第二十章 修学旅行最終日
修学旅行三日目の日程が始まった。
少し意外だったのは、大型バスに乗り込む際、陳逸樺が温嘉鴻に席の交換を頼み、僕の隣に座ってきたことだ。
同じ「タイムトラベラー」である僕の存在が、彼女にいくぶんかの安心感を与えているのかもしれない。
彼女は僕と違い、自分のすべてを包み隠さず開示しているわけではない。「タイムペッパー」に関するすべての事実を心の中に秘め続けているのだ。その内に秘められた秘密は、時間の経過とともに圧力へと変わり、誰にも打ち明けられない重荷となって彼女にのしかかっているはずだった。
そして今、その秘密を知る者は僕しかいない。僕は彼女にとって、唯一の「吐き出し口」となったのだ。
だが、車内の僕たちは互いに一言も言葉を交わさなかった。僕自身、何を話せばいいのか分からなかったし、彼女も何か話したそうにしてはいたものの、バスの車内というプライバシーの欠けた空間では口を開きにくかったのだろう。
そのまま、バスは黙々と苗栗へと向かった。
正午近くになったため、まずは昼食をとることになった。今日のメニューは客家料理だ。テーブルの上には客家小炒、塩豚、梅干扣肉といった代表的な名物料理が所狭しと並び、実に豪華だった。
チラリと陳逸樺の顔を窺ってみたが、彼女はまだ元気を取り戻せていないようだった。
僕は携帯電話を取り出し、彼女へ一通のメールを送信した。
「あの二十代の強い魂はどこへ行ったんだい?」
「二十二歳だって、十分に繊細で脆いのよ」
彼女は僕をジロリと睨みつけ、そう返信してきた。
まあ、それもそうか。三十五歳である僕の魂だって相当に脆いのだ。だからこそ三度もタイムペッパーを破り捨て、この時間軸へと辿り着いたのだから。そして狂人のようにクラスで担任と大立ち回りを演じ、自分が未来人であることを暴露するという大芝居まで打ったのだ。
おかげで、この人生の道筋は随分と生きやすくなった。少なくとも僕は自分の吐き出し口を探す必要がない。自分自身に吐き出せばそれで十分だからだ。だが、僕は彼女にとっての「吐き出し口」なのだから、彼女の前で自分自身の脆い一面を見せるわけにはいかない。そんなことをすれば、戦友としての説得力を失ってしまう。
戦友、か。ふむ、そうかもしれないな。
食事を終えた僕たちは、いよいよメインの目的地である「台湾客家文化館」へと到着した。
「今日はあんたたちの班と一緒に行動させて」
陳逸樺が突然そう言い出し、残りの四人は驚きを隠せない様子だった。
おそらく昨日の件があり、今は六組のところへ行きづらいのだろう。
「豈に聞かずや、古人の雲う『大丈夫は時に相応じて動く』と。また曰く『吉に趨き凶を避くる者は君子なり』とね。みんなで一緒に行動するのは良いことだよ。最終日だし、この班での思い出を作ろうじゃないか」
僕は口から出まかせのように一言添えた。彼女なら僕が何を伝えたいのか理解してくれるはずだ。
「そうだよ、今日はみんなで一緒に行動して写真を撮ろうよ。アルバムの編集でも使いたいしさ」
燕子が横からフォローを入れてくれた。
他のメンバーも頷いて同意してくれた。
今日の彼らは、珍しく僕をからかってこなかった。おそらく何かしらの察しがついたのだろう。
元々はクラスの浮きこぼれだった温嘉鴻と、頻繁に六組へ遊びに行っていた陳逸樺が、こうして同じ班で修学旅行の最終日を過ごすことになるなんて、以前の僕には到底想像もつかない光景だった。
先生たちに引き連れられ、クラスごとに列をなして園内へと足を踏み入れ、そこからは自由行動となった。本当に自由で開放的な校風である。
