第二十一章 学測への準備
怒濤の修学旅行がようやく終わりを告げた。最終日には無事に良い思い出を作ることができたものの、僕の脳裏からはロン毛の「だがな、アイツを泣かせた落とし前は、日を改めてきっちりつけてやるからな」という捨て台詞が離れずにいた。
奴が一体どんな行動に出るのか、僕には予測がつかない。本来の未来では、こんな出来事自体起きていなかったのだから。
この時間軸で同じタイムトラベラーである陳逸樺と出会えたおかげで、本来の人生では経験し得なかった事態に次々と直面している。
これを幸運と呼ぶべきか、それとも不幸と呼ぶべきか。
そして、僕の胸の奥にあるこの想いは、結局のところ永久に封印しておくべきものなのだろう。「僕はお前が好きだ」と胸を張って口にすることはできても、それを他の誰かに打ち明けるわけにはいかない。ましてや、それが彼女本人の耳に届いてしまえば、いたたまれない気持ちにさせてしまうのは目に見えている。
『私をパートナーだって言っておきながら、どうして好きになっちゃうわけ?』
『もう断ったはずでしょ。お願いだから、友達のままでいさせて』
二人の間の絆は、間違いなくただの友達という枠を超えている。それなのに、決して恋人という高さには届かない。まるで太陽を目指したイカロスのようで、どれだけ手を伸ばしても永遠に触れることはできないのだ。
これは僕の自卑感がもたらした歪みなのだろうか。大してあがきもせず、どうしてこうも簡単に諦めてしまうのだろう。
だが前にも言ったはずだ。「温嘉鴻から二度と告白されたくないように、陳逸樺だってきっと同じ気持ちなのだ。好きでもない相手からの告白なんて、ただの困惑と負担でしかない」と。
……それすらも、自分を催眠にかけるための都合の良い嘘なのだろうか。
しつこく言い寄るのが愚策である以上、僕は戦友として甘んじ、この期間中ずっと彼女を「占有」しているのだ。戦友とは、即ち占有でもある。今の僕は「彼女を保護する」という大義名分に依存し、周任が現れるまでの間、他の誰にも彼女に触れさせまいとしている。僕の内に潜む独占欲が、僕をそう駆り立てているのだ。
かといって、僕が彼女にいいように使われているわけではない。自分自身の引き際や身の程については、僕自身が一番よく分かっているつもりだからだ。
明日は週末だ。この二日間はしっかり家で勉強に集中するとしよう。余計な雑念は振り払い、案ずるより生むが易し、なるようにしかくならないさ。どうせ物事は僕の思い通りになんて進まないのだから、このランダム性の中では、その場その場で対処していくしかない。
夜、僕はPCの前に座り、ダウンロードできる新番組を探していた。
日本の皆さん、本当にすみません! この時代の台湾にはまだオンライン動画配信サービスなんて存在しないんです。どうか違法ダウンロードでお許しください!
突然、Yahoo!メッセンジャーの通知音が鳴り、メッセージが飛び込んできた。
考えるまでもない、陳逸樺からだ。
一体何が書いてあるんだろう。僕は期待と不安を入り交じらせながら、ウィンドウを開いた。
『ねえ、『魔法先生ネギま!』の最新刊買った?』
ん? 急に何を言い出すんだ?
