第三章:悪童たちの祭
一
京を出陣した足利尊氏の軍勢は、猛り狂う濁流のごとく東海道を駆け下った。
「一刻も早く鎌倉へ! 弟を、直義を救い出すのだ!」
尊氏の怒号に応え、数万の騎馬武者が大地を鳴らす。行く手を阻まんとする北条時行の迎撃部隊を、足利の先鋒は次々と蹴散らしていった。駿河、遠江、三河――街道のあちこちで激しい白兵戦が巻き起こるが、直義の危機に狂乱する尊氏の軍勢の凄まじい突進力の前には、北条の陣など紙切れ同然であった。
刃を交え、火花を散らし、血煙を上げながら東国へなだれ込んだ足利軍は、建武二年(1335年)八月、北条の残党を鎌倉から完全に駆逐した。敗走し、満身創痍となりながらも命を繋いでいた直義は、奇跡的な兄との合流に、言葉を失って立ち尽くした。
「直義! 無事であったか!」
馬から飛び降り、泥まみれのまま駆け寄る尊氏。その姿を見た直義の目から、堰を切ったように涙があふれ出た。直義は兄の前にがっくりと膝を突き、震える声で頭を垂れた。
「兄上……!」
理を重んじる堅物の直義が、感極まってそれ以上何も言えなくなる姿を、尊氏は強く抱きしめた。
「直義。よく生きててくれた。お前が生きていれば、それでよい」
関東の混乱は一応の鎮静を見た。しかし、この劇的な勝利は同時に、後醍醐天皇の「勅許を待たずに進軍した」という厳然たる反逆の事実を、天下にさらすこととなった。鎌倉の地にとどまる尊氏のもとへ、京の朝廷から、執拗に上洛を促す使者が連日のように訪れる。
屋敷の奥で、直義は血相を変えて訴えた。もはや公家政治の不条理を許す気は毛頭なかった。
「京へ戻ってはなりませぬ!兄上が都に入った瞬間に捕縛し、処刑する腹づもりにございます。すでにここ鎌倉には、天皇の政治に見限られた東国の武士たちが数万、兄上の差配を待っております。今こそ、ここに新たなる武家の都を築くべきです!」
一方、高師直はさらに踏み込んだ実利を提示した。不敵な笑みを浮かべ、冷徹に言い放つ。
「尊氏様、形だけでも結構、北条がかつて有していた恩賞の差配権を、今ここで尊氏様が代行なされませぬか。戦功のあった者たちに、公家の許可なく土地を安堵するのです。さすれば、武士どもは二度と京など見向きもいたしませぬ。彼らが求めているのは後醍醐天皇の御威光ではなく、生きていくための土地でございます」
直義が武士の「理」を説き、師直が武士の「欲」を満たそうとする。
二人の進言は、鎌倉に新たなる武家政権を樹立せよという点で、完全に一致していた。
尊氏の脳内は、かつてない激しい葛藤の天秤に支配されていた。
(私は、後醍醐天皇という傑出した君主を心から敬愛している。あの御方がいなければ、北条の暗黒は破れなかった。その恩義を仇で返すことは、人道に背く。
されど、もし私が京へ戻り、命を落とせば、集まった武士たちは再び行き場を失い、天下は未曾有の私闘の泥沼に沈む。私の命は、もはや私一人のものではない。何万という武士の、そしてその家族の命の天秤が、私の双肩にかかっているのだ)
尊氏は、あえて背徳の汚名を被る危険を選択した。彼は鎌倉に留まり、独自に武士たちへの恩賞の授与を開始したのである。それは、天皇の主権に対する明確な、そして決定的な挑戦であった。
二
この尊氏の行動に対し、京の後醍醐天皇は激怒した。天皇の独裁を揺るぎなきものにするため、足利の存在は最大の障害となったのである。
同年十一月、天皇は尊氏を「朝敵」と断じ、新田義貞を大将軍とする数万の討伐軍を東海道に向けて発向させた。
朝敵。
その二文字が持つ呪縛は、源氏の棟梁として育った尊氏の精神を、根底から木っ端微塵に打ち砕いた。
かつて北条を討った時は、正義の官軍であった自分が、今や崇拝すべき天皇に弓引く、歴史に名を残す大逆賊となったのである。このことは、いかなる肉体的危機よりも、尊氏という男の心を深く、残酷に苦しめた。
「私は戦わぬ。後醍醐天皇と刃を交えるくらいなら、髪を剃り、仏門に入って罪を乞う」
尊氏は突如、浄光明寺の庵に引きこもり、一切の軍務を放棄してしまった。
絶望のあまり食を断ち、ただひたすらに薄暗い堂内で経を読み続ける兄の姿に、直義は激しい危機感を抱いた。新田義貞の官軍はすでに駿河国まで迫っており、直義率いる足利方の前線は次々と破られていた。このままでは、戦わずして一族もろとも皆殺し、逆賊として歴史の塵になることは明白であった。
ここで動いたのが、執事の高師直であった。師直は、人間の生きる執着を動かすため、ある偽りの大博打を打つ。
「尊氏様を動かすには理屈では足りぬ。仕方ない。偽りの悲報を、戦場から届けさせるか」
十二月。
駿河国・手越河原の戦いで足利軍が大敗し、兄の身代わりとなった直義が自害寸前であるという悲痛な一報が、鎌倉の尊氏のもとに届けられた。
その瞬間、尊氏の脳内で、何かが決定的に弾けた。
(直義が死ぬ……? 私の迷いのせいで、私を救ってくれた、たった一人の弟を殺すのか。弟だけではない。私を信じた者たちが、私の独善のせいで皆、死んでいく。私が間違っていたのか。いやそんなことはどうでもよい。直義は戦が弱すぎないか。いやそんなこともどうでもよい。ここで何を選べば後悔なき生き方ができるのだ。美しいまま死ぬか、泥にまみれ、歴史に悪名を残すのか。この前も直義助けた気がする。だからそんなことはどうでもよいのだ。余計な事を考えるな!
