20
そこは虚無な空間だった。
墨で塗りつぶしたような真っ黒い空間に、腰まで浸かった水をかき分けながら行く宛もなくさ迷い続け、何れくらいの時間が過ぎ去っただろう。
目的も無く、思考も無く、意思も無く、ひたすら水の抵抗に抗い歩き続け、次第に身体は疲れを訴え始める。
無音。
俺が動く度に波打つ水の音さえも聞こえない。
水かさが増した気がした。
不意に耳鳴りを覚え、両手で耳を押さえるが何の意味を持たなかった。
立ち止まってしまった。
何故かは分からない。でも、歩を止めた瞬間に俺は、自分はもう終わったと、そう直感的に理解した。
耳鳴りに立ち竦みながらヒヤリと汗をかく。
ばくばくと心臓が破裂しそうなほどに脈打った。
水中で、何かが動いた気がした。
うねえねと、無数の影が蛇のようゆったりとうねりながら俺を囲う。
―――怖い。
不明瞭な群れを組んだ生き物のようなそれは、獲物を狩るかの如く俺を追い詰めようとじわじわとその距離を縮めて行く。
駄目だ、これに捕まっては、駄目だ。
四方を囲まれ逃げ場は無い。
黒い影は水面に近付きのその姿を表そうとしていた。
来るな、来るな来るな来るな来るな!!!!
余りの恐ろしさに吐き気さえも覚える。
ついに、それがゆっくりと水面から飛び出そうと色濃く迫った時だった。
俺の身体は、軽々しく天井に吊り上げられた。
まるで、誰かに抱き抱えられたかの様に。
そして――――――――――――
「よう、気分はどうだ?」
目を開けると、青い顔色のフェルムットが俺の顔を覗き混んでいた。
「あ......れ......ごほごほっ!!」
思った通りに声が出ない。
しゃがれた声を絞り出すと喉がひきつって咳がでた。あれ?俺、どうしてこんな体調悪い感じになってんだ?
「大丈夫か?今リディに水持って来させるからよ」
「あ、りがとう......」
ございます。まではっきり言えなかったが、フェルムットは穏やかに微笑み寝ている俺の頭をくしゃりと撫でてくれた。
ここは、教会の俺とスギナの部屋だ。
ぼんやりと二段ベッドの上段の裏を眺めている横で、フェルムットが戸を開けてリディに水を持ってくるように頼んでいるのが聞こえた。
俺、何してたんだっけ?
怖い夢を見ていた気がするけど、どんな夢だったかもう覚えてない.......。
「ほらよ、ゆっくり飲め」
ぼんやりとしていると、リディがお盆に水のはいったコップを乗せて持ってきてくれた。
フェルムットに起こされ、渡された水をちびちびと喉に流す。
冷たい水が渇いた喉に染み渡り気持ちがいい。
「......うまい......」
小さく呟くと、リディがホッと息を吐き表情を緩めた。
フェルムットはポケットから煙草を出すが、口に運ぼうとした手を止めポケットに戻した。
「で、何があったか覚えてるか?」
ふと投げ掛けられた質問に俺は言葉を濁した。
スギナと教会を出て森のなかを歩いていたのは覚えているんだけど、そっからどうなったのか思い出せない。
なんか、大変な目にあってた気がするんだが......。
「森のゴロツキに痛め付けられてたみてーじゃねぇか。スギナが顔の形変えて帰って来たぞ」
「............あ!」
思い出した!!
骸骨顔の男とモヒカン頭の男!!
あいつら俺達を人買いに売ろうとして、隙をついて逃げようとしたらモヒカン頭に襲われて......。
あれ、何で俺生きてんの?
「俺、ゴロツキに殺されかけて......その後どうなったのか分からない......スギナは、スギナはどうなったんですか!?」
あれからどうやって戻って来たんだ?
スギナもぼろぼろにされて、あいつがモヒカン頭を倒したとも思えないし......。訳が分からない、誰か説明してくれ。
「スギナも無事だ。あいつには感謝しとけよ。気絶してたオメーを背負ってここまで歩いて来たみてーだからな」
「......え?」
スギナが......?俺を背負って......?