『まだ買ってないよ。最近は勉強にかかりきりでね。高一の時に抜け落ちた知識を補うのに必死なんだ。正直、一からやり直さないと厳しいよ』
現在、僕のクラスでの成績は下位にまで落ち込んでいる。最大の原因は、高一の頃の記憶がそっくり抜け落ちているからだ。今さら教科書を開いたところで、知識なんて何一つ思い出せない。つくづく自分のこのポンコツな頭脳が恨めしい。
『だからってタイムペッパーを破ったりしないでよ! すごく大変なんだから!』
『破らないって。一人で勝手に破らないって約束しただろ?』
まあ、今の僕ならもう破ることもないだろう。今の生活には十分満足している。よほどの耐えがたい大事件でも起きない限りは。僕の精神年齢も時間の経過とともに三十六歳になろうとしているのだから、そろそろもっと落ち着きを持つべきだ。
『ならいいけど。あ、私の家がどこにあるか知ってるでしょ? 明日うちに来なよ。高一の抜け落ちた記憶、私が教えてあげるから』
『マジで?』
この一言には二つの意味が含まれていた。一つは「本当に君の家に行っていいの?」、もう一つは「本当に教えてくれるの?」だ。
『人に教えるのも立派な復習になるって言うじゃない。学測(大学学科能力測驗)は来年の二月でしょ。残り半年ちょっと、しっかり頑張らないと』
『そうだね。学測が近づくにつれて、胸の不安も大きくなるよ……君はこの世界線に戻ってきて一年以上経つけど、僕はまだ一年にも満たない。それに君は頭が良いから、僕じゃ到底太刀打ちできないよ』
『この時間軸に来てから真面目に授業受けてるくせに、なんでそんなにテストの点数が悪いのよ = =』
『僕は全体を理解しないと覚えられないタイプなんだよ。特に数学なんて、公式の丸暗記だけじゃとても覚えきれない』
『じゃあなんで地理はそんなに得意なのよ? あれだって丸暗記じゃない = =』
『違うよ、僕にとっては違うんだ! 自分でもよく分からないけど、海流のことははっきり覚えてるのに、大気関係はさっぱりなんだ。ニュースを見るのが好きだったからかな?』
そういえばニュースで「小琉球ではなぜ一年中泳げるのか」という話題をやっていたのを覚えている。黒潮が温かい海水を運んでくるため、冬であっても海水が冷たくならないのだそうだ。
僕の頭には、なぜかこういう脈絡のない雑学ばかりがしっかりと記憶されている。
『どおりで公民も得意なわけね。でもこの世界線では監察院と考試院がすでに廃止されてるのに、よくそんなに早く適応できたわね』
『元々廃止されるべき組織なんだから、存在していようがいまいが大した意味はないよ』
『へえ、羨ましいわね。じゃあ明日はあんたが地理と公民を教えてよ。明日の朝でいい?』
『ええと……三十秒ほど考えさせておくれ……』
本当に彼女の家に行くのか? 流石に唐突すぎないか? 親友とは言え異性の関係だ。そんな風に家に招かれて本当によいのだろうか。それに彼女の両親が家にいるかもしれない。そうなれば針の筵ではないか。
『何よ、まだ悩んでるの?』
『いや、大丈夫だよ。僕がちゃんと起きられればね』
『起きられなかったらモーニングコールしてあげるわ』
『絶対に起きるよ!』
『じゃあ決まりね』
心臓がドクンドクンと激しく脈打っていた。テストのためなら我慢できるが、彼女の家に行くとなると、やはりどうしても緊張してしまう!
心の中ではそう思いつつも、僕は今、自転車に跨がって彼女の家へと向かっていた。
全く、僕は一体何を考えているんだ。人の家を訪問するのだから、手土産くらい持参すべきだったんじゃないか?
それなのに僕はリュックを背負っているだけで、中身は教科書と問題集、それに筆箱くらいしか入っていない。手ぶらなんて失礼にあたらないだろうか。いやいや、僕たちはそういう特別な関係じゃないんだし、ただの友達同士で手土産なんて必要なのか? それとも日本のマナーに毒されているだけなのか、頭が混乱してくる。
とにかく、僕は戦々恐々としながら彼女の家のアプローチに辿り着いた。
勇気を振り絞り、インターホンを押す。
『どちら様?』
『僕だよ、僕』
『オレオレ詐欺みたいね』
『声を聞けば誰だか分かってるくせに!』
『はいはい、鍵開けてあげるわ』
彼女の家は一戸建てのテラスハウス(一軒家)で、手前には小さな庭があった。新緑の青々とした季節で実にすがすがしい光景だったが、それでも僕の胸の狂おしい高鳴りを抑えることはできなかった。
