。
いや、僕別にセミを捕まえたいわけじゃないしな。
それにしても、奴のストーカー技術は大したものだ。陳逸樺からあらかじめ聞いていなければ、背後に誰かがいることすら気づかなかっただろう。僕の第六感が鈍っているのかもしれない。年を取ると精神と身体の感覚が剥離していくものなのだ。
みんなが文教新城にあるラーメン屋に入っていった。僕は一緒に入らず、隣の貸本屋(レンタルコミック店)へと駆け込んだ。ラーメン屋の中にいれば彼女も安全だろうし、僕までストーカー紛いの真似をしてピッタリ貼り付く必要はない。
『帰るときに連絡して。隣の貸本屋でマンガ読んでるから』とショートメッセージを送った。
『わかった』と短い返信が返ってきた。
鍾軒祐がまだ近くに潜んでいるのかどうか、さっきから奴の姿は全く見えない。僕の目が衰えただけかもしれないが。
一時間が経過し、僕はマンガの一巻目を読み終えたが、まだメッセージは来ない。
次の巻を読むとするか。
そう思った矢先、携帯が震えた。
『歩いて帰りたいんだけど、一緒に歩いてくれる?』
『いいよ。こっちまで来てくれるかい』
校外とはいえ、学測が終わったばかりの日の午後だ。尾行の件も、僕たちが二人で会っていることも、慎重を期すに越したことはない。
せっかく鎮火した噂話が、僕の恋心のように何度も再燃されては堪ったものではないのだから。
抑えるべき感情は、しっかりと抑え込まなければならない。
「全部君のせいなんだからな……」僕はため息をつきながら入口へ向かった。ちょうど陳逸樺が入ってくるところで、危うく鉢合わせするところだった。
「びっくりした! 中まで探しに行こうと思ってたのに」
「君を探しに行こうと思ったんだよ。隣とはいえ、そのほうが安全だしね」
階段を降り、彼女の家へと向かって歩き出した。
「どうしてバスに乗らないの?」
「今日は歩きたい気分なの」
「でも、ロン毛が突然現れたりしたら怖くないかい?」
「あ……ごめんね。タクシー代まで出させちゃって」
「どういう意味だい?」
「実はね、鍾軒祐がストーカーしてるって言ったの、嘘なの。ごめんなさい」
「えっ? じゃあ、僕の背後には誰もいなかったの?」
「たぶんね。まさか本当に見かけたりした?」
言われてみれば、道中一度も奴の姿を目撃していなかった。てっきり尾行技術が凄まじいのだと思い込んでいたが、最初から誰もいなかったのだ。
「おいおい、ひどいじゃないか。急いで駆け戻ってきたのにさ。僕は元々帥哥や小玉たちとご飯を食べてたんだぞ」
「だから謝ってるじゃない。大学書局(本屋)に行きましょ。マンガ一冊買ってあげるから好きなの選んでいいよ」
「やれやれ、いいよそんなの。早く家に帰りなよ」
「怒ってるの?」
「怒ってないよ。ただ虚しくなっただけさ。でも、誰も君を尾行してないって分かって安心したよ」
僕は欠伸を噛み殺した。さっきまでの緊張感が解けたせいか、急に強烈な眠気が襲ってきたのだ。
「どうしたの、眠いの?」
「うん、ちょっとね」
「じゃあ急いで帰りましょ」
「あれ、誰も尾行してないなら、君一人で帰れるんじゃないのかい?」
「うわ、出たわね鋼鉄の直男(超・朴念仁)発言! そんなんだと将来誰からも愛されないわよ!」
「結構だよ! 僕は学業に集中しなきゃいけないんだ。この人生で二度と後悔するような真似はしたくないからね」
「じゃあ、今は後悔してないの?」
「僕が? 何を後悔するって言うんだい?」
「私を射止められなかったことへの後悔よ。あと四ヶ月で卒業じゃない。順調にいけば五ヶ月後の指定科目試験を待たずに済むし、あと二ヶ月で推薦入試でしょ。絶対に違う大学に行くことになるのに、後悔してないの?」
彼女はイタズラっぽい口調で、少しの恥ずかしげもなくそう言い放った。
