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小説 足利尊氏 天秤の毒 1305-1358  作者: 山田 誠一


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第一章:天秤にかける

「高氏、源氏の血の重さを忘れるな。牙は隠せ。泥をすすってでも、家を繋ぐのが棟梁の器であるぞ」


「あなた、そんな恐ろしいお顔で言ったって、この子はまだ何もわかりませんよ。よしよし、こわい父上ですねえ」


嘉元三年(1305年)、足利の館の奥深く。

産着に包まれた我が子を見つめながら、足利貞氏あしかが さだうじは呻くように呟いた。その声は、祝福というにはあまりに暗く、呪縛というにはあまりに切実であった。あやすように割って入った母・上杉清子の声音だけが、張り詰めた部屋の空気をわずかに和らげていた。


歴史という巨大な大河は、時に一個人の意志とは無関係に、その流路を激しく変える。後世の人間は、結果だけを見て「歴史の必然」と片付けがちだ。しかし、その渦中に置かれた当事者にとっては、一歩先も見えぬ暗闇の連続である。


鎌倉幕府。東国の武士が築き上げた初の武家政権は、このとき、制度の疲弊と執権・北条氏の驕りによって、内側から音を立てて腐朽しつつあった。そんな時代の転換期に、のちに天下を揺るがすこととなる足利高氏――のちの尊氏は、静かに産声を上げたのである。


足利家は、清和源氏の正統という輝かしい血筋でありながら、同時に過酷な宿命を背負っていた。

かつて幕府を揺るがした源氏の巨木たちは、北条氏の謀略によって悉く切り倒されてきた。生き残るための唯一の道は、北条家と幾重にも婚姻関係を結び、「牙を持たぬ忠臣」として振る舞うこと。足利家はいわば、北条の盾であり、同時に最も警戒される檻の中の猛獣でもあった。


父・貞氏が繰り返した言葉は、幼い高氏の胸に、鋭い棘となって突き刺さる。

「北条の忠臣」という表の顔と、「源氏の正統」という裏の誇り。この歪な二面性こそが、高氏の生涯を決定づける最初の、そして最も強固な時代の制約であった。


成長するにつれ、高氏の周囲には、彼の運命を左右する若き群像が集まりつつあった。


一人は、同母弟の足利直義あしかが ただよし

兄とは対照的に、線の細い、しかし眼光の鋭い少年であった。堅物で理を重んじ、秩序を愛する彼は、成長するにつれて幕府への不満を隠さなくなった。

「兄上、北条のやり方は明らかに理に背いております。飢饉に苦しむ御家人たちを顧みず、得宗家(北条の総本家)のみが富を貪るなど、長続きするはずがございませぬ。正すべきです」


直義は常に、制度の矛盾を鋭く突き、正義を求めた。それに対して高氏は、ただ静かに微笑むだけであった。

高氏には見えていた。北条が悪だから滅びるのではない。武士という存在の根底にある「土地への執着」と「尽くしても認められぬ怨嗟」が、すでに限界に達しているという大局的な構造が。しかし、それに対して己がどう動くべきか、その志は未だ定まってはいなかった。


もう一人、高氏の影のように付き従う男がいた。足利家の執事の血筋である、高師直こうの もろなおである。

師直は実務能力の塊であり、同時に人間の「欲」と「業」を誰よりも冷徹に見つめる現実主義者であった。

「若君、綺麗事では腹は膨らみませぬ」

師直は、直義の正義論を鼻で笑うように吐き捨てたことがある。

「武士が命を懸けて動くのは、大義名分のためではございませぬ。恩賞、すなわち次の領地のためでございます。そこを握って裏切らぬ利を与えれば、人はいくらでも操れましょう」


理を説く直義と、利を見る師直。

この二人の異なる行動原理に挟まれながら、高氏は人間というものの複雑さを学んでいった。人間は理想だけでは動かず、かといって物欲だけでも命は懸けない。では、何が人を真に動かすのか。高氏は武芸の修練で汗を流す合間に、いつもその問いを心の中で反芻していた。


元弘三年(1333年)。

後醍醐天皇が幕府打倒を掲げて挙兵すると、高氏を取り巻く空気は一変する。

各地で巻き起こる反乱の炎に、幕府は焦燥を募らせた。彼らは足利家の持つ「源氏の棟梁」としての影響力を恐れつつも、その圧倒的な軍事力を利用せねば持ちこたえられぬところまで追い詰められていた。