ロン毛の奴、昨日僕に「先生を呼ぶぞ」と脅されて怯えていた様子を見るに、根は意外と度胸のない奴なのかもしれない。だから陳逸樺がこのまま僕たちと一緒に居さえすれば、彼女の安全は確保されたも同然だった。
もっとも、直接の殴り合いになれば僕に勝ち目はない。この痩せこけた肉体と虚弱な内面では、どちらをとっても現役の高校生には太刀打ちできないのだから。
「はぁ、年を取ると嫌になるねぇ」
僕は思わず溜め息をつき、そう呟いた。
「十七歳で何を年寄りぶってんのさ」
隣で小可愛から容赦のないツッコミが入る。
「やれやれ、若いというのは素晴らしいね」
言い終わるか終わらないかのうちに、燕子の手刀が僕の頭にクリーンヒットした。
くそっ、僕より背が高いからって調子に乗りやがって。くすん、僕の成長期はもう終わってるんだよ。
「あ、あそこ写真撮影に良さそうじゃない? みんなで一枚撮ろうよ」
温嘉鴻が近くのオブジェを指さして言った。
「いいね、みんな集まって! 他のクラスメイトに頼んで撮ってもらってくるね」
芊涵がマイカメラを取り出し、近くにいた同級生のもとへ走っていった。
僕たちの班でカメラを持参していたのは彼女だけで、それもかなりの高級デジカメだった。2026年になれば誰もデジタルカメラなんて使わなくなるというのに、時代の変化というものをしみじみと感じさせられる。
正直なところ、この時間軸に長く滞在すればするほど、元の世界線で起きた出来事を忘れかけている気がする。「なぜか脳裏にこびりついて離れない」記憶も少なくはないが、その他の記憶は、この青春の熱気に満ちた高校時代によって少しずつ塗り替えられていた。
僕がタイムペッパーを破り捨てた意味は、案外ここにあるのかもしれない。もう一度、新しい人生をやり直すこと。
ランダム性と必然性が交錯する世界だとしても、自分自身が努力して前に進みさえすれば、その成果は決して裏切らないのだから。
重度の鬱病患者だった人間が、まさかこれほど前向きな思考を持てるようになるなんて、自分でも驚きだった。僕はそっと自分の胸に手を当て、問いかけた。
『僕のこの考えは、間違っていないよね?』
……いや、当然間違っている。
努力して前に進むだけで成果が得られるのなら、世の中から果てしない夢を追い続ける夢想家なんて存在しなくなるはずだ。
「はーい、みんなポーズ決めて!」
軍神がカメラを構え、掛け声をかけた。
みんなそれぞれおどけたポーズを取り、僕もそれに合わせて適当にポーズを作った。
カシャ。
これが、この時間軸における僕の最初の写真になるのかもしれない。
軍神からカメラを受け取った芊涵のもとへ寄り、写真を確認してみると、案外自分が破顔一番、眩しい笑みを浮かべていることに驚いた。
この時間軸での高校生活を、まさかこんなにも充実して過ごせるなんて。本来の世界線の僕は、一体全体何をやっていたのだろう……僕はほんの少しの悔恨を抱き、いつもの癖でまた溜め息をついた。
「どうしたの? 今日はなんだかいつも以上に溜め息が多い気がするけど」
小可愛が心配そうに尋ねてきた。
「なんでもないよ。ただ後悔しているだけさ。この写真があまりにも良く撮れすぎているから、少し後悔しちゃってね」
「写真が良く撮れてるのに、なんで後悔するのさ?」
「ふっ、これは未来人ゆえの悩みなんだよ」
「相変わらず変なやつ」
「今に始まったことじゃないだろ。見慣れておくれよ」
「まあね」
僕はちらちらと視線を陳逸樺の顔に向け、彼女が昨日の件を吹っ切れたか、再び笑顔を取り戻せたかを確認しようとした。
