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小説 足利尊氏 天秤の毒 1305-1358  作者: 山田 誠一


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第五章:戦友、楠木正成

延元元年(1336年)五月。

初夏の陽光を浴びて、瀬戸内海の水面がギラギラと黄金色に輝いていた。その海原を埋め尽くすのは、足利方の数千隻に及ぶ巨大な船団である。


九州での劇的な再起を果たし、西国の武士を糾合した足利尊氏は、陸路を進む弟・足利直義の大軍と完璧に呼応し、破竹の勢いで東上していた。海を覆う白旗、大地を揺らす騎馬の群れ。その数、合わせて十万とも言われる未曾有の軍勢であった。


この天を突くような足利の大軍を、兵庫の湊川の地で迎え撃つべく、わずか数千の兵で陣を敷いた男がいた。

宮方の最高智帥にして、かつて尊氏と共に北条を打倒した稀代の英雄――楠木正成である。


正成は、後醍醐天皇が推し進める建武の新政の歪みと破綻を、誰よりも冷静に、そして痛烈に見抜いていた。京を発つ前、正成は天皇に対し、命を懸けてこう奏上していた。

「今、足利を力でねじ伏せることは不可能にございます。主上、どうか一度尊氏と和睦し、その圧倒的な武力を朝廷の内に取り込むべきです」


しかし、名誉と過去の栄光に固執する公家たちは、この至言を「逆賊を恐れる弱卒の戯言」と一蹴した。後醍醐天皇は正成の言葉を退け、新田義貞の指揮下に入り、湊川で足利を迎え撃てという、事実上の「玉砕命令」を壊れた玩具のように下したのである。


決戦を前に、尊氏は巨大な安宅船の艦上で、高師直、そして陸路を行く直義からの伝令を交え、大局的な作戦構造を練っていた。

「正成の兵力は我が方の数十分の一、わずか数千に過ぎぬ。されど、決して侮るな。あの男の知略は百万人にも匹敵する。必ず、こちらの隙を突いて喉元をむしり取りにくるぞ」


尊氏の言葉に、師直は薄気味悪い不敵な笑みを浮かべた。

「どれほどの智将であれ、この圧倒的な兵力の差は覆せませぬ。陸と海から完全に包囲し、蟻の這い出る隙間もなく圧殺するまでです」

直義の伝令もまた、正成の退路をあらかじめ断ち、一網打尽にすることを強く主張した。


しかし、尊氏の脳内における思考の流れは、単なる兵力差の計算には留まらなかった。尊氏は、正成という人間の「志」と、彼が置かれた主君の勅命という「絶対的な制約」の構造を、あまりにも深く見抜いていた。


(正成は、この戦に勝ち目がないことを百も承知でここへ来ている。あの男の志は、己の生き残りではない。後醍醐天皇という存在への、絶対的な忠義の証明にこそある。死を覚悟し、自らの命を最高級の薪として燃やし尽くそうとする智将ほど、この世で恐ろしいものは存在しない。まともにぶつかれば、我が軍もただでは済まぬ)


そこで尊氏が下した決断は、「正成の知略を無力化するための、地理的制約を利用した圧倒的な分断」であった。


尊氏は、あえて軍を大胆に二分し、正成の裏をかくという危険な策を選択した。

まず、自ら率いる巨大な水軍を、正成が待ち構える兵庫の岬のさらに東へと大きく迂回させ、生田の森付近から一気に上陸させる構造を作った。同時に、陸路を行く直義の軍勢を正面から激突させる。

これは、もし水軍の上陸が少しでも遅れれば、正面の直義軍が正成の乾坤一擲の奇襲によって各個撃破される危険性を孕んでいた。しかし尊氏は、一族の運命を懸け、水陸の完璧な連動という過酷な賭けに打って出た。


五月二十五日。

生田の森への上陸を知らせる足利方の狼煙が天に昇った瞬間、湊川の地で地獄の火蓋が切られた。


足利水軍が自らの背後に回り込んで上陸を開始したのを見た楠木正成は、この瞬間、自らが完全に包囲され、退路を断たれたことを悟った。新田義貞の軍勢は足利の猛攻を恐れて早々に後退し、正成の軍勢は文字通り孤立無援となった。


しかし、そこからの楠木軍の奮戦は、人間の限界を遥かに超え、凄惨極まるものとなった。


「皆の者、我らの命の使い時は今ぞ! 寄せ集めの足利軍に、命を懸けた物のふの真の戦ぶりを見せてやれ!」


正成の獅子吼が湊川に響き渡る。正成とその一族、そして決死の精鋭たちは、正面から押し寄せる直義の数万の大軍に向けて、まるで巨大な刃と化して縦横無尽に突撃を繰り返した。

