第八章:足利直義の毒
一
正平六年(1351年)。高師直を殺害した足利直義が京の幕政を再び掌握した。
ものの、それは真の平穏を意味してはいなかった。尊氏の心はすでに、最愛の弟を「この国の秩序のために排除せねばならぬ敵」として、冷酷に見ていた。
しかし、直義の背後にはいまだ膨大な数の保守派武士がついており、戦えば再び泥沼の戦いになりかねない。ここで尊氏の脳内に閃いたのは、歴史上類を見ない大博打であった。
尊氏が下した次なる決断は、「直義の持つ南朝の大義名分の完全な剥奪」であった。
同年十月、尊氏はあろうことか、長年の宿敵であった吉野の南朝へ正式に降伏を申し入れたのである。これは足利幕府という自らの拠って立つ基盤を一時的に全否定し、北朝の光厳・光明両上皇を廃位してまで敢行された、文字通りの捨身の政略であった。
「正平一統」南北朝時代が終わり、南朝だけが生き残った。
日本中がこの知らせに驚愕した。
そして尊氏は南朝から直義討伐の綸旨を取り付けた。
瞬間、構造は一夜にして大逆転する。
昨日まで「南朝の官軍」として正義を誇っていた直義は、一転して不義理な朝敵の汚名を着せられた。孤立した直義は、己の政治的理想郷であり、足利の故郷でもある鎌倉を目指し、東海道を落ち延びていく。直義の悲痛な叫びは、駿河の激しい潮騒へと消えていった。
二
正平六年十二月、尊氏は、自ら圧倒的な大軍を率いて直義を追撃した。駿河国・薩埵山の険阻な山道において、ついに兄弟の軍勢が激突する。
地理的に見れば、薩埵山は駿河湾に山肌が鋭く突き出た交通の要衝であり、わずかな兵で大軍を阻止できる天然の要害。直義はここに強固な陣を敷き、鬼の形相で兄を迎え撃った。
「放てっ! 一人たりとも山へ登らせるな!」
直義軍が、烈火のごとく刀を振り下ろす。山頂から雨あられと降り注ぐ巨石と無数の矢が、突撃する幕府軍の甲冑を砕き、肉を裂いた。凄まじい地鳴りと叫び声が駿河湾の荒波に響き渡り、麓の砂浜は瞬く間に兵たちの血で赤く染まっていく。大音響とともに火花を散らす刀剣、飛び散る肉片。戦場は地獄絵図そのものであった。
しかし、今の尊氏には、かつての迷いも躊躇いもなかった。
尊氏は、正面から要害を力攻めにする危険を避け、あえて背後の駿河・伊豆の国人衆を徹底的な「調律(調略)」によって切り崩すという、冷徹な実利の包囲網を敷いた。
師直亡き後も、尊氏は「人間は利と恐怖で動く」という現実主義を、完璧に己の戦術に昇華させていたのである。
退路を完全に断たれ、内側から瓦解した直義軍は、ついに潰え去った。直義は鎌倉へと逃れるも、完全に包囲され、兄に降伏せざるを得なかった。
三
正平七年(1352年)二月二十六日。鎌倉の薬師堂の奥で天下を揺るがした骨肉の争いは、静寂のなかで終わりの時を迎えようとしていた。
囚われとなった直義の部屋の部屋に尊氏がいつものように膳を運んできた。
やがて畳の上には、二人分の簡素な食膳が並べられ尊氏は席についた。
尊氏は食事に美しく合掌し箸をとった。
部屋の隅にはいつものように部屋の中央を見据えた直義が膝を抱えてうずくまっている。
尊氏は静かに、小さな瓶を傾け己の汁物に少しずつ垂らしている。
「兄上、何をしておられるのです」
髪が白く染まった直義が、鋭い眼光で兄を睨み据えた。
尊氏は、かつてと変わらぬ穏やかで、ようやく口を開いた弟にほほえみを浮かべて、静かに瓶を置いた。
「直義。お前は死なねばならぬ」
「兄上、存じております」
「だが弟のお前に腹を切らせることも、首を刎ねることもできぬ。してはならんのだ」
