第十六章 なぜ僕はまた車にはねられたのか
温嘉鴻という人物についての記憶は、僕の元の世界線にはまったく存在しなかった。かつての僕という「日陰者(邊緣人)」の穴を埋めるために立ち現れた存在なのだろうか。一組には必ず一人、日陰者が存在しなければならない決まりでもあるというのだろうか。
そんなの知るか。もしそうなら「必然性なんてくそくらえ」だ。タイムトラベラーの僕たちにどれほどの錨定効果があるのかは知らないが、祖父が痰を詰まらせたからといって一組に日陰者が一人生み出されるなんて不条理、たまったものではない。
当然ながら、元の世界線に戻ってこんな現象を報告する者なんて誰もいない。そもそも「不確定な突発要素(ランダム性)」の存在だって、未来から来たタイムトラベラーに教えられて初めて知ったことなのだ。タイムペッパーが開発された当初、誰もが飛びついて買い求め、過去に戻ってTSMC(台積電)の株を買い占めて大儲けしてやろうと企んだものだが、その結末がどうなったかは誰も分からない。
やがて、別の世界線から来たトラベラーによって「これには不確定な突発要素が伴う」と明かされ、検証の結果それが事実だと分かると、誰もが手のひらを返したように買い控え始めた。
こうした群集心理の愚かさには、当時思わず笑ってしまったものだ。
僕はそんな周囲に流されるような人間ではない。……まあ、当時は確かに一瞬の衝動に駆られそうになったものの、結局三十五歳まで耐え抜き、ようやく一冊目——いま手元にあるこの一冊を買い求めたのだから。
「なんでずっとタイムペッパーを見つめてるの? やけを起こして破っちゃダメだからね……」
後ろから陳逸樺が声をかけてきた。僕が破いてしまうのではないかと、本気で怯えているようだった。
「破らないよ。ただ、これを破り捨てていたあの頃の日々が、なんだか懐かしくてさ」
「この世界線は嫌なの? なんであの日々が懐かしいのよ?」
「温嘉鴻っていう存在について考えてたんだ。僕がここへ現れたせいで、彼があんな風になってしまったんじゃないかって」
「どういう意味?」
「必然性の問題さ。もし一組に必ず一人日陰者が必要なのだとしたら、本来は僕だったはずの枠が温嘉鴻に取って代わられたんじゃないかって。僕のせいなんじゃないかと思ってさ」
「はあ? 考えすぎでしょ。あいつは高一の時からずっとああだったよ。あんただって高一の時は陰キャのオタクだったじゃない。未来の世界線から戻ってきたから急に性格が変わっただけで、それがなきゃ今だってどうせその陰キャのままでしょ」
「確かに元々はそういう冴えない奴だったけどさ……君にそこまでハッキリ言われると、なんだか複雑な気分だな。だからこそ、僕は戻ってきてこの高校生活をやり直してるんだよ。できることなら高一の最初からやり直したいよ」
僕は戯れにタイムペッパーを数ミリほど破く仕草をして見せた。この半年間は実に充実して楽しかったけれど、もしやり直せるなら最初からやり直したい気持ちもあった。そうすれば、上学期(一学期)のような妙な歪みも生じなかったはずだから。
「ちょっと、破かないでよ! 私の未来はあんたにかかってるんだからね、頼むから……お願いだからさぁ!」
彼女は僕の首に両腕を回し、ゆすりながら必死で懇願してきた。こんな風にお願いされて、どうして拒絶できるだろう。はぁ、自分がここまで「都合のいい奴」に成り下がっているのが、心底嫌になる。
「破らないってば。安心してよ、そんな風にお願いしないでくれ。……距離、距離!」
僕は首に巻きついた彼女の両腕をほどき、タイムペッパーをポケットへとしまい直した。
「じゃあなんで肌身離さず持ち歩いているのよ? 私なんて部屋の引き出しにあるノートの挟み込みの中に隠してあるのに」
「部屋掃除の時に勝手に捨てられたら困るだろ。そうなったら僕にはもう後戻りする手段(退路)がなくなってしまう」
他人の手によってタイムペッパーが破かれた場合、その「破いた本人」が過去へと跳んでしまうだけだ。仮に火葬場などに送られたとしても世界線に深刻な影響は及ばないが、万一に備えて一定の回収メカニズムが存在していた。
そういえば、もし温嘉鴻が人生をやり直したいと望むなら、僕のタイムペッパーを彼に破らせれば済む話だ。……だがそれをしてしまえば、この世界線の彼は救われないままだし、僕自身の退路も完全に絶たれてしまう。まさに双方に何の得もない結末だ。
僕はその考えを頭から追い出し、地道に少しずつ彼を軌道に乗せていこうと決め直した。
