第九章:足利直冬の反抗記
一
正平七年(1352年)、弟・直義の死によって観応の擾乱は一応の終結を見た。しかし、尊氏の脳裏に安息の二文字が訪れることはなかった。直義の遺志を受け継ぎ、西国で凄まじい勢いをもって蜂起した男がいたからである。
足利直冬。
彼は直義の養子であったが、その実の出自は、尊氏が若き日に庶子として生ませ、その存在を認知せず冷遇し続けた尊氏の実の長男であった。
「直冬が、南朝の軍勢を率いて京へ進撃しております。その勢い、かつての北畠顕家や楠木正成にも劣りませぬ!」
家臣らの悲鳴混じりの報告を、老境に入った尊氏は静かに聞いていた。直冬は、父に捨てられたという強烈な怨嗟の業を原動力とし、さらに直義を慕っていた旧直義派の武士たちを急速に糾合していたのである。
この直冬の蜂起は、尊氏という巨人が天下を統一するために切り捨ててきた「個人の情」と「血の不条理」が、巨大な影となって本人を襲ってきた、まさに歴史の因果応報であった。
「直冬は父上への復讐に燃えております。ここは私が、足利の嫡流として奴を討ち果たしましょう」
京を共に守る嫡男の足利千寿王改め足利義詮は、父に代わって出陣を志願した。しかし、直冬の知略と執念は義詮の器量を遥かに凌駕していた。
正平十年(1355年)、直冬の軍勢は南朝軍と結託し、京の都を東西から完全に包囲する大局的な配置を完成させた。義詮の防衛線は次々と突破され、幕府軍はまたしても京の都を追われ、近江国へと撤退を余儀なくされた。
「父上、申し訳ございませぬ……。我が不徳の致すところ、都を奪われました」
血に汚れ、落胆する義詮の前に、尊氏は静かに立ち上がった。この時、尊氏の身体は、長年の戦傷と、弟を殺したという精神的苦悶に蝕まれており、歩行すらままならぬ状態であった。
しかし、彼の脳内を駆け巡る思考の流れは、驚くほど冷徹で、かつ冴え渡っていた。
(直冬が強いのは、私への憎しみという限定された志があるからだ。人間は、純粋な憎悪によって一時的に超的な力を発揮する。されど、憎悪を基盤とした組織は、標的を失うか、あるいは長期戦になれば、必ず内側から崩壊する。直冬に従う武士たちは、彼の復讐に付き合いたいのではない。足利の正統たる者から、己の土地を認めてほしいだけなのだ)
尊氏が下した判断は、「病体に鞭打ってでも、自らが総大将として最前線に立ち、足利の絶対的な正統性を示すこと」であった。彼は、自らが死の淵にあるという危険を完全に承知の上で、全軍に京奪還の下知を飛ばした。
「我が命の灯火、尽きる前に、足利の真の武を示してくれよう。馬に乗せよ」
二
正平十年(1355年)三月、京都東寺一帯において、足利尊氏率いる幕府軍と、足利直冬・南朝の連合軍による、事実上、擾乱の最終決戦の火蓋が切られた。
歴史地理的に見れば、東寺は京の南の玄関口であり、巨大な五重塔を擁する要塞でもある。直冬はここに本陣を置き、父を迎え撃った。
尊氏は、あえて自らの本陣を直冬の目と鼻の先に配置するという、極めて危険な囮の戦術を取った。
「直冬よ、私を憎むなら、この首を獲りに来い。お前の刃を、真正面から受け止めてやる」
「……あそこにいるのは、本当に大御所(尊氏)なのか」
東寺の山門で槍を構える直冬は、遠方に見える「二つ引両」の旗印と、その下に毅然と座す満身創痍の老将の姿を見て、不気味な寒気を覚えた。
「突撃せよ! 怯むな! 尊氏の首は目の前だ!」
本陣の奥で、直冬が狂ったように軍配を振り下ろし、絶叫する。
「あの男は私を息子と認めず、捨てた!自分の 弟を殺し、天下を欺く大悪党だ! 奴の首を上げ、我が無念を晴らせ!」
直冬の凄まじい執念に応え、西国の精鋭たちが怒号を上げて尊氏の本陣へと肉薄する。激突する両軍の刀剣が火花を散らし、東寺の境内は一瞬にして血の海と化した。引き裂かれる肉、断たれる四肢。凄絶な金鳴りが響くなか、直冬の兵たちは、あと一歩で尊氏に届くところまで攻め込んだ。
しかし、その時、馬上の尊氏がゆっくりと、ただ静かに戦場を見据えた。その瞳には、恐怖も怒りもなく、ただすべてを包み込むような、底知れぬ静寂があった。
「な、なんだ、あの目は……」
先陣を切っていた直冬の足が、不意に止まった。槍を握る手が、見たこともないほど激しく震えている。
実の父が、満身創痍の姿で戦場の最前線に君臨している――。その厳然たる事実は、直冬軍の武士たちに、えも言われぬ心理的制約を与えた。彼らにとって尊氏とは、北条を滅ぼし、後醍醐天皇と戦い、この武士の世を作った「生ける伝説」そのものだったからである。
人間は、圧倒的な器の前に立つと、利害や憎悪すらも凍りつく。尊氏は、自らの命を餌にしながら、その人間の心理を完璧に利用したのである。
三
その一瞬の動揺を、尊氏が見逃すはずはなかった。
「義詮、今だ。足利の正統の力を、彼らに見せてやれ」
待機していた義詮の軍勢が、直冬軍の側面に怒濤の猛攻を仕掛けた。
「遅れるな! 父上をお守りせよ! 逆賊どもを叩き潰せ!」
義詮の咆哮とともに、幕府軍の騎馬隊が直冬の陣形を真っ二つに叩き割る。数日間に及ぶ激しい市街戦の末、大義名分と戦意を喪失した直冬の軍勢は、一人、また一人と武器を収め、戦場から次々と脱落していった。
「直冬様、もはやこれまでです! これ以上は兵たちが動きませぬ!」
側近の言葉に、直冬は万感の思いを込めて、遠い本陣の父を睨みつけた。
「これだけ戦ってもついに傷一つ付けることすらできなかった。しかし強い。実に強かった。それがわかっただけでもこの戦には価値があった。父上。叔父上。兄弟。そして京よ。もう二度と目にうつすことは出来ぬが、この戦を我が一生の宝としよう。」
直冬は、どこか満足そうに西国へと向かっていった。以降、二度と歴史の表舞台に浮上することはなかった。
東寺の境内に立ち、煙の上がる京の街を見つめながら、尊氏は激しく咳き込んだ。口から溢れたのは、黒い血であった。
「これで……これでようやく、私の戦いも終わりか……」
東寺の戦いにおける勝利により、足利幕府の正統性は誰の目にも揺るぎなきものとなった。武士たちは皆、足利尊氏という不世出の棟梁の下に平伏することを選択したのである。
己の血脈がもたらした最後の呪いを解いた尊氏は、静かに、京の二条にある自らの屋敷へと戻った。そこには、新しき世の完成を見届けるための、短い、しかし彼にとって最も濃密な最後の時間が待っていた。
(最終章へ続く)
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