第2話 【ヴァルガ】北の冬
【王暦元年 秋/ヴァルガ帝国】
(第1話より数日前、グランの峠から物語は始まります)
北の雪山の向こうにある、一年の半分を雪に閉ざされた軍事国家。
グランの峠に、その年最初の雪が舞っていた。
岩肌の細い道は、蒼い外套の騎士たちの屍で埋まっていた。その奥、崩れかけた石の祠を背にして、ひとりの男がまだ立っていた。
金の髪は血で汚れ、鎧は半分ほど砕けている。それでも、男の構えた剣はまっすぐにこちらを向いていた。
アルセリア国王、アルベルト。
「下がれ」
ヴァルガ帝国皇帝グラムは、馬上から短く告げた。槍を構えて王を取り囲んでいた帝国兵たちが、戸惑いながら道を開ける。
「陛下、御自らお出になる必要は……」
背後で、若い女の声がした。葡萄酒色の長い髪に、銀の額飾り。帝国魔導兵団を率いるイゾルデだ。
「黙っておれ、イゾルデ」
グラムは馬を降りた。雪を踏む音が、やけに大きく響いた。
白い髭が胸元までを覆う、老いた皇帝である。だが、その体は岩のように分厚く、手にした守護の大剣は、並の兵士なら持ち上げることもできない代物だった。
「アルセリアの王よ。殿の騎士どもは、もう峠を下りきった頃であろう。……見事な時間稼ぎであった」
「褒めてもらっても、何も出ないぞ。グラム」
アルベルトは、血の混じった唾を吐いて笑った。
「三十年だ。お前が南へ攻め寄せるようになって、もう三十年になる。……いったい、いつまで続けるつもりだ」
「北の子らが、凍えずに冬を越せるようになるまでだ」
グラムは、大剣をゆっくりと構えた。
「貴様には分かるまい。麦の海に囲まれて育った南の王にはな」
一瞬、アルベルトの目に、何かがよぎった。怒りではなかった。哀れみとも違う。グラムには、それが何なのか分からなかった。
「――そうか」
次の瞬間、アルベルトが踏み込んできた。
疾い。深手を負った男とは思えない、鋭い一撃だった。グラムは大剣の腹でそれを受け、押し返す。火花が散り、雪が舞い上がる。
二合、三合。剣と剣がぶつかるたびに、峠の岩壁がこだました。
だが、勝負は初めから見えていた。アルベルトの足元には、すでに赤い染みが広がっていた。
七合目。大剣が、王の胸を深く裂いた。
アルベルトは、雪の上に膝をついた。その手から剣が落ちる。それでも彼は倒れず、グラムを見上げて、何かを言った。
かすれた声だった。雪の音にまぎれて、そばにいたイゾルデにも聞き取れなかっただろう。
だが、グラムには聞こえた。
老皇帝は、長いあいだ黙って、動かなくなった敵の王を見下ろしていた。
◇
「この男を、峠に葬れ」
陣に戻るなり、グラムはそう命じた。将たちが顔を見合わせる。
「葬る……のですか? 首を晒して、アルセリアの士気をくじくべきでは」
「二度言わせるな」
低い声に、誰も逆らえなかった。
「この男は、最後まで部下を逃がすために剣を振るった。王とはそういうものだ。……祠の脇に、石を積んでやれ」
イゾルデは何か言いたげに口を開きかけ、やめた。この老いた皇帝が、ときおり誰にも分からない理屈で動くことを、彼女はよく知っていた。
峠を下りる前、グラムは一度だけ振り返った。小さな石塚の上に、雪が静かに積もりはじめていた。
◇
帝都ヴァルガへの帰路は、凍える風との戦いだった。
白嶺山脈を越えた先は、もう冬の国だ。まだ秋だというのに、畑は雪に埋もれ、川は端から凍りつきはじめている。南の国々が麦の刈り入れを祝っている頃、この北の地では、人々が冬を越せるかどうかを数えている。
街道沿いの村に差しかかったとき、グラムは馬を止めた。
一軒の家の前で、女がうずくまっていた。腕の中に、小さな子どもを抱いている。子どもの顔は、雪のように白かった。
女は、通りかかった皇帝の軍に気づいても、顔を上げなかった。
「……陛下」
弓兵隊を率いるベイルが、そっと馬を寄せた。栗色の髪を後ろで束ねた、物静かな男だ。
「この村は、去年の冬にも三人、凍えて死んだそうです」