「まだ逃げ道(退路)を残しておきたいんだ」
「あんただって同じでしょ。じゃなきゃ、なんで捨てずに隠して持ってるんだよ」
「まあ……そりゃそうだけどさ。でもね、今の私は逆に破くのが怖くなっちゃった。だって破いたら、またあんたと離れ離れになっちゃうでしょ。私、それは嫌なんだ」
——うわぁ。
そんなことを言われた瞬間、僕の心臓はドックンドックンと激しく跳ね上がった。彼女にそんな深い意味がないことくらい分かっているのに、どうして僕は勝手に勘違いしてしまうのだろう。不潔でスケベな妄想ばかり膨らませる自分の脳みそが心底憎い。去れ、煩悩よ去れ。
「はぁ……わかったよ。じゃあ約束しよう。僕も君も、お互いに知らせないまま勝手にタイムペッパーを破くのは禁止だ」
「うん、約束する! 絶対にそんなことしない」
「それと、質の悪い男を引き寄せないためにも、あんまり頻繁に六組へ遊びに行かない方がいいよ。向こうに友達がいるのは分かってるけど、例の奴が絡んでくると面倒だからさ」
「あいつの綽名、『長髪(ロン毛)』っていうの。これからはそう呼んでよ。そっちの方が誰のことか分かりやすいでしょ」
「へえ、わかったよ」
放課後の誰もいない教室で、僕たち二人だけの秘密の会話を交わした。
温嘉鴻の問題については、遅かれ早かれ向き合わなければならない課題だ。明日学校へ来たら、彼が少しでも心を開き、僕たちの手をとってくれることを願うばかりだった。
僕はヘッドホンを装着し、軽快な音楽に耳を傾けながら自転車のペダルをこぎ、家路についた。
本来であれば、公道五路(新竹の主要道路)は極めて安全な道のはずだった。それなのに、僕は背後から走ってきた一台の乗用車に猛烈な勢いで追突されたのだ。
幸いにも、校則で自転車通学時のヘルメット着用が義務付けられていた。僕は相手の車のフロントガラスに激しく打ち付けられ、そのままアスファルトの上へと転がり落ちた。激痛と猛烈な眩暈に襲われながら横たわっていた。幸い今回は意識を失わずに済んだものの、周りに通報してくれる者は誰もおらず、事故を起こした車はそのまま逃走(轢き逃げ)してしまった。
僕は自力で這い上がり、歪んだ自転車を引きずりながら近くのコンビニへと駆け込んだ。店員に助けを求め、119番(救急)と110番(警察)を呼んでもらうよう頼み込んだ。
店員はとても親切で、横になれる場所を確保してくれた上、綺麗な水とタオルを出して傷口の応急手当をしてくれた。
まもなくして救急車とパトカーが到着した。元の世界線での事故の時は強がって救急車を拒否したものだが、前々回の世界線で学習した僕は、大人しく救急車に乗る方が安全だと知っていた。何より今回は悪質な轢き逃げだ。あの身勝手な加害者を絶対に逃がすつもりはなかった。
僕は自転車をコンビニの店先に鍵をかけて残し、救急車に乗り込んだ。
この時代の僕はまだ携帯電話を持っていたため、両親に連絡を取る術がなかった。
元の世界線でも交通事故に遭い、前々回の世界線でも交通事故に遭った。前回の世界線だけは、事故に遭う余裕すらなくタイムペッパーを破いたのだった。
……この状況において、僕は「不確定な突発要素(ランダム性)なんてくそくらえ」と吐き捨てるべきなのだろうか。それとも「必然性なんてくそくらえ」だろうか。
分からない。ストレッチャーの上に横たわりながら頭がグラグラと揺れて、何も考える気が起きなかった。けれど、ただじっとしているのも退屈だった。運動神経も鈍いくせに自転車通学を選んでいるなんて、僕はつくづく矛盾の塊のような人間だ。
病院のベッド脇に一番乗りで駆けつけてきたのが学校の教官(軍事教練官)だったことには、少なからず驚かされた。この世界線での僕は、教官とそこまで親しいわけではなかったはずだ。元の世界線では日陰者だったため、自主的に校内巡視隊(風紀委員)に志願していた。そうすれば文化祭や運動会でも見回りという名目でクラスメイトと関わらずに済み、接する相手といえば教官くらいだったからだ。
「施懷華、大丈夫か?」
「あ、教官……まさか一番に来てくださるなんて思っていませんでした。僕は大丈夫です。お医者さんによれば全身の打撲と擦り傷程度らしくて、手当のあとは脳の経過観察のためにしばらく横になって、超音波とX線を撮れば終わりだそうです」
「そうか、それならよかった。学校への連絡はこちらで手配しておく。ご両親にも連絡を入れたから、じきに到着するはずだ。担任にも知らせて、クラスでサポートできる生徒を探してもらうように伝えるよ。ところで、相手の車のナンバーは覚えているか?」
