第4話 【シルフィード】森の泣く声
【王暦元年 秋/シルフィード公国】
大陸の西の大森林で、千年のあいだ人間の争いから離れて生きてきたエルフの国。
大陸の西に広がる大森林は、千年のあいだ、人間の争いを知らずにきた。
樹齢千年を超える巨木が天を覆い、その枝の上に、エルフたちの都シルフが築かれている。木の幹をくりぬいた家々を、蔦で編んだ吊り橋が結び、朝になれば葉の隙間から差し込む光が、都じゅうを緑色に染め上げる。
その朝、公女エルは、都の外れにある泉のほとりにいた。
膝の上には、一匹の小鹿が横たわっている。後ろ脚に、折れた矢が深く刺さっていた。
「大丈夫。すぐに楽になるわ」
エルは矢を静かに引き抜き、傷口に手のひらをかざした。
淡い光が、指先からこぼれる。光は小鹿の脚を包み込み、裂けた肉をゆっくりと閉じていった。小鹿はしばらく驚いたように目を見開いていたが、やがて立ち上がり、ふらつきながら茂みの奥へと駆けていった。
金色の長い髪が、泉を渡る風に揺れる。額には、若木の枝を模した細い冠。長命なエルフの中ではまだ若い公女だが、その癒しの術は、都の誰よりも優れていた。民は彼女を「森の慈母」と呼んでいる。
エルは、地面に落ちた矢を拾い上げた。
エルフの矢ではなかった。羽根の付け方も、鏃の形も違う。人間の矢だ。
「……また、森の端で戦があったのね」
答えるように、頭上の梢がざわめいた。風ではない。エルフにだけ聞こえる、木々の声だ。
この半年ほど、森の声は日に日に悲しげになっていた。森の東の端では、人間の戦で焼け出された者たちが、木を切り倒して薪にしている。南の端では、野盗が獣を狩り尽くしている。
森が、泣いている。
◇
「エル様!」
泉への小道を、フードをかぶった小柄な娘が駆けてきた。茶色の髪を肩の上で切りそろえた、まだ幼さの残る顔立ち。魔導兵を率いるミーナだ。
「どうしたの、ミーナ。そんなに慌てて」
「ネフェル教国から、使者が……! 大聖堂の名で、布告を出したそうです」
ミーナは息を切らしながら、一枚の羊皮紙を差し出した。
白い封蝋に、光輪の紋章。ネフェル教国の印だ。エルは羊皮紙を広げ、そこに書かれた文字を目で追った。
――森の精霊を崇める信仰は、唯一の光に背く異端である。
――シルフィード公国は、ただちに精霊の祭壇を廃し、聖堂の教えに従うべし。
エルの指先が、かすかに震えた。
「……異端、ですって?」
「教国の大司教が、議会で決めたそうです。大聖女ミリア様の名も、署名に……」
ミーナの声は、途中で小さくなった。
ミリア。
その名を聞いた瞬間、エルの胸に、遠い日の光景がよみがえった。
◇
十年前、エルは公国の使節として、初めて聖都ネフェルを訪れた。
人間の都は何もかもが大きく、騒がしく、石の匂いがした。息苦しくなって大聖堂の裏庭に逃げ込んだとき、そこでひとりの少女に出会ったのだ。
白い髪をした、目の見えない少女だった。祈りの見習いだという彼女は、エルの足音だけで、相手が人間ではないことを言い当てた。
「あなた、森の匂いがする」
それがミリアだった。
それから使節の滞在が終わるまでの十日間、ふたりは毎朝、裏庭で一緒に祈った。エルは森の精霊への祈りを、ミリアは聖堂の光への祈りを。言葉も作法も違ったが、不思議と、祈る心は同じだと思えた。
別れの日、ミリアは言った。
「神さまの光と、森の精霊。きっと、同じものの違う呼び方なんだと思うの」
エルは、その言葉をずっと覚えている。
◇
昼過ぎ、エルは馬に乗って、森の東の外れまで出かけた。
先導するのは、赤い髪をひとつに束ねた女騎士、リゼだ。彼女の乗る栗毛の牝馬フレイヤは、木の根が絡み合う森の小道を、まるで平地のように軽やかに駆けていく。
「フレイヤは今日もご機嫌ね」
「ええ。エル様をお乗せすると、いつも張り切るんです」
リゼは、愛馬の首を誇らしげに撫でた。森でいちばんの駿馬で、リゼが仔馬のときから育ててきた。彼女にとっては、家族も同然の存在だ。
森の外れに着くと、木々の間に、粗末な天幕がいくつも張られていた。
