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小説 足利尊氏 天秤の毒 1305-1358  作者: 山田 誠一


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第四章:北から来た将軍


箱根の険を越えた足利の軍勢は、もはや誰にも止められぬ破竹の勢いで東海道を西上した。

延元元年(1336年)一月、尊氏は怒濤の進撃をもってついに京の都を占拠し、後醍醐天皇を比叡山へと追い詰める。武士の世の完全なる到来を誰もが確信したその瞬間、歴史は神の悪戯のごとき劇的な逆流を用意していた。


「奥州より……、奥州より北畠顕家きたばたけあきいえの大軍が迫っております! その数、数万!」


物見の悲鳴のような報せが、新春の京の街に鋭く響き渡り、足利方の将兵を震撼させた。

北畠顕家――弱冠十九歳の公家でありながら、奥州の屈強にして獰猛な武士たちを力で束ね上げる、不世出の天才将軍である。顕家は尊氏謀叛の急報を受けるや否や、陸奥国から京までの気が遠くなるような巨距離を、わずか半月あまりで駆け抜けるという、常識を完全に置き去りにした超人的な大強行軍を成し遂げたのである。


歴史を俯瞰すれば、この顕家の電撃的な動きは単なる奇襲ではない。東国のなかでも鎌倉を中心とする足利の巨大な地盤に対し、朝廷が奥州という広大な土地を対抗馬として長年育成していたという、大局的な地政学的配置の結実であった。地理的な遠隔の地から放たれた氷の矢が、いまや尊氏の喉元を正確に貫こうとしていた。


「兄上、新田の残党と、北から来た顕家の本隊が合流いたしました。三方からこの京を完全に包囲されつつあります。ここは一度都を出て、西国へ軍を退いて立て直すべきです」


政治と戦況の「理」を重んじる直義は、冷徹に戦力差を計算し、苦渋の撤退を具申した。

しかし、高師直は不敵に笑い、刀の柄を鳴らした。

「直義様、何を弱気なことを。せっかく血を流して手に入れた花の都を、公家の小倅ごときに無血で明け渡してなるものですか! 恩賞としての土地を餌にすれば、京の野武士や浮浪の徒などいくらでも集まります。力ずくで押し潰してくれましょう」


迫り来る奥州軍の地鳴りを聞きながら、尊氏の脳内で再び思考の天秤が激しく揺れ動く。


(顕家の軍勢は、長旅で肉体の限界を迎えているはず。されど、彼らが掲げる『主上(後醍醐天皇)を救う』という大義の勢いは、いまや天を突き、死をも恐れぬ狂熱と化している。人間は、極限の飢えと疲労のなかにあっても、強固な信仰に似た志を持てば、通常の兵力を遥かに超える神がかり的な力を発揮するものだ。

翻って今の我が軍は、箱根での勝利に驕り、都の栄華に目を奪われて骨抜きになっている。この精神の弛緩のまま戦えば、必ず大敗する)


尊氏は、師直の迎撃策を退け、直義の撤退論を採用した。優先すべきは一時的な面子や都への執着ではなく、「足利の軍そのものの崩壊を防ぐこと」であった。しかし、若き天才・顕家の進撃の速度と猛悪さは、尊氏の予測を遥かに超えていた。


京の淀川一帯で行われた激戦は、凄惨極まる地獄絵図となった。

「逆賊・足利を一人も生かすな! 怨敵を屠れ!」

顕家が率いる奥州の容赦なき騎馬軍団が、地を割り、泥を撥ね上げて足利の陣へ突撃する。その一騎当千の武勇に加え、比叡山の衆徒(僧兵)たちの怨念に満ちた数万の軍勢が、おびただしい数の長刀を振り回して死に物狂いで襲いかかってきた。


鎧を切り裂かれ、内臓をぶちまけて崩れ去る足利の兵たち。淀川の川面は瞬く間に赤黒い血に染まり、累々たる死体が川の流れをせき止めた。宮方の圧倒的な猛攻の前に、足利軍は完膚なきまでに叩きのめされ、かつて数万を誇った無敵の軍勢は、見る影もなく四散し、潰走していった。


尊氏は、這う這うの体で摂津国・兵庫の港まで追い詰められた。

背後に広がるのは、鉛色にどんよりと曇った、冷たい冬の瀬戸内海だけである。


「もはや……、これまでか……」


都を追われ、再び朝敵の汚名を着せられ、己を信じた無数の武士たちを戦場に晒して死なせた。尊氏は冷たい砂浜にがっくりと膝を突き、再び底知れぬ深い絶望の淵に沈んでいた。

生きる気力を完全に失った尊氏は、震える手で刀を抜き、ギラリと光る白刃を己の腹に突き立てようとした。


「兄上――っ!! 何をされるのですか!」


その腕を、直義が狂ったように飛び込んできて必死に掴み取った。直義は兄の体を激しく揺さぶり、涙を流して絶叫した。

「死んではなりませぬ! 兄上が死ねば、誰が足利の、いや、天下の武士の無念を晴らすのですか! 命さえあれば、西国で再起の機会は必ずございます。泥をすすってでも生きるのです!」


傍らに立つ師直もまた、表情一つ変えぬ冷徹極まる声音で、尊氏の死生観を容赦なく揺さぶった。

「尊氏様。ここで腹を切れば、貴方様はただの歴史の負け犬、天に逆らった哀れな逆賊として、末代まで名が残るだけでございます。後悔なき生き方、棟梁としての真の意地とは、勝つまで、泥水をすすり続けてでも生き長らえる執念のなかにしかございませぬ」