だがタイミングが悪いのか、彼女の笑顔を拝むことはできなかった。本当は今でも六組の方へ行きたいのかもしれない。途中で僕たち一班に合流した形だし、この場の空気に馴染めなければ、温嘉鴻以上に浮いた存在になってしまうリスクだってあるのだから。
けれど彼女は前向きで、勇気があり、一歩を踏み出す力を持っている。世界に対する恨み言ばかりを並べ立てたりはしない。だからこそ、彼女はすぐに自分の足で歩み出すことができるのだ。僕とは根本的にタイプが違う。僕は仮面を被っているからこそ彼女のように振る舞えるのであって、仮面を剥ぎ取った素顔の僕は、悲観的で、勇気がなく、未来を見失った哀れな人間でしかない。
そんな対極にいる二人が、まさか高校時代に出会い、僕の人生に火花を散らして本来の僕を救い出すことになるなんて。
これが世に言う「運命の人(貴人)」というやつなのだろうか。
こうして僕たちは、修学旅行の最終日を穏やかに、そして楽しく過ごした。ロン毛がこちらへ突っ込んんでくることはなく、時折遠くから彼女の姿をじっと見つめているだけで、それ以上の行動を起こすことはなかった。それだけで僕は大いに胸を撫で下ろした。
バスは学校へと到着し、すでに放課後の時間となっていたため、クラスごとにその場で解散となった。
温嘉鴻が僕の肩をぽんぽんと叩き、声をかけてきた。
「ごめん、オタク華。ちょっとこっちに来てくれないか? 少しだけでいいから、時間は取らせないからさ」
そういうことなら断る理由もない。これから特に予定があるわけでもないのだから。
僕は彼に付いていき、運動器具が置かれているエリアへと向かった。放課後とはいえ、滅多に生徒が通りかからない場所だった。
「一つ聞いていいか? もしお前が陳逸樺のことを好きなら、なんで告白しないんだ?」
「ああ、そっか。君たちは知らないんだったね。……他言無用で頼むよ。実はね、僕はもう告白済みなんだ。見事に『友達でいよう』って言われちゃってさ」
「彼女はお前のことが好きじゃないのか?」
「他人の感情を勝手に推測したくはないんだ。好意を寄せられることを喜ぶ女の子もいれば、重荷に感じる女の子もいる。どちらにせよ、僕なりに一歩を踏み出した結果さ。振られたことは想定外の悲劇なんかじゃなく、お互いが納得した着地点なんだよ。だから告白をしなくても、心の中でひっそりと彼女を想い続けるだけで、僕にとっては十分なんだ」
この男と向き合っていると、どうにも自分の本音を包み隠さず話してしまう。彼が口の軽い人間ではないと知っているからか、あるいは彼こそが僕にとっての「吐き出し口」になっているからなのか。
……待てよ。僕は今、陳逸樺と同じことをしているんじゃないか?
自分に好意を寄せてくれている相手に対して、自分の中の秘密をペラペラと打ち明け、そのくせ「僕を好きになるな」と突き放しているのだ。これでは相手に重荷を背負わせているだけじゃないか。
放ったブーメランが凄まじい勢いで自分自身の顔面に突き刺さり、僕は猛烈な胸の締め付けを感じた。
「そうか、分かったよ。お前がそういう覚悟でいるんなら、俺もこれ以上野暮な口出しはしない。俺たちは友達でいよう」
「ありがとう。僕のとり留めのない話に付き合ってくれてさ。君から呼び出されたのに、僕ばかりが喋っちゃってごめんね」
「気にすんなって。じゃあな」
彼は片手を軽く振ると、そのまま去っていった。
僕自身が温嘉鴻からの再度の告白を望んでいないように、陳逸樺だってきっと同じ気持ちなのだ。好きでもない相手からの告白なんて、ただの困惑と負担でしかない。
ほんの少しだけ最後まで足掻いてみようかとも思っていたけれど、この状況を見るに、僕もその浅ましい考えをタイムペッパーのように破り捨てるべきなのだろう。