今、一番大事なことは直義だ!弟の命を救うのだ!直義が私を待ってる、ずっと私を信じて待っている。直義!兄が今行くぞ!)
尊氏は、ついに経巻を投げ捨てた。
立ち上がったその目は、血走った鬼のそれへと変わっていた。
「直義を救いに行く!何をぐずぐずしている!その馬を寄越せ!」
三
鎌倉から手越河原へ、そして箱根の山中へ。死に物狂いで馬を飛ばしてきた尊氏は、竹下の陣へ滑り込むなり、狂ったように弟の姿を探した。
「直義! 直義はどこだ! どこで自害しようとした!」
息を切らし、返り血と泥にまみれた尊氏の前に、前線を維持していた直義が呆然として歩み寄ってきた。傷こそ負っているものの、死にそうなどころか、しっかりと自分の足で立っている。
「……兄上? 自害とは一体何のことですか。私は敗れはしましたが、しぶとく防衛線を下げて兄上の援軍を待っていたのです。ですが、よくぞ、よくぞ庵を出て駆けつけてくださいました!」
直義の鋭い目が、みるみるうちに涙で潤んでいく。
尊氏はその姿を見るなり、全身の力が抜けたようにその場へへたり込み、それから直義の肩をがっしりと掴んで破顔した。
「な、なんだ……生きておるな!? 無事なのだな! よかった、本当によかった……!」
しかし、涙を拭った直義は、すぐにその理知的な頭脳を働かせ、眉をひそめた。兄のあまりの慌てぶりと、その背後に控える高師直が不似合いな顔を腕に埋め、泣いているようなしぐさをしながら視線を外している。あの男が泣くはずがない。何かがおかしい。その肩の振るえをよく見ていると不思議とどこか笑いを堪えているようにも見えた。
点と点が繋がった瞬間、直義は激怒した。
「師直、貴様だな! 兄上を動かすために、戦況をねじ曲げて偽報を流したのか!」
直義の声音には、卑劣な手段に対する激しい不信感が満ちていた。だが、尊氏はそんな弟の怒りを包み込むように、ただ大声をあげて笑った。
「いいではないか、直義! 嘘だろうが本物だろうが、そんなことはどうでもよいのだ。あの報せがなければ、私は今も寺で経を読んでいた。手遅れになって、本当にお前を失う前にここに狂い込んでこられた。それだけで、私はあの知らせに心から感謝しているのだ」
「しかし、兄上! 兵を動かす根幹にそのような嘘を交えては、軍の理が崩れます!」
食い下がる直義の頭に、尊氏は大きな手を置いた。少年の頃、足利の館でいつもそうしていたように。
「よく頑張ったな、直義。お前がここまで持ちこたえてくれたから、この勝利がある」
尊氏の瞳から、先ほどまでの怯えが消え、底抜けた優しさと、圧倒的な絶対強者の自信が溢れ出していた。
「ここからはもう、すべて兄に任せておけ。安心してよい。お前は頭が良いが、戦は少し下手だからな。……どういうわけか、兄はな、戦が滅法強いのだ」
直義が言葉を失う間もなく、尊氏は白馬に飛び乗り、新田義貞率いる官軍の大軍が待つ正面戦線へと、風のように突撃していった。
折しも、季節は冬。箱根の山々は激しい大雪に見舞われ、視界は最悪、足元はぬかるむ泥と氷の地獄と化していた。ここを突破されれば鎌倉は完全に孤立し、逆にここを防衛線とすれば大軍を迎え撃つことができる、東国最大の要害である。
「押し包め! 逆賊・足利の首を上げよ!」
数で勝る新田軍の放つ矢の嵐が、容赦なく足利の兵たちを射抜く。急斜面での戦いは凄惨を極め、足利軍は官軍という圧倒的な威圧感の前に、じりじりと圧され、絶望が広がりかけていた。
そこへ、吹雪を割って白馬を駆る尊氏が、無造作に最前線へ躍り出た。
あまりに無防備な総大将の登場に、敵味方の動きが一瞬止まる。尊氏は新田の本陣を見据え、朗々と声を張り上げた。
「おーい新田義貞! いるかーっ!」
ひゅん、と耳元をかすめる敵矢を首一つでかわし、尊氏は不敵に笑って叫んだ。
高所に本陣を構えた新田義貞が馬に乗って幕を跳ね上げ前に出た。顔には明らかに上機嫌な表情が浮かんでいる。
「遅いぞ足利尊氏! あまりに来ぬゆえ、お前の戦はもう終わってしまったかと思ったわ!」
尊氏の大声を目印に放たれた一斉の矢を、尊氏はいとも容易く馬で避け太刀で叩き落とした。
