第二章:足利と北条
一
元弘三年(1333年)五月。
地鳴りのような法螺貝の音が、初夏の丹波国・篠村八幡宮に鳴り響いた。
「足利高氏、清和源氏の正統として、天下の不条理を正すために立つ! 目指すは京、六波羅探題である!」
高氏が掲げた白旗が五月晴れの風に翻った瞬間、それまで北条の眼を恐れて身を潜めていた各地の武士たちが、堰を切ったように集結した。その数、瞬く間に数万。
京へと押し寄せた足利の軍勢は、幕府の西国拠点である六波羅探題の防衛線を次々とねじ伏せた。怒号と怒濤、飛び交う矢の雨、そして烈火に包まれる京の街。高氏自らも太刀を血に染め、北条の軍勢を圧倒的な武力で蹂躙した。
さらに同月、東国では新田義貞の軍勢が、稲村ヶ崎の潮が引いた一瞬を突いて鎌倉へと一気になだれ込んだ。炎上する幕府、一族もろとも自刃していく北条の重臣たち。百五十年続いた難攻不落の武家政権は、足利の謀叛という特大の引き金をきっかけに、音を立てて呆気なく瓦解したのである。
高氏の放った命懸けの賭けは、見事に勝利を収めた。
弟・直義の迅速な手回しによって、鎌倉の炎から救出された妻の赤橋登子と、幼き千寿王も無事に京の都へと生還を果たす。
「あなた……! よくぞ、よくぞご無事で……」
涙を流してすがる登子を、高氏は強く抱きしめた。彼女の身内である北条を自らの手で滅ぼしたのだ。その複雑な胸中を察し、高氏はいたわるように声を絞り出した。
「すまぬ、登子。そなたの家を、私が壊した。……私を恨んでおるか」
登子は首を激しく横に振り、夫の胸元を見つめて凛と言い放った。
「恨むなど、滅相もございませぬ。私は足利の妻、この子の母にございます。あなたが『鬼になる』と決めたあの日から、私の覚悟は決まっておりました。これからは、あなたが創る新しい世を、どこまでも見届ける所存です」
我が子の小さな手を握り、妻の覚悟に救われ、一族滅亡の危機を乗り越えた高氏。武士の救済という大義へ一歩近づいたかに見えた彼を、京の都で迎えたのは――まばゆいばかりの栄光の光と、それ以上に深い、絶対的な暗闇であった。
後醍醐天皇による「建武の新政」の始まりである。
「高氏、そなたの功、まことに天晴れである。余の諱である尊治の一字を授け、これより『尊氏』と名乗るが良い。鎮守府将軍に任じ、武家の棟梁として余を支えよ」
紫宸殿の奥、荘厳な玉座に座す後醍醐天皇の眼光は、畏怖を覚えるほどに鋭かった。
この君主は、北条という怪物を隠忍自重の末に打倒した不屈の英雄であったが、同時に「すべての権力は天皇家の一君に帰すべきである」という、過激なまでの理想主義者、いや、時代の先を行き過ぎた確信犯であった。
尊氏は、己の名に刻まれた「尊」の文字の重みを感じつつ、平伏しながら天皇の底知れぬ器量を推し量っていた。
(この御方は、人間ではなく神になろうとされている。されど、この地上を泥にまみれて生きる人間は、神の清き理だけでは生きていけぬのだ)
尊氏のその危惧は、京の街に血の匂いが消えぬうちに、早くも現実のものとなる。
後醍醐天皇が目指した政治は、驚くほど公家をあからさまに優遇し、命を懸けて戦った武士たちを徹底的に軽視するものだった。
「これまで武士たちが勝手に領有していた土地は、すべて一度白紙に戻す。これよりは、天皇の『綸旨』によってのみ、その所有を安堵(公認)する」
天皇が放ったこの一言は、天下の武士たちを絶望のどん底に突き落とした。武士にとって土地とは、先祖代々命懸けで守り、耕してきた命そのものである。それを、戦いもしなかった公家たちが筆一本で左右するというのだ。
連日、京の恩賞方には、自らの領地を認めてもらおうと、全国から這う這うの体で上洛した武士たちが群がった。しかし、門前は門前払いの公家たちで溢れ、事務は完全に滞る。昨日まで戦功を誇っていた東国の猛者たちが、今日には宿代にも困り、都の路頭に迷う有様であった。
二
「尊氏様! 我らは北条の専横が嫌で、命を捨てて戦ったのです! なぜ、血の一滴も流さなかった公家どもに頭を下げ、土地を奪われねばならんのですか!」
尊氏の京の屋敷には、夜な夜な不満を募らせた武士たちが詰めかけ、怒号を響かせていた。
彼らの血を吐くような訴えを聞きながら、弟の足利直義は激しい怒りを露わにして尊氏に迫った。
「兄上、これが我らの望んだ新しき世ですか! 天皇の独裁は、北条の得宗専政よりもさらに酷い。理が通らぬ政治は、必ず国を滅ぼします。今こそ武士の代表として、あの公家どもに一太刀浴びせるべきです!」
直義の正義漢は、武士たちの声をそのまま代弁していた。
しかし、その傍らで、執事の高師直は腕を組み、冷ややかに笑っていた。
「直義様、焦りは禁物にございます」
師直は、相変わらず冷徹に人間の「利」を見つめていた。
「今、天皇に刃を向けば、我が足利はただの逆賊にございます。武士どもが騒いでいるのは、正義のためではございませぬ。腹が減り、飯が食えぬからでございます。尊氏様、ここは彼らに個人的な施しを与え、足利の恩を骨の髄まで染み込ませる絶好の好機にございます」