幕府は高氏に、西国への出陣を命じる。この時、父・貞氏はすでに世を去っており、高氏は名実ともに足利家の命運を握る立場にあった。


だが、出陣の直前、鎌倉の北条本家は高氏に冷酷な条件を突きつける。

「お預かりいたす。これは、鎌倉への忠誠の証にございますれば」

高氏の最愛の妻である赤橋登子あかはし とうし、そしてまだ幼い嫡男・千寿王せんじゅおうを、鎌倉に人質として残すことを強要したのだ。


赤橋登子は、他ならぬ北条一門の娘である。幕府は、身内の血を引く者すら道具として使い、足利を縛り付けようとしたのだ。従わねば、即座に一族誅殺。それは丁寧な言葉で包まれた、むき出しの脅迫であった。


鎌倉の屋敷の奥で、高氏は一人、暗闇の中で決断を迫られていた。


もし、このまま幕府の忠臣として西国へ赴き、天皇の軍を破ればどうなるか。足利家は当面存続し、家族の安全も保障される。しかし、その先に待っているのは、さらに肥大化した北条の専横と、報われない御家人たちの怨嗟による、終わりのない泥沼の戦乱だ。それは遠からず、武士という存在そのものの破滅を意味していた。


一方で、もし幕府に背を向けて挙兵すればどうなるか。鎌倉に残した最愛の妻子は、間違いなく即座に処刑される。足利の長老たちも恐怖に怯え、高氏を「一族を滅ぼす狂人」として引きずり下ろすだろう。勝率は極めて低い。


「大義のために、私情を捨てて立て」と言うのは容易い。しかし、身近な家族一人救えぬ男が、どうして天下の武士の命を背負えようか。

これは、単なる勝ち負けの計算ではない。己が何を最も優先し、何を失う覚悟があるかという、魂の試練であった。


高氏は深夜、薄暗い灯明の下で仏像の前に座し、己の脳内で選択肢を天秤にかけ続けた。

じっと手を見つめる。北条に従えば誇りが死ぬ。北条を裏切れば家族が死ぬ。どちらを選んでも、地獄しか残されていないように思えた。


しかし、夜が明ける直前、瞑目していた高氏の目がカッと見開かれた。

その瞳には、絶望ではなく、恐るべき逆転の光が宿っていた。


(私は、あえて北条を裏切るという最大の危険を取る。されど、無謀に命を捨てるのではない。妻子を救う道は、私が西国で圧倒的な勝利と、完璧な手回しを行う時間のなかにしかない)


高氏は、直義と師直の二人だけを密かに奥室に呼び寄せた。人目を忍ぶ蝋燭の炎が、三人の顔を怪しく照らす。

高氏は、低く、しかし有無を言わせぬ声で告げた。


「直義、お前は軍を離れ、密かに鎌倉を脱出せよ。何があっても千寿王を連れ出すのだ。師直、お前は西国への進軍の速度を徹底的に制御せよ。早すぎれば鎌倉の疑念を招き、遅すぎれば機を逸する。京へ入る手前、丹波の国に入った瞬間に、我らは反旗を翻す」


二人は息を呑んだ。それは、あまりにも細い糸を渡るような、綱渡りの大博打であった。

だが、高氏の判断基準は明確だった。彼は「足利家の存続」という利己的な目的と、「武士が報われる新しい世を作る」という大義を、決して切り離してはいなかったのだ。彼にとって源氏の棟梁としての志とは、孤高の英雄になることではない。泥をすすり、鬼となってでも、すべてを調和させる新たな構造を作り出すことだった。


「私は、鬼になる。北条を討ち、新しき世を開く。そのためならば、我が命も、源氏の名も、すべてを天秤にかけよう」


高氏の眼裏には、冷徹なまでの覚悟が宿っていた。彼は、家族を人質に取られた絶望を、むしろ北条の油断を誘うための盾として利用する狂気を選んだのである。もしここで彼が常識的な躊躇をしていれば、足利家は北条とともに歴史の塵となって消えていたであろう。


国境を越え、西へと向かう足利の軍勢。

馬上の人となり、軍の先頭を行く高氏の背中は、従う武士たちに、えも言われぬ威厳と、どこか底の知れない仄暗い狂気を感じさせていた。


歴史は、この丹波路たんばじでの決断を、鎌倉幕府崩壊の決定打として永遠に記憶することになる。高氏の知略と直義の奔走により、奇跡の歯車は回り出すかに見えた。


しかし、高氏はまだ知らなかった。

北条という絶対的な権力を打ち破ったその先に、さらなる不条理の深淵が待ち受けていることを。


(第二章へ続く)

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