10
「どうしたの? そんな所に居たら危ないじゃないか。こっちにおいで」
優しい声で俺に手を差し伸べる男だが、俺はそんな男の姿が怖かった。
片手間に人の命を奪おうとする男はどう考えてもサイコパスだし、ハーグの柔和な顔つきが男の異常性を浮き彫りにしていて、吐き出したくなる程の気持ち悪さが俺の胸を焼いた。はっきり言って今すぐここから逃げ出したい。恐怖心で、足が震えそうになる。
しかし、ここで俺が一人で逃げ出す訳にはいかない。それに、この時の俺は恐怖心よりも怒りが勝っていた。
絶対に、この子だけは助けなくちゃいけない。そんな使命感にも似た感情が生まれていた俺は、男に臆することなく睨みを効かせると身体に力を込めて身構える。
「皐月? 何か怒ってる?」
シャンデリアに照らされたブラウンの瞳が少し赤茶けて見えた。不思議そうに彩られた瞳はキョロリと丸められ、まるで幼い子供のようだ。
けれど、騙されてはいけない。
こいつはハーグと、ハーグの家族までも殺した殺人犯なんだ。
「なんで、なんで殺したんだよ......」
「......? 殺したって......誰を?」
「惚けんなよ! ここに住んでた人達の事だ!」
ハーグの身体を乗っ取って、どうして家族まで殺す必要があったんだ。
何の為に。
「ああ、その事か......それはね、皐月と暮らすにはそれなりの家が必要でしょ? この身体は幸いにも貴族だったからそこは十分すぎるくらいクリアしてたんだけど、他の人間は不要だからね。ここから出ていって貰ったんだ」
「出ていって......貰った?」
え? じゃあ、ハーグの家族を殺した訳じゃ、ないのか?
なら......。
「生きてる......のか?」
何処かで、無事に?
「うーん。それは流石に無理じゃないかな。この異空間を生身で数日生きるのは不可能だと思うよ?」
男の言葉に、俺は一気に谷底に落とされた気分を味わった。
異空間?
異空間と言ったか?
俺は、初めてここに連れられた時の事を思い出した。
この屋敷は異空間にあるから、うっかり落ちたりでもしたら二度と出てくる事は出来ない。
つまり、屋敷から出てしまったら最後、それは死を意味する。
この男はさっき、屋敷の人間には出ていって貰ったと言った。
もしかして......こいつ。
「異空間に......追い出した、のか?」
「そうだよ。血で屋敷を汚したくなかったから、一番効率のいいやり方だったと思うけど......何か気に入らなかったかな?」
この時、こいつは俺達とは根本的に違う人間なのだとようやく理解した。
人を殺す事がいけない事だと理解していないのではなく、認識できないんだ。
こんな奴とは一緒に居られない。
けど、俺がここから出たいと言えばこの男はとんでも思考回路で誰かを殺す結論に至るかもしれないと思うと、安易に男を拒絶する言葉を発する事が出来なかった。
どうするればいい?
この男は何故だかは分からないけど、妙に俺に拘っている。
なら、俺が我慢してこいつのそばにいて、誰も傷つけないようにすればこれ以上被害が拡大する事は無くなるのか?
自信はない。確証もないけど、今俺が出来るのはこの吐きそうになる嫌悪感を堪えて男と居ると言う事なんだと思う。
もう、死んでしまった人は元には戻らない。
なら、これからの被害を無くすのに全力を努めるしかないじゃないか。
だって、こいつは俺と一緒に居たくて人を殺めたんだから。
俺のせいで、ハーグとその家族は殺されたんだ。
「もう......いい。もう分かった」
ならせめて、この子だけでも助けたい。
こんな異空間に取り残された屋敷でこき使われるだなんて可哀想だ。
この子を自由にしてあげたい。
「お前とは後でゆっくり話したい事がある。けど、その前にこの子を自由にしてやってくれ」
「そのメイドを? 片付けなくていいの?」
「殺すな。彼女を元に戻してやってくれ。頼む」
男は、少し難しそうな顔をして悩んでいる。
何か不都合でもあるのか?
もしかして、元に戻せないとか......。
「戻してもいいけど......いいの?」
男のもったいぶった言い方に、元々気が長くない俺は苛立ちを隠せなくなった。
何だよ。もったいぶった言い方しやがって......誰のせいで苦しい思いしてると思ってんだ!!
「戻せるなら何が問題あるんだよ! 早く助けてやってくれ! もうこんな状態のこの子見てるだけでも辛いんだよ!!」
俺の訴えに男は若干困ったような顔をしたが、やはり俺の意見はなるべく受け入れるつもりらしい。「分かったよ」一言告げると、男はゆっくりと彼女の前に歩み寄った。
自分で頼んでおいて、男が下手な真似をするんじゃないかと固唾を飲んで見守っていると、男は彼女の荒れた頬をスルリと撫でて、じっくりと目を覗き込んだ。
ガラスのように男を写す瞳に光はないまま。
一瞬動きを止めていた男だったが、おもむろに右手を彼女の目の前に持ってくると、パチンと指を鳴らした。
「............あ」
少女が、数回瞬きをする。
そして、暗くよどんでいた瞳が鮮明な光を取り戻したのが分かった。
更に瞬きを繰り返す彼女は、気抜けした様子で目の前の男の顔を凝視している。
魔法が、解けたのか?
俺が確認しようと、彼女に声をかけようとした時だった。
「きゃああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
突然、少女は悲鳴をあげた。
男から逃げるように身体を後ろに退けながら、尻餅をついた彼女はなおも逃れようと床を這うようにして男から遠ざかる。
どうした! 何があった!?
「き、君! 大丈夫!?」
取り敢えず落ち着かせないと!
慌てて駆け寄り、彼女の手を取ろうとすると、少女は俺の存在に初めて気が付いたのか驚愕で目を見開くと怯えた表情で俺の手を振り払った。
「嫌! 止めて! 殺さないで!!」
「こ、殺さないよ」
「ハーグ様が、ハーグ様が乱心された!! 誰か、誰か来てぇ!!!」
あらんばかりに暴れた彼女は、俺を突き飛ばすと助けを呼ぼうとしたのか玄関の扉を開けるとそのまま飛び出した。
おい。
待て。
今、外は。
「出ちゃ駄目だ!!!!」
彼女の身体が大きく傾くのがゆっくり見える。
慌てて駆け出し、必死に手を伸ばした。
彼女の服が指先に当たる。
そして、少女は闇の中に消えて行った。