て事は、スギナがあのモヒカン頭を......。
「そんじゃ、オメーが起きた事だし俺は一仕事しに行きますかね」
首を鳴らしながら背伸びをしたフェルムットは、何時もの気だるい表情ながらも疲れた顔をしている。
仕事って......?
「フェルムット神官、何処へ行かれるのですか?」
リディが怪訝な表情で訪ねると、煙草を取り出したフェルムットはニヤリと笑う。
「あいつらぶっ飛ばしに行くんだよ」
「ぶっ飛ばし......?今からですか?そんな無茶です!顔色が優れないと言うのに、今日はお身体を休めて下さい」
「大丈夫だって、ニベウス達の事は任せたぞ」
「神官!!」
リディが止めるのを聞かず、若干ふらつきながらフェルムットは部屋を出ていった。
本当に大丈夫か?
いきなりぶっ飛ばしに行くとか言い出して......。あいつらって、ゴロツキ達の事だよな?
リディとフェルムットの言い合う声が遠退き、終には聞こえなくなると部屋はシンと静まり返る。
......まぁ、あんなヤベー事仕出かす奴等、居なくなってくれる方が安心するけどさ。リディが心配するのは無理も無いくらい具合悪そうだったし、いくらフェルムットが強くても相手は複数人居るんだ。多勢に無勢になるんじゃないか心配になってくる。
「......あ 」
フェルムットの身を案じつつ水を飲んでいたら、部屋の戸から遠慮がちにスギナが顔を覗かせているのに気が付いた。
視線が合い、俺が声を上げるとスギナはビクリと反応する。
「......なにしてんの?」
何でこいつそんな所でこそこそしてんだ?
「......もう......なんとも無いのか?」
「......まぁな」
何時ものばかでかい声では無く、覇気の無い死にそうな声で話すスギナに違和感を覚えてしまう。
まーーーだ落ち込んでやがんのかこいつは。
「こっち来いよ」
「いや、その......うん......」
煮え切らない態度を取るスギナは、やや躊躇いがちに頷くとゆっくりと俺のそばにやって来て床に胡座をかいた。
顔の腫れは引いていてスッキリとしているが、所々傷が目立っている。痕に残らなければいいけど。
「お前こそ、大丈夫なのか?結構蹴られたりとかしてたけど......」
「それは大丈夫、あいつ、手加減してたみたいで......骨は折れてなかったから」
「そっか......」
あの骸骨顔......無頓着に暴力を奮っていたかと思えば、ちゃんと商品として使い物にならない程度に痛め付けていたのか......。喰えない野郎だな。
と、そんな事より。
「ありがとな」
「......え?」
「助けてくれたみたいじゃん。しかも俺を背負ってここまで連れてきてくれたんだろ......ありがとう、助かった」
あの洞窟からこの教会まで結構な道のりだ。運んで来るとなると相当な気力と体力が必要だし、しかもあのモヒカン頭を撃退した後にそれをやってのけるとは、なかなかやるじゃねぇか。
俺の中でスギナの株が急上昇するなか、スギナはますます顔をうつ向かせて微かに震えだした。
......え?どしたの?
「......俺は......何もしてない......」
「は?何もしてないって......そんな訳無いだろ?」
何を謙遜してんのこの子は?
うーん、やっぱり普段から喧しい奴がしみったれてると此方まで調子狂うな......。
俺はスギナのお陰で助かったんだから、少しは自信を取り戻してもいいのに......。
「危うく殺される所だった......なぁ、あれから何があったんだ?」
スギナが全く自信を取り戻していないとすると、やっぱりスギナがあのモヒカン頭を撃退した訳では無いと言う事か。それなら、俺達はどうやって助かったんだろう。。
俺の問いかけに対して、スギナは口ごもると首を横に振った。
「フェルムは何も言ってなかったのか?」
「フェルムット?特に何も......」
俺が起きたら直ぐ出てっちゃったし。
てか何でフェルムット?