「どうしてですか。兄上。一人殺せばおわる話です」
「武士の頂点たる私が、実の弟を公に処刑したとなれば、天下の民衆や国人どもは反感を抱き、幕府の権威は大きく失墜する。こ天下を治め、お前の望んだ『理の世』を築くためには、お前はここでお前自身の手で死なねばならぬ。直義、今日お主は毒を飲むのだ」
直義は自嘲気味に笑った。
「それが、兄上の大局ですか。毒はどこです」
「お前に用意した毒はな、全く味がせぬらしい。ただ、ひたすらに眠くなってもう目が覚めないだけの毒だそうだ。苦しみはない」
尊氏は静かに汁物の椀を持ち上げ、熱さを冷ますために少し息を吹きかけた。
「だがな、直義。考え直したのだ。私も疲れた。ともに逝こう。瓶に毒は半分残してある」
尊氏が椀を傾けようとした、その瞬間。
直義が凄まじい気迫で這い寄り、兄の手から強引にその椀を奪い取った。
「何をする、直義!」
「勘違いしないでいただきたい、兄上!」
直義は奪い取った汁物も薬瓶の中身も、自らの膳の飯に一気にぶちまけた。
「これは、私のために用意された、私の毒だ! 一緒に死ぬなど、そんな甘えをこの足利直義が許すと思うてか!」
直義は、毒の染みた飯を、一気に口へと掻き込んだ。
「兄上は生きるのだ。北条より良い世をつくると!我らは業火に包まれた鎌倉に約束したでしょう!」
激しく言い放つ直義の額に、じわりと汗がにじむ。毒が、その身体を巡り始めたのだ。
部屋に訪れたのは、かつての足利の屋敷のような、奇妙に穏やかな沈黙だった。
「……直義、覚えているか。むかし二人で夜空を見上げながら、これからの天下について語り明かしたな」
尊氏は、目を細めて語りかけた。
「ええ……覚えていますとも」
直義の視線が、わずかに虚ろになる。激しい睡魔が彼を襲い始めていた。
「あの時の兄上は、今よりもずっと……頼りなくて、お人好しで……、何をしでかすか全然わからなくて……。あんまり今と変わっていませんね……。だから、私が、いつもしっかりしなければと、いつも……」
「ああ、お前がいてくれたから、私は天下をとれた」
壁にもたれ横に崩れ落ちようとする直義の身体を、尊氏はそっと抱きとめた。
直義の呼吸が、だんだんと浅く、小さくなっていく。
「直義……もし、次に目が覚めたら。また一緒に、馬を並べて戦に行こう。あの時のように、お前が理を説き、私が戦うのだ。また、一緒に戦おう」
直義は、もう開かぬ目を閉じたまま、微かに、本当に微かに、満足そうな笑みを唇に浮かべた。
「……兄上となら、いつでも。……何度でも」
それが、足利直義の最後の言葉となった。
すう、と直義の身体から力が抜け、完全に呼吸が止まる。
享年四十五。
奇しくも、高師直の一周忌の当日であった。
「直義……」
尊氏は、弟の肩を揺さぶった。
「直義、起きろ。まだ早いだろう。話したい事がまだまだあるのだ。おい、起きてくれ、直義……!」
返事はない。しんしんと降り積もる雪の音が、部屋の静寂をさらに深くする。
尊氏は、直義の冷たくなっていく胸に顔を埋め、子供のように声を上げて、激しく部屋中に響き渡る声で慟哭した。
「直義! 私を、私を一人にしないでくれえええっ!」
天才的な政略で、執念で、ついに天下の覇権を揺るぎないものにした足利尊氏。
しかし、その怪物の仮面の裏にいたのは、最愛の弟を自らの手で葬り、果てしない孤独と大罪の荒野に、たった一人で取り残された悲しい男の姿であった。
(第九章へ続く)
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