「はぁ……後悔なんてしてないよ。僕はもう告白したんだからさ。……くそっ、今更こんな話をするなんて照れ臭いな」
「あんた、自分がどうしてここに戻ってきたのか、まだ教えてくれてないでしょ?」
「ん? 言わなかったっけ? 青春のキャンパスライフをやり直したかったんだよ。実際その目標は達成できた。良い友達がたくさんできたし、僕的高校生活はもう一人ぼっちじゃない」
「それなら、どうしてそんな不満そうな顔をしてるの? 本当のことを隠してるでしょ」
無意識のうちに、僕は自分の仮面を脱ぎ捨て、素の表情を曝け出していたようだった。
何をやってるんだ僕は。こんな言葉に心を動かされてたまるか。
動揺しちゃいけないはずなのに、どうして僕は……泣きそうになっているんだ。
三十六歳のあの強靭な精神はどこへ行った。早く落ち着いた自分を取り戻すんだ。
涙がなぜか目角から溢れ出し、頬を伝って零れ落ちていった。
「どうしたの、大丈夫? 急に泣き出したりして……聞いちゃいけないこと聞いちゃった?」
「違うんだ……僕自身の問題んだ……僕が、僕が情けないから……僕があまりにも無力だから……」
「あわわ、泣かせるつもりじゃなかったの! どうしよう、どうしよう……」
彼女がこれほど慌てふためく姿を見るのは珍しかった。
「大丈夫だから……僕自身の問題んだ、僕が不甲斐ないだけで……」
「泣かないの、涙は真珠なんだから」
「それ……女の子に向けて言うセリフだろ……」
以前僕が彼女に言った言葉をそのまま返され、僕は思わず吹き出してしまった。
彼女は突然、正面から僕をギュッと抱きしめて言った。
「ごめんね、心配させて。あんた、本当によく頑張ったよ。……気が済むまで泣きなよ……」
「まったく、僕の心はどうしてこんなに脆いんだろうね……」
僕はしぼんだ風船のように力を抜き、彼女の肩に額を預けて涙を止めようとあがいた。
「もう泣き止んだ?」
「うん、もう持ち直したよ」
「無理して話さなくてもいいよ。タイムペッパーを破る人には、みんなそれぞれ複雑な事情があるんだって分かってるから、でも……」
「ううん、君には正直に話すべきだと思う。君は僕のいた時間軸で僕を救ってくれた。この世界が本当はこんなにも広かったんだって教えてくれたんだ。以前の僕は、世界なんて狭くて劣悪な場所だと思い込んでいて、誰にも心を開くことができなかった。それなのに君は嫌な顔一つせず、何度も僕に会いに来てくれた。僕はそんな君に心を動かされたんだ。君は僕の世界の一部になって……だから僕は知らず知らずのうちに、君のことが好きになっていたんだよ。だから過去に戻って、もう一つの可能性を確かめたかった。ただそれだけの、ちっぽけな話なんだ」
「そんなの、ちっぽけな話なわけないじゃない! だって未来に関わることかもしれないのよ。……それに、あんたがやっと心を開いて打ち明けてくれたこと、やっと本当の理由を教えてくれる、すごく嬉しいよ」
「ごめんね。ずっと君の前で強がった振りをしていて。三十六歳になっても、感情のこととなると相変わらず脆いんだって……さっき気づかされたよ」
「あたしのほうこそごめんなさい。ずっと気づかなくて、あんたを盾にして頼りきりになってた。でもあたしもシャキッとしないとね。もうドメスティック・バイオレンスのトラウマに自分の自信を振り回されたりしない。あんたの言う通りにするわ。運命の相手に早めに出会わない限り、三十歳になるまで次の恋愛はお預けにする」
その言葉は、間接的な僕へのフラグ折りに他ならなかった。
……それとも三十歳になったら、僕にもチャンスがあるということだろうか?
「じゃあ、僕は?」僕は冗談めかして尋ねてみた。
「あんたは永遠の親友よ。すごく感謝してる。……そして、ごめんなさい」
その後、僕は彼女を自宅近くの路地の入口まで送り届け、一人で家路についた。