理を説く直義と、利を見る師直。
二人の間で、尊氏の脳内では激しい思考の天秤が揺れていた。
(直義の言う通り、この政治は長くは持たぬ。武士という存在の本質は、土地の命懸けの保有にある。それを紙切れ一枚で左右しようとする天皇の試みは、歴史の必然に逆行している。
されど、師直の言う通り、今すぐ挙兵すれば日本中の公家や寺社を敵に回し、足利は孤立する。何より、私は後醍醐天皇という個人の持つ、あの人を惹きつける異常なまでの執念を恐れる。あの御方とまともに戦えば、この国はふたつに裂ける)
尊氏が下した優先順位は、「まずは破局を避けるための防波堤になること」であった。彼はあえて、自らの武力や権力を誇示することを止め、困窮する武士たちの救済を「私的な恩賞」という形で、秘密裏に行い始めた。
尊氏は、天皇から与えられた己の広大な領地や財貨を、路頭に迷う武士たちに惜しげもなく分け与えた。さらに、恩賞方に圧力をかけ、足利を頼ってきた武士たちの書類が優先的に処理されるよう裏で手を回したのである。
「足利殿こそ、真の武士の棟梁だ」
京の夜闇で、武士たちの間でそんな囁きが広がる。だがそれは、公家社会から見れば「天皇の権威を足元から脅かす、最も不穏な動き」に他ならなかった。実際、天皇の側近である千種忠顕や名和長年らは、尊氏を「第二の北条」として激しく警戒し始めていた。
「尊氏、そなたは少々、武士たちに甘すぎるのではないか」
ある日、紫宸殿の闇の奥から、後醍醐天皇の冷酷な釘が刺された。声音は静かだったが、逆らえば即座に誅殺するという覇気が満ちていた。
尊氏は拝礼の姿勢のまま、平伏し、静かに、しかし覚悟を込めて言葉を返した。
「恐れながら、陛下。武士とは、土地という根を持たぬと枯れてしまう草木にございます。根を枯らせば、大樹たる朝廷もまた倒れかねませぬ。私は、陛下のお足元を固めるために、泥水を泥のまま吸い上げているに過ぎませぬ」
尊氏は、天下を「朝廷と武士の二層構造」として捉えていた。彼は天皇を滅ぼそうとしたのではない。公家という特権階級の制約のなかで、いかにして武士という新しい力を調和させるか、その協調の道を必死に模索していたのだ。
三
しかし、歴史の奔流は、一人の男の調和への願望を嘲笑うかのように、さらなる最悪の混沌を用意していた。
東国、信濃の深山から巻き起こったのは、天を突くような怨嗟の雄叫びであった。
「中先代の乱」の勃発である。
「足利を殺せ! 鎌倉を取り戻せ! 北条時行!北条の主が鎌倉に!帰ってきたぞ!」
かつて滅ぼされた北条高時の遺児、北条時行が、諏訪の神党を味方につけて挙兵したのだ。幕府再興、そして新政への不満を爆発させた東国武士たちがその旗印に群がり、軍勢は地滑りのように膨れ上がった。
時行の軍勢は破竹の勢いで関東平野を蹂躙した。迎え撃つ守備隊の首が次々と飛び、矢弾が尽きた防衛線は次々と突破されていく。返り血を浴び、白馬にまたがって鎌倉へと迫る少年・時行の瞳には、凄絶なまでの復讐の炎が宿っていた。
「足利高氏! 貴様が裏切らねば、我が父も、母も、一族も、みんな死なずに済んだのだ! 死ね!高氏!鎌倉を返せ!死ね!殺す!地獄の業火で焼いてやる!殺す!殺す!殺す!」
時行の叫びと共に、鎌倉を守っていた直義の軍勢は完膚なきまでに叩きのめされた。凄惨な敗走のなか、鎌倉は再び北条の手に落ちる。
「兄上、鎌倉が……、鎌倉が完全に落ちました! 直義様の命が危ううございます!」
師直の悲痛な報告に、尊氏は即座に参内し、後醍醐天皇に拝謁した。
「東国の混乱を鎮め、北条の息の根を止めるため、私に征夷大将軍の位を授け、東下するお許しをいただきたい」
だが、御簾の向こうから返ってきた後醍醐天皇の答えは、冷徹極まるものであった。
「ならぬ。尊氏、そなたが東国へ行けば、そのまま鎌倉で武家政権を再興するのではないか。余は、そなたの出陣を許さぬ」
人間の業が、志が、猜疑心が、京の都で複雑に交錯する。
天皇の不信感という、最大にして最悪の制約が尊氏の前に立ち塞がった。
弟の命は今この瞬間も危機に瀕しており、東国の武士たちは足利の救いの手を待っている。しかし、勅命を破れば、その瞬間に尊氏は「朝敵(国家の敵)」となる。
(あえて、勅命を破る危険を取る。これ以上の猶予は、東国の武士を再び北条の闇に突き落とし、建武の世を完全に崩壊させる。何より――私は、弟を見捨てぬ)
尊氏は、天皇の御前を退くと、主上のお許しの裏付け(綸旨)を待つことなく、自らの屋敷に戻るや否や下知を飛ばした。
「これより鎌倉へ向かう。従う者は、馬を引け!」
それは、後醍醐天皇への明確な、そして決定的な反逆を意味していた。
尊氏は、名誉や地位、これまで築き上げたすべてを失うことを恐れず、武士たちの信頼と、引き裂かれそうな弟の命を掴むために、再び己のすべてを天秤にかけたのである。
(第三章へ続く)
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