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小説 足利尊氏 天秤の毒 1305-1358  作者: 山田 誠一


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最終章:天秤の標

正平十三年(1358年)春。京都二条の足利邸の奥深く、天下の権力を一身に握る室町幕府初代将軍・足利尊氏は、静かに病床に伏していた。

かつて数多の戦場を駆け抜けた強靭な肉体は見る影もなく、背中の腫物はすでに全身を蝕み、医師たちももはや手を尽くせぬ状態であった。五十四年の生涯の灯火が、まさに消え入ろうとしていた。


枕元には、次代の将軍となる嫡男・足利義詮あしかが よしあきらが、張り詰めた緊張のなかで控えていた。

「父上、体調はいかがですか。どうか、ご無理をなさらず……」


尊氏は、深く落ち窪んだ眼をゆっくりと開き、頼りなげに肩を落とす我が子をじっと見つめた。そして、かすれた声を絞り出すようにして、語り始めた。


「義詮よ……。私は間もなく、この地上を去る。お前に、私が残したこの幕府という構造の、真の扱い方を伝えておかねばならぬ」


「父上、私は……」

義詮は畳に視線を落とし、唇を噛んだ。その目には、未来への圧倒的な恐怖と、父への気後れが滲んでいた。

「私は、父上のように偉大ではございませぬ。戦に出れば父上のように神がかった勝利を収められるわけでもなく、人々の心を一瞬で魅了する器量もございませぬ。このような偉大すぎる父を持っては、私には到底、手本にすらなりませぬ……! 私は、将軍としてどう生きれば良いのですか」


我が子の悲痛な吐露を聞き、尊氏は優しく目を細めた。

「手本になど、ならなくて良い。いや、私の真似など決してするな、義詮。私はただの不条理な怪物だ。仲間を裏切り、恩人を討ち、最愛の弟すらこの手で殺した。そんな狂った生き方、お前が真似てどうする」


尊氏はゆっくりと息を吐き、かつて自分が滅ぼした「過去」の記憶を紐解き始めた。


「振り返ってみよ。我らが滅ぼした鎌倉の、北条の将軍(執権)たちがなぜ破滅したか。奴らは、身内だけの狭い『理』と『法』に凝り固まり、新しく台頭してきた全国の武士たちの剥き出しの『欲』と『利』を見ようとしなかった。武士たちが命を懸けて得た所領を認めず、恩賞を惜しみ、力で押さえつけようとした。だから、不満を溜め込んだ武士たちに、一気に足元をすくわれたのだ」


「では、私はどうすれば……」

すがるような義詮の問いに、尊氏は、自らの死後に訪れるであろう時代の制約を見据え、冷徹な現実主義の眼光を宿して答えた。


「足利の将軍は、北条の逆をいくのだ。義詮、決して独裁を敷こうとしてはならぬ。守護たちの力を力で押さえつけるのではなく、彼らを幕府という巨大な合議のなかに取り込み、利を分かち合う『協調の構造』を作るのだ」


尊氏の声には、かつてない力が籠もっていた。それこそが、彼が流した血の海の果てに見出した答えだったからである。


「直義が命を懸けて愛した理を以て、誰もが納得する法を整えよ。そして、師直が信じた利を以て、泥臭い武士たちを富ませよ。二つの相反する力を天秤にかけ、その真ん中で、両方の言い分を笑って聞き続けること――。それこそが、足利の将軍が背負うべき役目である。お前が弱く、凡庸であるならば、なお良い。守護たちの声をよく聞き、彼らに頭を下げて神輿に乗せられよ。その神輿こそが、幕府という名の国家の形となる」


この尊氏の遺言こそが、のちに三代将軍・足利義満によって花開く「室町幕府の守護体制」の絶対的な基礎となった。尊氏は、自らの死という絶対的な限界のなかにあっても、百年の計を以て国家の設計図を我が子に遺したのである。


死を目前にした尊氏の心は、教えを授け終えると、驚くほど穏やかになった。

彼は、自らの部屋の窓から、遠くに見える天龍寺の屋根を見つめていた。その脳裏には、これまでの生涯で交錯していった、魅力的な歴史の人間たちの姿が、凄絶な戦場の記憶とともに走馬灯のように駆け巡っていた。


一族の存続と足利の血脈を説いた父・足利貞氏。

不条理な世に憤り、あまりに清らかな理の政治を求めて散った弟・足利直義。

人間の欲と戦の現実を誰よりも知り、最期まで己の利を貫いた執事・高師直。

武士の意地と絶対の忠義を、湊川の血煙のなかに刻み付けた楠木正成。

そして――自分を逆賊と呪いながらも、その圧倒的な魂の輝きで、生涯己を魅了し続けた、後醍醐天皇。


「皆、凄まじい戦を生きたな……」

耳の奥に、かつて戦場で聞いた怒号と、甲冑の擦れ合う音が響く。皆、時代の厳しい制約のなかで、己の志を果たそうと命を燃やし、割して死んでいった者たちであった。


「父上、何か後悔はございませぬか、この義詮に何か出来ることはありますか」


義詮が、堪えきれずに涙をハラハラと流しながら、震える声で問いかけた。

実の弟を殺し、実の息子を放逐し、恩人を裏切り続けた父の生涯。世間は彼を「稀代の陰謀家」と呼び、裏切りの王者と謗ることもあった。その歩みが、深い血の匂いと後悔に満ちたものであったろうと、誰もが思うに違いなかった。


しかし、尊氏は薄く微笑んだ。

その微笑みは、天下を恐怖させた怪物のそれではなく、幼き頃に足利の郷で弟と泥まみれになって遊んでいた時と、何ら変わらぬ純粋なものであった。


「後悔ばかりだ。本当に大事な決断にはな、選ばなかった方にどうしても後悔が残る」

尊氏は義詮の手を、かすかな、しかし確かな力で握り返した。

「だがな、義詮よ。人間にとって大事な生き方とは、過ちを犯さぬことでも、美しいままで生きることでもない。己が選んだ道をすべて愛せるかどうかだ」


これこそが、足利尊氏という男が命を懸けて辿り着いた哲学の極致であった。

人間は不条理な運命の中に生まれ、思い通りにならぬ制約に縛られる。しかし、そのなかで下した決断のすべてを受け入れ、引き受ける覚悟を持った時、人の人生は初めて、己の志に合った「羅針盤」を手に入れるのである。


四月三十日。京の都に、爽やかな初夏の風が吹き抜けるなか、足利尊氏は静かに息を引き取った。

その表情は、天下を統一した英雄のそれというよりも、すべての重荷をようやく下ろし、懐かしい戦友たちが待つ場所へと旅立つ、一人の旅人のそれであった。


足利尊氏の死によって、日本の中世はひとつの大きな区切りを迎えた。彼が遺した室町幕府は、その後二百数十年にわたり、公家と武士、文化と実利が奇跡的な調和を保つ、日本独自の豊かな社会の土台となったのである。


(『天秤の毒』全十章・完)

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