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小説 足利尊氏 天秤の毒 1305-1358  作者: 山田 誠一


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第七章:高師直と弟


後醍醐天皇の崩御を経て、室町幕府の基盤は盤石になったかに見えた。しかし、正平四年(1349年)、尊氏が誇った双頭政治の歪みは、一気に破局へと向かい始める。

法秩序と伝統を重んじる足利直義と、戦功第一主義で既存の権威を徹底的に排する高師直の対立は、もはや対話で修復できる限界を遥かに超えていた。


「兄上、高師直の専横はもはや目に余ります!」


直義は怒りで肩を震わせ、尊氏の前で畳を激しく叩いた。

「奴は主上の崩御に乗じ、由緒ある公家や寺社の領地を強奪しては己の部下どもに分け与えております。あまつさえ『天皇や上皇など、邪魔ならば木や金で代わりを作れば良い』と放言しているのです。このような無法者をのばせば、我らが命を懸けて築き上げた幕府のことわりは根底から崩壊いたします! 今すぐ師直を罷免なされませぬか!」


直義の義憤は、秩序を愛する者としての正当な叫びであった。

しかし、これを知った師直は、己を支持する数万の武士たちを背後に従え、鼻で笑うように尊氏に言い放った。


「直義様は、未だに古い鎌倉の夢を見ておられる」

師直の眼光は、濁った乱世を生き抜く獣のように鋭く、冷徹であった。

「我ら武士が命を懸けて戦うのは、公家どもが作った生温い法や理を守るためではございませぬ。恩賞のため、そして奪い取る領地のためです。直義様、ご自身の高潔な『理屈』だけで、この荒くれ者どもの腹が膨れるか試してみるが良い。我らがいなければ、足利の看板など一日で消え失せるのだ」


理を説く直義と、利を体現する師直。

二人の間で、尊氏の脳内ではかつてない激しい思考の天秤が揺れていた。


(直義の言う理は、この国家が長きにわたって存続するために不可欠な、最も強固な骨組みである。これがない組織は、ただの略奪を繰り返す野盗の集まりに過ぎぬ。

されど、師直の持つ利と力こそが、現実にこの幕府を支える圧倒的な軍事力の源泉なのだ。もしここで師直を切り捨てれば、恩賞に飢えた全国の戦国武士たちは一斉に足利を離れ、この国は再び無秩序な大戦乱の闇に逆戻りする)


尊氏が下した決断は、ここでも「破局の完全な回避と調和」であった。彼は、直義の面子を立てるために、一度は師直を執事職から解任する。

しかし、この温い決断が、最悪の暴発を引き起こす引き金となった。


「直義を引きずり出せ! 邪魔立てする者は誰であれ、容赦なく叩き斬れ!」


執事職を奪われたことに激怒した師直、そしてその兄である高師泰は、自らを支持する数万の完全武装した大軍を率いて、京の直義の邸宅を完璧に包囲した。


夜の京を照らすのは、無数の松明の不気味な炎と、甲冑が擦れ合う金属音であった。

包囲陣の先頭に立つ高師泰は、己の乗る漆黒の馬を嘶かせ、立ちはだかる幕府の警護兵に向けて凄まじい怒号を放った。


「将軍であろうと何であろうと、我ら武士が生きていくための土地を脅かす者はすべて敵だ! どけ! さもなくば、この馬蹄で踏み潰して引き裂いてくれるわ!」


京の都が、足利の身内同士の戦いによって再び炎に包まれようとする極限の緊迫。

ここで尊氏は、重大な危険への対策を講じる。

自らの屋敷に直義を密かに匿い、松明の光が揺れるなか、迫り来る師直・師泰の数万の軍勢の前に、一切の武器を持たず、ただ一枚の直衣を纏っただけで単身立ちはだかったのである。


「師直、師泰、引け。これ以上の私闘は、足利の完全なる破滅を意味する」


尊氏の身体から放たれる、底知れぬ圧倒的な覇気。その姿に、血気に逸る数万の兵たちの動きが、ピタリと凍りついた。尊氏は、師直をじっと見つめ、静かに己の決断を告げた。

「直義の政務権を完全に剥奪し、出家させる。それを以て、今回の件の手打ちとせよ」


尊氏は、あえて「最愛の弟の政治生命を絶つ」という非情な決断を下すことで、師直らの暴発を抑え込んだ。これは、直義という「理」を一時的に眠らせ、師直という「利」の暴走を容認する、極めて危険な妥協であった。己の肉親を犠牲にしてでも、室町幕府という大局的な構造を維持しようとしたのである。


