第六章:二つの朝廷、二人の天皇
一
延元元年(1336年)十一月。
名実ともに京の主となった足利尊氏は、ひとつの大きな制度を天下に示した。のちに室町幕府の根本法となる『建武式目』の制定である。
尊氏は、吉野へと敗走した後醍醐天皇から三種の神器を没収し(厳密には光厳上皇へ引き渡させ)、光厳上皇の弟である光明天皇を擁立して、新たなる朝廷(北朝)を京にひらいた。しかし、彼はかつての北条氏のように、一族による冷徹な独裁を敷くことをあえて避けた。
「これよりの世は、私一人の意志では動かさぬ。武士の政、理と利、その双方が綺麗に噛み合わねば必ず内側から瓦解する」
尊氏が己の脳内に描き出した統治の構造、それは「双頭政治」という、前代未聞の協調体制であった。
軍事の指揮権や、全国の武士への恩賞安堵(土地の公認)といった、人間の「欲」と「力」に直結する生々しい権限は、自らと執事の高師直が実権を握る。一方で、裁判や法秩序の維持、公家や寺社との複雑な折衝といった、「理」と「格式」を重んじる緻密な実務は、弟の足利直義にすべて委ねたのである。
歴史を俯瞰すれば、この二頭政治は、かつて鎌倉幕府が持っていた「執権」と「連署」の構造をより大規模に、かつ明確に機能分担させた統治の極致であった。
東国という狭い地理的制約を越え、日本全国の目の肥えた武士たちを統御するためには、尊氏が持つ底知れぬ「情(魅力)」と、直義が体現する厳格な「理(秩序)」を、同時に世に顕現させる必要があったのだ。
だが、この完璧に見えた足利の統治構造の裏には、さらなる時代の不条理が忍び寄っていた。
同年十二月、京に幽閉されていたはずの後醍醐天皇が、夜陰に紛れて女装し、京を脱出。険しい険山に守られた吉野の山岳へと逃れ、天下に向けて凄まじい宣言を放ったのである。
「京の尊氏に渡した神器は偽物である! 真の三種の神器は我が手にある。光明天皇は偽りの帝であり、京の足利政府はすべて万死に値する逆賊である!」
南朝の誕生――。
ここに、日本というひとつの国家に、二人の天皇、二つの朝廷が並立し、血で血を洗う「南北朝の内乱」という終わりの見えない泥沼の幕開けとなった。
二
「兄上! やはりあの時、後醍醐の血筋を根絶やしにしておくべきだったのです! 主上の執念は、生半可な法理では縛れませぬ!」
直義は激しく畳を叩き、顔を紅潮させて南朝への即座の総攻撃を主張した。吉野の地理的条件は険しく、攻めあぐねれば全国の反足利勢力を一気に刺激する危険性があった。
しかし、高師直は唇を醜く歪めて冷笑した。
「直義様、何をいまさら子供のようなことを。天皇と名乗る者が二人がいようが百人いようが、我らのやることは変わりませぬ。土地を欲しがる武士どもに、『吉野を叩けばあの山の土地を恩賞にやる』と言えば、彼らは喜んで狂ったように山を登ります。主上の権威など、武士の腹の足しにもなりませぬわ」
理を侵されたことに激怒する直義と、権威そのものを鼻で笑い、剥き出しの利欲を見る師直。
足利の政権を支える二人の行動原理は、主君という絶対的な重しを失ったここへ来て、決定的に乖離し始めていた。
尊氏は、暗雲垂れ込める吉野の空を仰ぎ、かつてない深い吐息を漏らした。
(主上……どこまで行けば、貴方様は満足されるのですか。私は貴方様を心から敬愛し、そのお足元を支えようとした。なぜ、これほどまでに武士を、割してこの私を呪うのですか。
人間というものは、一度掴んだ最高権力という名の妄執から、死ぬまで逃れられぬ悲しい生き物なのか)
尊氏の脳内で、優先順位の組み換えが行われる。彼は、直義が主張する吉野への全面戦争という無謀な道を選ばなかった。
「吉野の山を力攻めすれば、我が軍の損害は計り知れぬ。何より、主上の御身に万一のことがあれば、私は真の人道に背く逆賊として、永遠に歴史の闇に沈む。今は京の北朝の基盤を固め、武士たちに『足利の世の方が豊かである』と実感させることこそが、最大の南朝対策である」
尊氏は、あえて「吉野を包囲しつつ放置する」という、危険な持久戦を選択した。これは全国の南朝派に時間を与えるリスクがあったが、彼は京の足元を固めるための施策を最優先させたのである。
三
暦応二年(1339年)八月。
吉野の深い霧のなかで、足利尊氏の生涯において最大の精神的支柱であり、同時に最大の不条理の源泉であった後醍醐天皇が、五十二歳で崩御した。
その右手には、最後まで京の都を奪還せんとする凄絶な執念の象徴として、『法華経』の第五巻が、白骨化せんとする指で固く握られていたという。
「主上が、崩御された……」
報せを聞いた瞬間、尊氏は人目をはばからず激しく慟哭した。周囲の家臣たちが「これで南朝の脅威は去った」と安堵の表情を浮かべるなか、尊氏だけは、己の肉体の半分を切り裂かれたかのような、深い深い喪失感に打ちひしがれていた。
「私は……私はただ、主上に認められたかった。主上とともに、誰もが笑える新しき国を作りたかったのだ……」
ここにおいて、尊氏の人間学としての不気味なまでの知性が光る。彼は、崩御した先帝を「敵の首魁」として貶めることを一切しなかった。それどころか、朝廷や直義の猛反対を押し切り、京の都に莫大な国費を投じて、先帝の御霊を弔うための巨刹「天龍寺」の建立を決定したのである。
「武士の皆に告げる。先帝の御霊を慰めるため、全国の荘園から臨時の課税を行う。さらに、元への交易船(天龍寺船)を仕立て、その利潤をすべて建立の資金とする」
この尊氏の決断に対し、直義は「国家財政の無駄であり、理にかなわぬ」と真っ向から反対し、師直は「死んだ人間に金をかけるなど無意味だ。生きている兵に分け与えよ」と呆れ果てた。
しかし、尊氏の思考は二人よりも遥かに大局的であった。
人間というものは、理屈や目先の利益だけで動くのではない。目に見えぬ「怨念」や「不条理への罪悪感」という精神の闇を抱えて生きている。後醍醐天皇という巨星の死を、国家を挙げて厳かに弔うことで、日本中の武士や公家が心の奥底で抱いていた「朝敵となったことへの潜在的な恐怖」を綺麗に和らげ、精神的な調和をもたらす構造を作り上げたのである。
天龍寺の壮麗な庭園が形を成していくのを見つめながら、尊氏は静かに呟いた。
「主上、これで少しは、我が罪も軽くなりましょうか」
客観的に見れば、この天龍寺建立と室町幕府の二頭政治の確立により、足利政権の基盤は盤石になったかに見えた。しかし、皮肉なことに、尊氏が良かれと思って作り上げた「理の直義」と「利の師直」という双頭の構造そのものが、後醍醐天皇という絶対的な重しを失ったことで、内側から激しく軋み、互いを噛み砕こうと動き始める。
歴史の必然は、尊氏に息つく暇も与えず、今度は身内の血みどろの決裂――「観応の擾乱」という、最悪の不条理を突きつけようとしていた。
(第七章へ続く)
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