「はい、『NYKD-54』です。警察の方にも先ほどお伝えしました。見間違いでなければいいのですが」
しばらくすると両親が病院へと駆け込んできて、あれこれと質問攻めにされた。
ともあれ、今回の事故は前回のバイクの時ほど深刻ではなかった。自転車の速度がバイクほど出ていなかったのが幸いしたのだろう。
「京元電子の近くにあるファミリーマートに自転車を置いてあるんだ。できれば回収して家まで持って帰ってくれないかな」
僕は自転車の鍵を父親に手渡した。コンビニの店員さんが盗まれないよう気を配ってくれているはずだ。
「車体の回収は後で弟に行かせる。まずは車でお前を家に連れて帰るぞ」
「あ、待って。まだレントゲンが残ってるんだ」
レントゲン撮影を終え、骨に異常がないことを確認してから、僕は車で自宅へと連れ戻された。
鎮痛剤を飲んだものの、全身の至る所からじんじんと痛みが込み上げてきた。僕は千鳥足で自分の部屋へと戻り、机の引き出しを開けた。ポケットからタイムペッパーを取り出し、ノートの間に挟み込んだ。これなら母さんが部屋の掃除に来ても捨てられる心配はない。
車にはねられるというのは、本当に痛い。特に頭の眩暈と不快感は無視できないレベルで、僕は早めに薬を飲み、いつもよりずっと早く夢の中へと逃避したのだった。
◇
翌朝、僕は自力で目を覚ました。昨夜かなり早い時間に眠りについたおかげか、目覚めもいつもより早かった。
体のあちこちが痛んだが、これくらいの痛ましさなら十分に耐えられる範囲だった。ただ、自転車が大破して使えないため、今日からは父親の車で送迎してもらうことになる。
あ……宿題を何一つやっていない。まあ、事情が事情だし先生も怒らないだろう。最悪、学校に着いてから帥哥のノートを借りて写させてもらえばいい。
まさかこの世界線でまで交通事故に遭遇するとは思ってもみなかった。けれど噂によれば、台湾に住んでいる限り生涯で交通事故に遭って負傷する確率は八割にのぼるという。そう考えれば、僕は単にその確率を早めに消化しただけなのかもしれなかった。どうかこれ以上事故に遭いませんように。一回で十分だ。
食卓へ向かい、朝食を食べ始めた。母親は僕がこんなに早く起きてきたことに驚いた様子だった。いつもなら起こしに来る時間なのに、自力で起きてきたのだから無理もない。
「阿華、どうしてそんなに早く起きてきたの? 体が痛むの? 今日は学校休む?」
「ううん、父さんが送ってくれるから大丈夫だよ。重傷じゃないんだから、ちゃんと学校へ行かないと」
「でも頭がフラフラするって言ってたじゃない。そんなんで授業を受けて大丈夫なの?」
「分からないよ。行ってみなきゃ」
「無理そうならすぐお父さんに電話しなさいね。我慢しちゃダメよ」
「わかってるって」
朝食を済ませ、車で学校まで送ってもらった。校門の前にはちょうど教官が立っていた。うちの学校は制服の着こなしや頭髪・爪の検査といった校則の縛りはなかったが、それでも教官は毎朝登校時の安全確認のために門の前に立っているのだ。
「おや、施懷華。大丈夫だったか?」
「ありがとうございます、教官。昨日はすぐに病院まで来てくださって。今は全身が痛むくらいで、なんとかやってます」
正直なところ、三十五歳の精神というものは存外に脆かった。はねられた後のこの不快な眩暈に、僕は少し耐えきれなくなりそうだった。
「そうか、それならよかった。担任にも報告しておいたからな。当面の間はご家族の送迎か?」
「はい、しばらくはそんな感じになります。それじゃ、教室に行きますね」
教室に入るなり、全身に包帯やガーゼを貼り付けた僕の姿を見て、クラスメイトたちが一斉に駆け寄ってきた。
……元の世界線とは大違いだな。元の世界線では、一度急性胃腸炎にかかって教室の床に嘔吐してしまったことがあったのだが、誰一人として声をかけてくれず、僕は病み上がりの身体を引きずりながら一人で床の掃除をする羽目になったのだ。
「うわっ、オタク華! その体どうしたんだよ!?」
燕子、芊涵、小可愛、ア哲、そして帥哥が、僕の席の周りを一瞬で取り囲んだ。
「昨日、帰り道で車にはねられたんだよ。しかも相手は轢き逃げ。警察が捕まえてくれれば慰謝料を請求できるからさ。フフフ、人生初のまとまった金(第一桶金)が転がり込んでくるかもな」
実のところ、どれくらいの賠償金が出るのかすら僕には分からなかった。せいぜい壊れた自転車の一台分程度かもしれない。けれど、それで新しい自転車に買い替えられるなら怪我の功名と言えるのだろうか?