「俺からは、何も言えない......俺でも良く分からないから......」
「あ......そうか」
な、なんだよ......気になるじゃんか......。
問い詰めたいけど出来そうな雰囲気じゃないし......。不安を煽らないで下ちぃ。
とは言え、スギナが俺をおぶってくれたのには変わりは無いんだろうし、そこは感謝しないとな。
「でも、俺をここまで運んでくれたのはスギナだろ?本当にありがとう......お前が居てくれて良かった......」
「............」
感謝を述べたのに全く嬉しそうじゃないスギナ。
いつもだったら鼻高々になってはしゃぐのに......どうやったら復活すんだこいつ。
「俺......俺は......」
「うん?」
何か言いたそうにしてるけどゴニョゴニョしてるだけで話が進まない。おい、はっきり言ってくれ。
すると。
「............!」
スギナの青い瞳から、涙が零れ落ちた。
......え?何で泣く?
「お、ちょ......泣くなし......」
いきなり泣かれてもテンパるだけなんですが!泣く要素どこにあったよ!?
涙を拭う事もせず、ポロポロと自分の足に涙を落としながらスギナは声を絞り出すように話し始めた。
「......俺っ......怖くて......最初、ニベウス置いて逃げようとした......っ」
え?そうなの?
別にそれは気にしないけど......。
「何も、出来なくて......俺......やっぱりっ......何も出来ない......人間だった......」
「えっと......」
こんな時、どうやって励ましてあげればいいのん?
スギナが美少女だったら抱きしめてあげるんだがこいつ男ですしおすし。
とりま、俺は率直な意見を述べる事にした。
「何も出来ないって、そんな事無いだろ......?俺を背負って教会まで連れてきてくれたじゃん......簡単に出来る事じゃねーよ......」
あの足場のわるい山道を人を背負って歩くのは大変だった筈だし、洞窟から教会までは距離も長い。
包帯を巻いたスギナの足に視線を落とし、俺は少しばかり胸が痛んだ。
「それくらいしか出来なかった......じゃないと、俺は本当に駄目な人間になるから......」
駄目な人間ってなんだ?
「なぁ、ニベウス」
「はい」
思わず敬語ですよ。
スギナは涙を流した情けない顔で俺を見つめる。
「俺、これからどうしたらいいんだろう?」
ど、どうしたらって、俺にも分かりまてん......。
「リディに聞いても、自分で決めろって言われるし......でも、俺全然分からなくて......っ......」
うーん......、そんな難しい話しを聞かれても......。でも適当な事言って傷付けたくないし......。
「け、剣士目指したらいいのでは?」
「俺、才能無い......」
あんらー、そうなっちゃったか......。
まぁあんだけボコられちゃ剣の自信も無くすのは仕方ないけど。でも、せっかく今まで頑張ってたのに諦めちゃうのは勿体無い希ガス。
「そうかな......ちゃんとした所で教われば、スギナは直ぐ強くなると思うけど」
「孤児の俺が、習える所なんて無い......」
そうなのか......。難しいな。
スギナは正義感も強くて勇気も持ってるから剣士とか向いてると思うけど。実力は置いといて......。
「俺だったら、スギナみたいな奴に警備隊になって欲しいな」
「え?」
思った事を何も考えずに口にしたら、スギナが涙を止めてぽかんとした顔をした。
俺はハーグの世話になってた頃の事を思い出していた。フレア教会のハーグの部屋で、特にする事も無く暇潰しに読んでいた本の中には貴族の暮らしや常識を学ぶ本もあった。読書家のハーグは守備範囲も広く、歴史や教会について書かれた本の山には時々趣向の違う本もいくつかあって、一応貴族の俺はその本に一通り目を通していたのだ。
「俺、これでも貴族だから、家に専属の警備隊を雇ったりしてるんだけど......どうせ自分を守ってくれるなら、スギナがいいなって思う」
貴族は自分の屋敷や身の回りを警備させるのに、専門的訓練を受けた軍人から作られてる警備隊を雇っている。
でも、俺からしたら見ず知らずの人より信頼出来る人を側に置きたい。もし万が一、ナグルみたいなチャラチャラした奴が来たらストレス半端ないしな。多分だけど、俺って国の上層部から嫌われてると思うんだよね。じゃなきゃ護衛にあんなすかぽんたん付けるはずが無いし。
「スギナさ、強くなって俺の警備隊になってよ」
スギナってバカ正直で、真っ直ぐな性格してるから裏切らなそうだし、良いやつだ。
単純な理由だけど、俺は出来るならそうしたいと本気で思った。