直義の引き裂かれそうな情、師直のどこまでも貪欲な業。

二人の言葉が、尊氏の凍りついた心をかろうじて溶かし、その瞳に微かな光を戻した。


(私は、また死に急ごうとした。己の不甲斐なさ、不条理な現実から逃げるために、死という安易な幕引きを選ぼうとしたのだ。

あえて、生き恥を晒す危険を取る。九州へ落ち延びるのだ。西国の武士たちを募り、もう一度、この国の構造を根底から作り直す)


同年二月、尊氏はわずか数千の傷だらけの敗残兵とともに、数隻の船に揺られて九州へと落ち延びていった。

この東国武士である足利が、土地鑑も血縁もない未知の土地・九州へ向かうという選択は、極めて危険な大博打であった。当時の九州は、一族の内紛や朝廷派の筆頭である菊池きくち氏などが複雑に割拠する、京以上に一筋縄ではいかぬ混沌の土地だったからである。


しかし、船が豊後国の港にたどり着いた時、尊氏はその卓越した人間学とカリスマを遺憾なく発揮した。彼は敗軍の将としての卑屈さを微塵も見せず、むしろ泰然自若とした穏やかな態度で、懐疑の目を向ける九州の国人領主たちを屋敷に迎えた。


「私は、天下を我がものにするために来たのではない。主上の周りにいる公家どもの奸臣を除き、命を懸ける武士が正当に報われる真の世を作るために、この命を西海の果てまで運んできた。諸陣の熱き志を、どうかこの足利尊氏に貸してはくれぬか」


尊氏の持つ、妙に人懐っこく、それでいて底知れない宇宙のような包容力。この「人間の醜い業も、美しい情もすべて受け入れる」という彼の天性が、殺伐とした九州の武士たちの心を一瞬で鷲掴みにした。

人間は、ただの理屈や金銭だけでなく、「この男が紡ぐ壮大な物語の一部になりたい」という猛烈な情動で動くことを、尊氏は本能的に知っていたのである。


さらに尊氏は、大局的な対立構造を引っくり返すための決定的な一手を打つ。

留守にしていた京の光厳こうごん上皇の「院宣(いんぜん:上皇の命令書)」を、密かに手に入れていたのである。


これにより、尊氏は「後醍醐天皇にとっては朝敵」でありながら、「光厳上皇にとっては正義の官軍」という、新たなる絶対的な大義名分を手に入れた。朝廷対武士という単純な対立の構図を、朝廷内部の分裂を利用した「二つの朝廷(南北朝)の戦い」へと、鮮やかに構造転換させたのである。


この巧妙かつ大胆な布石が功を奏し、九州の武士たちは「これぞ官軍なり」と、続々と足利の赤地二つ引の旗のもとに集結した。

そして同年三月。筑前国・多々良浜の広大な砂浜において、尊氏は九州最大の朝廷勢力である菊池武敏きくちたけとしの数万の大軍と、ついに正面から激突した。


足利軍は、わずか数千。対する菊池軍は、数万。数の上では圧倒的な絶望であった。

しかし、背水の陣を敷いた尊氏の眼には、もはや一抹の惑いもなかった。


「我が命、天に預ける。武士の世を掴むため――進めえっ!」


多々良浜の激しい潮風と砂塵のなかで、足利軍の驚異的な反撃が始まった。

「足利を一人たりとも生かして返すな!」と、数に勝る菊池軍が、怒濤の騎馬の波となって押し寄せる。砂浜を血で濡らしながら、数千の足利勢は一歩も引かずに応戦した。師直の鋭い指揮が菊池軍の陣形を切り裂き、直義の奮戦が敵の先鋒を食い止める。


そして、戦況が膠着したその時、奇跡が起きた。多々良浜に猛烈な逆風が吹き荒れ、菊池軍の目に砂が突き刺さったのである。


「天は我らに味方したぞ! 叩け! 叩き潰せ!」


尊氏の雄叫びと共に、足利軍は鬼神の如き勢いで敵の本陣へと突入した。大軍ゆえに統率を欠いた菊池軍は、背後からの突撃に狼狽し、互いを踏みつけ合いながら文字通り瓦解していった。砂浜には無数の菊池兵の屍が転がり、多々良浜は足利の圧倒的な勝利の雄叫びで満たされた。


客観的に見れば、この九州での地獄からの再起と多々良浜の勝利こそが、足利尊氏という男の真骨頂であった。彼は絶望という最大の制約を、新たなる構造を創造するための巨大な跳躍台へと変えてみせたのである。


戦いは終わり、九州全土は一瞬にして尊氏の手中に収まった。


再び、西国から東へと向かう、誰も抗えぬ巨大な大河の流れが生まれようとしていた。しかし、その行く手には、宮方最強の盾であり、かつて共に北条を倒したあの男が、京の都の門番として立ち塞がっていることを、尊氏は誰よりも深く理解していた。


楠木正成くすのきまさしげ……。ついに、お前と本気で戦う時が来たか」


夕日に染まる瀬戸内の穏やかな海を見つめる尊氏の横顔には、かつての戦友であり、超えるべき最大の壁である天才への、深い敬意と、逃れられぬ哀しみが混ざり合っていた。


(第五章へ続く)

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