「寝坊しないで来られるなんて珍しいじゃない」
「僕がそんなに朝に弱い人間に見えるかい?」
「見えるわね」
「ぐうの音も出ないよ」
彼女の案内に従って、僕はついに彼女の家の中へと足を踏み入れさせた。だが、家の中は意外なほど静まり返っており、僕たちの声以外には何の物音もしなかった。
「ご両親は?」
「遊びに出かけたわ」
「お兄さんは?」
「一緒に遊びに行ったわよ。家にいるのは私一人」
待て待て待て待て待て待て待て待て! 若い男女が二人きりで密室にいるなんて、マズいんじゃないか? どうして彼女はこんなに平然としていられるんだ。僕は言葉を発する声すら少し震え始めているというのに。
「えっ、家に君一人なの?」
「あ、それとこの子もね」
真っ白な小型犬が僕の姿を見るなり、ワンワンと吠えながら飛びついてきた。興奮した前脚で僕のスネをガリガリと引っかき、「ここ僕のなわばり! お前誰! なんで入ってくるの! 出ていって!」とでも言いたげだった。
「わあ、かわいいね。君んちのワンちゃん、すごく元気だ」
「こら、マロン、向こうに行ってなさい」
彼女はそう言うと犬を抱き上げ、自分の部屋へ閉じ込めたらしい。それからすぐに階段をトントントンと駆け下りてきた。
「約束通り、今日は数学と英語を教えてもらうからね。その代わりに、私は地理と公民を教えてあげる」
「歴史と国語(現代文・漢文)は?」
「それは、お互い自力で頑張りましょう」
「ええー、君は国語が得意なんだから教えてくれてもいいじゃないか」
「教えようにもどう教えればいいか分からないのよ。こればっかりは三十五歳の知恵の賜物だし。『博学にして譲り、善を行いて怠らざる、これを君子と謂う』ってね」
「ああ、そういう難解な四文字熟語とか漢文の講釈はいいから! 分かんないってば」
「やれやれ、僕は自分が君子であると言いたかっただけなんだがね。フン!」
僕は胸を張り、いかにも風流で品格のある人間であるかのように気取ってみせた。
「あ、そうだ。あんたに渡したいものがあるの。ちょっと待ってて」
彼女はそう言い残すと再び自分の部屋へ走り去り、階段をトントンと急ぎ足で降りてきた。
「そんなに走って息が切れないかい?」
「ごめんね、私があまりにも読みたくて先に開封しちゃったんだけど、これあげる」
彼女の手には『魔法先生ネギま!』の最新刊が握られていた。
「えっ? 急にどうしたの?」
「剣湖山のとき、いろいろ助けてくれたお礼。単行本一冊だけだし、しかも開封済みで申し訳ないんだけど」
「いやいや、いいんだよ。僕が好きで助けただけだし、約束したんだから当然のことさ」
「とにかく、本当に感謝してるわ。……ただ、学校に戻ったら、またロン毛から告白されるんじゃないかって心配で」
「断ればいいじゃないか」
「未来のあのドメスティックバイオレンス事件があってから、人を拒絶するのがトラウマになってるのよ。特に恋愛感情が絡むとね。男の人って突発的に感情的になりやすいし、断った後に何をされるか分からない恐怖があって。あ、あんたのことじゃないわよ! あんたは特別だし、私にとって別格の存在だから」
彼女にそんな意図がないことは百も承知だったが、「特別」「別格」などという言葉を向けられると、胸の奥でどうしてもときめきが走ってしまうのだった。
「君だって僕にとっては特別な存在さ。同じ時間軸で、同じタイムトラベラーに出会えるなんてね」
「そうよね。だからこそあんたは特別で、他とは違うのよ」
「と、とにかくまずは勉強を始めようか!」
僕はリュックを開け、その『魔法先生ネギま!』を中にしまい込むと、教科書と問題集を取り出した。
「じゃあ、まずは英語からやりましょう!」
「ところで、ご両親には僕が今日家に来るって話してあるの?」
「ううん、話してないけど。なんで話さなきゃいけないの?」
「う……いや、なんでもないよ。それじゃ月曜のテストに向けて、まずは英語から始めようか」
こうして僕たちの勉強会が始まった。
この物語はラブコメディではないので、読者の皆さんが期待するようなアクシデントやハプニングは一切起こらない。
僕自身が君子を自負している以上、堂々とした戦友であり続けるべきなのだ。毎日エッチなことばかり考えているような青二才とは違う。僕も、そして彼女も、自分の欲望をコントロールできない子供の年齢はとっくに過ぎ去っているのだから。