「バカだなあお前。示談(和解)して初めて手に入るんだよ。警察からの連絡を待ちなよ。それに民事の損害賠償なんて大した額にならないって。相手はおそらく酒気帯び運転(酒駕)だろうから、刑事罰の方が重くなるよ。あんたの取り分は自分でしっかり主張しないと」
さすがはクラスの優秀生、ア哲だ。まさか高校生でそこまで法律事情に詳しいとは。正直言って、僕自身はそんな知識など持ち合わせていなかったため、彼の言っていることが本当なのかどうかすら判別できなかった。
「あ、うん、わかった……」
そう答えるのが精一杯だった。三十五歳の社会人としての常識が、高校二年生の知識に劣っているという現実に、胸の奥から血が流れる思いだった。
チャイムが鳴り響き、みんながゾロゾロと自分の席へ戻っていった。そのタイミングでようやく、陳逸樺が僕の全身の包帯に気づいた。
「ちょっと、オタク華! 一体どうしたのよ!?」
「帰り道で車にはねられた」
「大丈夫なの!? すごく痛む?」
「めちゃくちゃ痛いよ」
そこへ担任の先生が教室に入ってきた。真っ先に僕の方へ視線を向けると、こう切り出した。
「みんなも気づいていると思うけれど、施懷華君が交通事故に遭いました。幸い擦り傷と打撲程度で済みましたが、しばらくは体を動かすのが大変だと思います。体育の先生には伝えてあるので、見学扱いにしてもらって運動は免除とします。……あ、宿題は免除されませんから、ちゃんと提出してくださいね」
先生がニヤリと笑ったので、僕は失礼にならない程度の引きつった笑顔を返しつつ、頭の中では後で軍神か帥哥のどちらからノートを借りて写そうかと算段を巡らせていた。ありがたいことに、今日の一時間目は英語ではなかった。もし英語だったら詰んでいたところだ。
……だが、一時間目が体育というのも、大して救いにはならなかった。
体育館の隅で、僕は温嘉鴻の隣に腰掛け、みんながバドミントンに興じる姿を眺めていた。
「ほらね。僕の世界線っていうのは、不確定な突発要素(隨機性)に満ち満ちてるんだよ。もし自分が車にはねられるってあらかじめ分かってたら、当然あの道を避けて通ったさ。でも知らなかったから、まんまとねられちゃったんだ」
「悲惨だな……さっき聞いたけど、相手は轢き逃げなんだろ?」
「そうだよ。自分が車にはねられるなんて夢にも思わなかったし、自力でコンビニまで助けを求めに行く羽目になるなんて、悲惨なんてもんじゃないよ」
「自力で通報したのかよ? 携帯電話を持ってないのか?」
「持ってないんだよ。親にお願いして一台契約してもらおうかな……」
今時の高校生らしくパカパカ開閉するガラケーだろうけれど、無いよりは遥かにマシだ。
「俺だって携帯持ってるのに、お前が持っていないなんてな。まあ学校じゃ使えないから、携帯があってもお前と喋る代わりにゲームしてるだけだろうけどさ」
「僕とのおしゃべりがそんなに嫌なのかよ? だったらみんなのところへ行ってバドミントンしてくればいいだろ。あいつらなら喜んで混ぜてくれるよ」
「いや……嫌がってるわけじゃないって。そんな言い方すんなよ」
この時代、「感情の揺さぶり(エモーショナル・ブラックメール)」という言葉はまだ世間に浸透していなかった。
「じゃあ何だよ。さっきの言い方じゃ、僕と喋るくらいならガラケーで遊んでいる方がマシだって意味じゃないか。ぐすん……」
僕は嘘くさい泣きマネをしてみせた。
「はいはい、お前の言う通りだよ」
「あ、そうだ。ついでに宿題貸してよ。昨日救急病院から帰ってすぐ寝ちゃったから、宿題やる時間が全然なかったんだよ」
「俺が宿題やってるように見えるか?」
「じゃあさ……先生! 体育の先生ー!」
僕は体育の先生を大声で呼びつけた。先生がこちらへ歩み寄ってくる。
「どうした、気分でも悪いのか?」