突撃、また突撃。正成の繰り出す変幻自在の戦術の前に、数の上で圧倒していたはずの足利方は大混乱に陥り、幾度も幾度も押し戻された。

肉が裂け、骨が砕ける音が戦場に満ちる。凄まじい怒号のなか、楠木軍の繰り出す刃は直義の本陣に肉薄し、足利の将兵の首を容赦なく撥ね飛ばしていった。人間の「情」と「覚悟」が、圧倒的な兵力差という「理」を、一時的に完全に凌駕したのである。


「尊氏に一矢報いよ! 命を惜しむな、武士の意地を見せるのだ!」


体中に何本の矢を突き立てられようとも、返り血で鎧を真っ赤に染めながら太刀を振るい、鬼神のごとく戦い続ける正成。その美しくも恐ろしい姿に、十倍以上の数を誇る足利の兵たちすらも深い畏怖の念を抱き、恐怖のあまり前進を躊躇った。


しかし、歴史の必然たる「数の暴力」と、尊氏が仕掛けた「水陸挟撃の構造」は、容赦なく、徐々に楠木軍の肉体的な体力を奪っていった。

戦いが始まって数時間。数え切れないほどの波状攻撃を受け、ついに兵のほとんどを失い、自らも十数箇所の傷を負って血の海に塗れた正成は、わずかな身内とともに、湊川のほとりにある一軒の民家に退いた。


遠くの本陣から、その様子を静かに見つめていた尊氏は、胸を引き裂かれるような思いで、深く息を吐いた。

「正成……。見事な、あまりにも見事な戦ぶりであった……」


静まり返った民家の中で、正成は弟の楠木正季くすのき まさすえと、血塗れの畳の上で対峙していた。もはやこれまでであった。

正成は、弱りゆく意識の中で、弟に静かに問いかけた。

「正季、これほどの苦境の果てに死ぬのだ。お前の最期の願いは何だ」


正季は血を吐きながら、凄絶な笑みを浮かべて答えた。

「七度人間に生まれ変わって、朝廷の敵を滅ぼします(七生報国)。兄上も一緒にどうですか」


正成の瞳に、この日一番の、激しく光が宿った。

「何と贅沢な願いよ。我が魂もまた、七度生まれ変わり、武士として存分に戦おう。弟よ……次の戦が楽しみだな」


二人は微笑み合い、互いに太刀を突き立て、刺し違えて壮絶な最期を遂げた。

名将・楠木正成、享年三十三。その死は、一つの時代が完全に終わりを告げた瞬間であった。


戦後、正成の生々しい首級が、尊氏の陣営へと届けられた。

実利を重んじる師直らは、戦果を天下に知らしめるため、「逆賊の首として、京の六条河原に晒し首にすべきだ」と冷酷に主張した。しかし、尊氏はそれを、これまでにない烈火のごとき怒りをもって一喝した。


「黙れ、師直! 正成は敵ながら、敵味方の怨恨を超越した真の武士、至高の忠臣である! あの男をただの罪人と同じように扱うことなど、この尊氏が絶対に許さぬ。弟の首と一緒に丁重に清め、河内国の遺族のもとへ送り届けよ」


尊氏は自ら正成の首の血を拭い、香を焚いて、故郷で待つ妻子の元へと送り届けさせた。

この行動の背景には、単なる敵への憐れみや傷感ではない、尊氏独自の深い人間学があった。

人間は、勝った負けたの目先の利害だけで生きているのではない。正成が示した「己の信念に殉じ、主君との約束を死んでも守り抜く」という気高い生き方こそが、これから始まる混沌とした濁流の乱世において、武士たちが人としての尊厳を失わないための「羅針盤」であることを、尊氏は誰よりも理解していたのである。


大局的に見れば、この湊川の戦いは、後醍醐天皇の建武政権の軍事的な完全崩壊を意味していた。新田義貞は命からがら京へと敗走し、天皇は再び孤立無援の窮地に立たされた。地理的・時代的な背景が、公家優位の古い世から、名実ともに武士が頂点に立つ新しい世へと移行することを、完全に決定づけた瞬間であった。


正成の死を見届けた尊氏は、再び、勝者として京の都へと入る。

しかし、最大の宿敵であり、魂の戦友であった男を打ち破った彼の心に、勝利の歓喜など微塵もなかった。あるのは、一人の偉大な、愛すべき人間を、自らの選択によって葬らざるを得なかったという、底知れぬ業の重みだけであった。


都の空は、まるで正成の流した無念の血を吸い上げたかのように、不気味なほど赤く、真っ赤に染まっていた。


「次は……、主上との最後の対峙か。私はどこまで、血の泥を進めばよいのだ」


尊氏は、己が築くべき武士の新しき世の輪郭を思い描きながら、静かに、しかし冷徹に、後醍醐天皇との最終決戦という次なる決断の準備を始めた。


(第六章へ続く)

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