しかし、この決断は、直義という人間の矜持を、そしてその心の奥底に眠る業を、完全に見誤っていた。


誇り高き直義は、兄のこの仕打ちに深い絶望を抱き、そして、烈火のごとく激怒した。

「兄上は……、兄上は私の語る理よりも、師直の剥き出しの暴力を選ばれたか。ならば、私は私の正義を、地獄の果てまで貫くだけにございます」


正平五年(1350年)、直義は深夜の京を密かに脱出。

あろうことか、昨日までの宿敵であった吉野の南朝に降伏し、その「官軍」として兄と師直を討つという、絶対の禁忌である決断を下したのである。


歴史を俯瞰すれば、この直義の行動は、足利幕府の権威を根底から揺るがす構造的な大逆転であった。南朝という錦の御旗を手に入れた直義のもとには、師直の専横に激しい不満を抱いていた全国の保守的な国人武士たちが続々と集結し、幕府は完全に二つに引き裂かれた。


「観応の擾乱」という、骨肉の悲劇の始まりである。


出陣を前に、尊氏は一人、仏間の闇のなかで慟哭した。


(私が選択を重ねるたびに、大切な者たちが私から離れ、敵となって牙を剥く。これが、天下を統べる者が背負わねばならぬ宿命の業というものか)


正平六年(1351年)二月。

播磨国・光明寺合戦をはじめとする各地の戦場は、昨日までの味方が殺し合う、凄惨極まる血の海と化していた。


「直義様こそが、真の秩序を敷く我が大将なり! 逆臣・高師直を討ち果たせ!」


直義軍の先鋒を務める石塔頼房いしどうよりふさが、南朝の赤い軍旗を翻し、足利の幕府軍に向けて怒濤の突撃を敢行する。

飛び交う無数の矢が空を遮り、鋭い刃が肉を裂く。直義派の武士たちは、師直への怨嗟と「官軍」としての誇りに狂い立ち、圧倒的な勢いで尊氏の直属軍を圧倒した。激しい泥濘のなかで、死体は次々と踏み潰され、戦況は幕府軍の圧倒的な劣勢に傾いていった。


戦況が完全に泥沼化するなか、尊氏は全軍の崩壊を防ぐため、直義との一時的な和睦を模索する。しかし、直義派の武士たちがその引き換えとして突きつけた条件は、高師直・高師泰兄弟の「完全なる排除」であった。


「尊氏様、我が命数は、どうやらここまででございます」


数々の修羅場を獰猛に生き抜いてきた高師直が、この時ばかりはすべてを悟ったように、静かに微笑んで言った。

「直義様と和睦なされませぬか。我ら兄弟の首を差し出せば、幕府の求心力は再び一つに戻りましょう。貴方様が創る世の礎になれるなら、この命、安いものにございます」


尊氏は、師直の助命を絶対条件として直義と和睦を結び、師直兄弟を出家させて摂津国から京へと護送させることにした。

しかし、その道中。直義派の急進的武将・上杉能憲うえすぎよしのり率いる軍勢が、不気味な静寂を破って護送隊を襲撃した。


「高師直! 我が養父(上杉重能)を謀殺した貴様の罪、その首を以て償うが良い! これこそが、幕府に敷かれる真の正義、我が一族の怨念の刃なり!」


能憲の叫びと共に、刃が容赦なく振り下ろされた。師直兄弟は、抗うすべもなく、一族もろとも無残にその場で虐殺された。

最期の瞬間、師直は能憲を鋭く見据え、血を吐きながら不敵に笑い飛ばした。


「ハハハ! 殺すが良い! だが忘れるな、我ら武士の『いのち』を否定する直義の美しい『理屈』など、ただの絵空事。我ら亡き後の足利は、内側から腐り落ちるぞ……!」


京の陣でその報せを聞いた尊氏は、崩れ落ちた。自らの両腕であった「利」の象徴が、完全に失われたのである。

和睦の儀のために、冷たい静寂が満ちる部屋で顔を合わせた直義の眼光は、勝利の熱を孕みつつも、冷徹そのものであった。


「兄上、これで幕府を蝕んでいた不条理は綺麗に除かれました。これより、再び私とともに、美しい理の政治を行いましょう」


血を分けた弟の言葉を聞きながら、尊氏の心の天秤は、完全に氷のように冷え切っていた。


(直義……お前は師直を殺した。いや、お前に師直を殺させたのは、私の優柔不断だ。

お前は綺麗事としての理を説くが、その理のためにどれほどの血が流れたか、その身に返る業の深さが分かっているのか。私は、お前をもう許さぬ。お前を討たねば、この国の乱世は永遠に終わらぬのだ)


尊氏は、直義が差し出した血塗られた手を握り返しながら、その眼裏に底知れぬ漆黒の決意を宿していた。

あえて和睦という協調の仮面を被りながら、尊氏は、最愛の弟を完全に葬り去るための、最も冷酷な策略を脳内で組み立て始めていた。


兄弟のかりそめの抱擁の後ろで、京の都には、嵐の前触れのような不穏な風が吹き荒れていた。


(第八章へ続く)

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