「はい、まだ頭がフラフラしてめまいがするんです。教室に戻って休みたいんですけど、階段とかで眩暈を起こして転落したら大変なので、温嘉鴻に付き添ってもらって戻ってもいいですか?」
「うむ、確かに危険だな。君は今日の授業は無理だし、温嘉鴻、彼に付き添って教室まで送ってやってくれ。途中で転ばないよう気をつけるんだぞ」
「ありがとうございます、先生!」
温嘉鴻は隣で呆然と立ち尽くしていた。まさか僕がこんな手を使うなんて思いもしなかったのだろう。フフン、読めなかっただろ。
「よし、それじゃあ僕を支えてくれ。一緒に教室に戻って宿題をやろう」
「お前……つくづくズル賢い奴だな」
「嫌ならみんなのところへ行ってバドミントンしてきなよ。僕のことなんてほっといてさ」
「わかったよ、担げばいいんだろ、担げば……」
少しばかり狡賢い小細工(小奸巧)を使ったけれど、頭の眩暈自体は本物だった。三十五歳の魂が悲鳴を上げているのかもしれない。
二人でゆっくりと時間をかけて教室へ戻った。誰もいない教室には静かに声が反響し、西日が僕の席を斜めに照らしていた。机の表面がほのかに熱を帯びていたので、刺さるような日差しを遮るために窓際のカーテンを引き引いた。
「温嘉鴻、宿題を出してくれ。一緒に片付けよう」
「はぁ……どこから手をつけるんだよ?」
「全教科手付かずだけど、まずは英語からやろう。小玉の席に座りなよ」
小玉の席は僕のすぐ左隣にあった。
僕たちは誰もいない教室でノートを広げ、時折相談し合いながら宿題に取りかかった。
残りの四十分間があれば、なんとか全部終わらせられるはずだ。
時間はあっという間に過ぎ去り、苦労の末にようやく終わりが見えてきたところで、授業終了のチャイムが鳴り響いた。
「俺、自分の席に戻るわ。みんなが戻ってくる」
「いいよ、書き終わるまでそこにいなよ。小玉ならきっと理解してくれるさ」
「……なぁ。お前、元々は日陰者(邊緣人)だったんだろ? なんでこの世界線じゃみんなとそんなに仲良くやれてるんだよ? 疲れないのか?」
「前回も言ったろ? 僕は『微笑みの仮面』を被っているんだよ。疲れるかどうかって言われれば、当然疲れるさ。家に帰って仮面を外せば、元の陰気でうつ病な僕に戻るんだから」
「なんでそこまで無理するんだよ? みんなと仲良くなったら、そんなに生きやすくなるものなのか?」
「そりゃそうさ。現に今だって軍神や帥哥から宿題を借りようとしてたろ? すごく便利じゃないか。仲良くなかったら、ノートなんて貸してくれないよ」
「……言われてみればそうだな」
彼は国語の穴埋め問題が数問、僕は数学の小テスト用紙が数問残っていた。
その時、体育を終えたクラスメイトたちがゾロゾロと教室へ戻ってきた。そこには当然、小玉の姿もあった。ただ陳逸樺の姿は見当たらなかった。また六組へ遊びに行っているのかもしれなかった。あんなに注意したというのに、はぁ……。
「あれ? 温嘉鴻、なんで私の席に座ってるの?」
「あ、ごめん! すぐ退くよ」
「いいっていいって。宿題やってるんでしょ? チャイムが鳴るまでそこにいなよ。がんばってね、次の時間は国語だからさ。分からなかったらヒントくらいあげられるけど、答えの丸写しはダメだからね!」
その言葉は、おそらく温嘉鴻が一組に来て以来、クラスメイトからかけられた中で最も長い言葉だったのではないだろうか。
「……うん、ありがとう」
「あ、私のこと知らないでしょ? 楊曉郁だよ。『小玉』って呼んでね。それじゃ、宿題の邪魔しちゃ悪いから芸芸のところに行ってくるね」
小玉は相変わらず明るくフレンドリーだった。僕がこの世界線に来たばかりの頃と同じように、見知らぬ相手にも物怖じせず気さくに声をかけてくれる。こういう存在がいること自体、一組にとっての大きな救いなのだ。
「ね、言った通りだろ? 彼女なら分かってくれるって」
「……へいへい。無駄口叩いてないで、さっさと宿題終わらせるぞ」