「ははは! 官軍続きで羨ましい限りだな! こちらは何も変わってないというのに、朝に官軍、夕に逆賊と、旗がくるくる変わって忙しくて敵わん!」
「ふん、軽口を! どうだ一騎打ちでもするか、尊氏!」
「戦がすぐ終わってしまうだろ!お互い大軍を率いる身、我らの旗に集いし兵たちの戦はまだまだこれからなのだ。まあでも、せっかくの戦だ。名乗りくらいは交わそうか!」
「応! 望むところよ!」
義貞は愛馬の腹を蹴り、叫んだ。
「我こそは、新田左兵衛佐義貞! 見ての通り、帝より賜りし錦の御旗を掲げる官軍である! 天下を乱す大逆賊・足利尊氏大将軍、神妙に致せ!」
その名乗りを真っ向から受け止め、尊氏は馬上でのけぞって笑った。
足利尊氏はどこか陽気に大声で名乗りを始めた。
「やーやー遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見よ。
我こそは清和源氏の正統、足利修理大夫貞氏が子、足利左兵衛督尊氏」
そして次の瞬間、その全身から、凄まじい覇気が立ち昇った。声音が変わり、戦場全体を震わせるような重厚な、かつ熱狂的な響きが響き渡る。尊氏は太刀を天高く突き上げ、自軍の兵たちを、そして敵軍をも見渡して絶叫した。
「時は建武二年、場所は箱根は竹ノ下!
我が兵どもよ、とくと聞け!
この世に数多の戦はあれど
この尊氏と同じ時代に生まれ
戦ができるそなたらは僥倖なり!
見よ、相手は新田義貞大将軍!
共に大北条を滅ぼした、稀代の悪党同士の戦なり!
この世に幾多の戦はあれど、これほど豪華な戦がどこにある!
足を踏み出せ!槍を突き出せ!
戦の神に侍を見せよ!
勝った者が次の王だ!
地獄の極卒どもが嫉妬で腰を抜かすほどの天下分け目の大戦を――
はーじーめーるーぞォ!!!」
地の底から響くような地鳴りのような咆哮。
その劇的な、あまりに美しく狂おしい背中を、直義は本陣から凝視していた。
胸の奥から、言葉にならない熱い塊が突き上げてくる。
(ああ、これだ……。これだから、兄上との戦はたまらないのだ)
直義は、己のなかに湧き上がる奇妙な高揚感に戦慄していた。自分は法を重んじ、理を愛する堅物のはずだった。しかし今、この瞬間、どんな正義や大義名分よりも、自分はただ「兄の戦姿を見たい、その活躍を見たい。兄の戦の一部になりたい」という狂おしいほどの欲を、何よりも優先してしまっているのではないか。
(しかし……これは私に限った話ではないだろう。見ろ、兵たちの目が、まるで違う)
直義の目にはっきりと見えた。一時は朝敵の汚名に怯え、死を覚悟していた足利の武士たちが、尊氏の言葉を聞いた瞬間、身体の芯から震え上がるような熱狂に包まれていくのを。
何という見事な戦だろう。
心なしか、敵である新田義貞の軍までが、尊氏というあまりに巨大な武の磁場に引っ張られ、まるで祝福されたかのように活気づいているようにすら見える。
混乱し、崩れかけていた我が軍の端から端まで、兵の指先の一動から、大地を踏み鳴らす足の音ひとつに至るまで、すべてに兄の明確な意思が、命が通っていくのが直義には分かった。
尊氏は、人間の「情」を極限状態で束ね、ひとつの巨大な生き物に変えてしまう怪物だった。
そこへ、箱根の山を迂回していた師直の別働隊が、新田軍の横腹へと怒濤の勢いで突入した。不意を突かれ、挟撃された官軍は一気に大混乱に陥る。大雪の白と、泥の黒、そして血の赤が混ざり合う戦場で、新田軍は総崩れとなりながらも、どこか満足そうに西へと敗走を始めた。
足利の、劇的な大勝利であった。
戦乱の跡、累々たる死体のなかで、尊氏は泥と血に汚れた甲冑のまま、天を仰いで立ち尽くしていた。周囲には勝利の歓声が響き渡っている。しかし、彼は、少し別の事を考えていた。
(これで私は名実ともに、この国の頂点に立つ神、後醍醐天皇に弓を引いたのだ。もう二度と、あの穏やかな日々へ引き返すことはできぬ。朝敵だ。本物の朝敵になってしまった。だがしかし。だがしかしだ)
「勝ち戦はどうしても高揚してしまうな」
尊氏は直義に向けてそう笑いかけた。
(第四章へ続く)
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