人間の避難民たちだ。東の平原で戦に焼け出され、行き場をなくして森に逃げ込んできた者たちだった。エルフの掟では、人間を森に住まわせることは許されていない。だがエルは、彼らを追い出すことができなかった。
天幕の前で、人間の子どもとエルフの子どもが、木の実を投げ合って遊んでいた。人間の子は、肩に包帯を巻いている。エルフの子が、慣れない手つきでその包帯を巻き直してやっていた。
「……長老たちは、いい顔をしませんけどね」
リゼが、小さく言った。
「森の木を薪にされるのは困るって。私も、正直に言えば、少し」
「分かっているわ」
エルは馬を降り、子どもたちのそばにしゃがんだ。人間の子の肩に手をかざすと、淡い光がこぼれ、包帯の下の傷がふさがっていく。子どもは目を丸くして、それから、はにかむように笑った。
「ありがとう、エルフのお姉ちゃん」
エルは、その小さな頭を撫でた。
森も、人も。この子たちが一緒に遊べる場所を、守りたい。それがどれほど難しいことか、エルはまだ本当には知らなかった。
◇
その夕刻、都の中央にそびえる大樹の広間に、公国の将たちが集まった。
「教国が本気なら、いずれ兵を送ってくるじゃろう」
まず口を開いたのは、白髪まじりの灰色の髪に、立派な口髭をたくわえた老エルフ、オルドだった。歩兵を率いる古参の将で、エルの祖父の代から公国に仕えている。
「森の南、ルミナの城から一番近いのはローレルの砦じゃ。守りを固めねばならん」
「固めるだけじゃだめだ。こっちから先に叩くべきだよ!」
若葉色の短い髪に鉢巻きを締めた青年が、拳で卓を叩いた。弓兵の将フィン。都でも指折りの射手だが、気が短いのが玉に瑕だ。
「精霊を異端だなんて、ふざけてる。千年前から、この森にいるのは僕たちの方なのに」
「フィン、落ち着いて。でも……私も、黙ってはいられない」
リゼが腕を組んだ。騎兵を率いる彼女とフレイヤの息の合った突撃は、人間の騎士にも引けを取らない。
「エル様。私の隊は、いつでもローレルへ走れます」
三人の視線が、エルに集まった。
エルは、しばらく答えなかった。広間の窓の外では、夕陽が森の梢を赤く染めている。その赤が、炎の色に見えた。
「ミーナ」
「は、はい」
「あなたの幼なじみの……ルカ、だったわね。今、聖都にいるのでしょう」
ミーナは、ぎゅっとフードの端を握った。
「……はい。教国の学僧になって、もう三年になります。手紙は、半年前から返ってこなくて」
「そう」
エルは目を閉じた。木々の声が、また聞こえる。悲しげに、何かを訴えるように。
「森の木々が泣いている……。もう、黙って見ているわけにはいかない」
エルは立ち上がった。そして、壁に掛けられた一張の弓を手に取った。若葉色の弦を張った、疾風の弓。先代の公王、エルの母が遺したものだ。
広間が、しんと静まり返った。
「エル様……」
「ミリア……あなたまで。でも、きっと何か理由があるのね」
エルは弓を胸に抱き、将たちを見渡した。
「――いいわ。森を守るために、私も弓を取ります」
オルドが、深く頭を下げた。フィンとリゼが顔を見合わせ、うなずき合う。ミーナだけが、唇を噛んでうつむいていた。
◇
夜。エルは都の一番高い枝の上に立って、南の空を見ていた。
森の向こう、湿原の彼方に、聖都ネフェルがある。十年前、白い髪の少女と祈った大聖堂が。
「同じものの違う呼び方……。あなたはそう言ったのよ、ミリア」
つぶやいた声は、夜風にさらわれて消えた。
弓を握る手が、冷たかった。癒すための手で、矢をつがえる日が来るとは思っていなかった。
それでも、この森の千年を、自分の代で終わらせるわけにはいかない。
頭上で、梢がひときわ大きくざわめいた。それが励ましなのか、それとも嘆きなのか、エルにはまだ分からなかった。
本作は、ブラウザで遊べるシミュレーションゲーム『Last Sovereign of Eldia ―六王戦記―』の小説版です。
ゲームでは六つの国から好きな君主を選び、武将を率いて大陸統一を目指せます。
レイドたちと一緒に戦ってみたい方は、ぜひ遊んでみてください。
▼ゲームはこちら(PLiCy/無料・ブラウザですぐ遊べます)
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