グラムは答えず、馬を降りた。そして女の前に膝をつき、自分の紅の外套を外して、母子の上にかけた。
女が、ようやく顔を上げた。皇帝だと気づいて、怯えたように身をすくめる。
「陛下……申し訳……」
「謝ることはない」
グラムは、冷たくなった子どもの頬に、太い指でそっと触れた。
「謝らねばならんのは、わしの方だ」
そのまま立ち上がり、背後の将たちに告げる。
「ドーガ。この村に、陣の麦を半分置いていけ」
「半分も、ですか? 帝都まで、まだ四日は……」
兜をかぶった大男、ドーガが目を丸くした。脇腹に古い傷を持つ、帝国随一の歩兵の将である。
「兵は四日食わずとも死なん。だが子どもは、一晩凍えれば死ぬ」
ドーガは何も言わず、拳を胸に当てて頭を下げた。
その横で、黒い蓬髪の騎兵の将ザギが、つまらなそうに鼻を鳴らした。頬に刀傷のある、荒々しい男だ。
「親父殿は甘ぇな。こんな村、帝国中にいくらでもあるぜ」
「だから、南へ行くのだ」
グラムの声は、静かだった。
「麦の海を、この手でつかむまで。わしは止まらん」
◇
帝都ヴァルガは、黒い岩を積み上げた城塞の都だ。
城壁の内側には、石造りの家々が肩を寄せ合うように並び、どの煙突からも細い煙が上がっている。薪は貴重だ。どの家も、一日に焚ける量は決まっていた。
戻ったその日の夕刻、グラムは真っ先に城の地下にある大蔵へ下りた。
「麦の蓄えは、あとどれほどだ」
蔵番の老人は、帳面をめくる手を震わせながら答えた。
「民に配る分を今のまま続ければ……冬至までは、もちます。ですが、その先は」
「その先は」
「……雪解けまで、三月足りません」
グラムは、がらんとした蔵の中を見渡した。天井まで届く棚の、下の方の段にだけ、麦の袋が積まれている。上の段はどれも空だった。
「去年は、二月足りなかった」
「はい。……今年は、南の峠の村々からも、麦を出す余裕がないと」
背後に控えていたドーガが、ぐっと拳を握るのが分かった。
この国では、毎年同じことが繰り返される。秋に蔵を数え、冬に人が死に、春に兵が南へ向かう。南で奪った麦で、次の冬をしのぐ。それが、三十年続いてきた帝国の暮らしだった。
「足りぬ三月の分は、わしの食い扶持から削れ。将たちの分もだ」
「へ、陛下……!」
「兵の分は削るな。春に戦えぬからな」
グラムはそれだけ言うと、踵を返した。
蔵を出る階段の途中で、ドーガが低い声で言った。
「陛下。将の分は、俺たちが勝手に削っときます。陛下の分は、そのままにしてください」
「余計なことをするな」
「余計じゃありません。陛下が倒れたら、この国はひと冬ももちません」
グラムは足を止めず、振り返りもしなかった。ただ、ほんのわずかに、その大きな背中が丸くなったように、ドーガには見えた。
◇
帝都に戻って三日目。玉座の間に、南からの報せが届いた。
「アルセリアの新王が即位しました。先王アルベルトのひとり息子、レイド。年は十九とのことです」
「十九、か」
グラムは玉座に深く腰かけたまま、目を閉じた。
峠で聞いた、あの男の最後の言葉がよみがえる。
「陛下」
イゾルデが、一歩前に出た。
「南の諸国は、帝国を『蛮族』と呼んでおります。先王を討ったことで、アルセリアの民はますます我らを憎むでしょう」
「言わせておけ。歴史は勝者が書く」
グラムは目を開いた。赤みを帯びた瞳が、玉座の間に並ぶ将たちをひとりずつ見渡していく。
「弱き者に明日はない。ならば、我らが強くあればよい」
誰も、何も言わなかった。この三十年、皇帝が同じ言葉を口にするのを、彼らは何度も聞いてきた。そしてそのたびに、帝国は南へ進んできたのだ。
「アルセリアの小倅が、父と同じ器かどうか。雪が深くなる前に、確かめておく」
グラムは立ち上がった。老いてなお、その背は誰よりも大きかった。
「――全軍、南へ進め!」
玉座の間に、鎧の打ち鳴らされる音が響き渡った。
その音を聞きながら、イゾルデは、グラムが玉座の陰で小さく咳き込むのを見ていた。ほんの一瞬のことだった。皇帝はすぐに背を伸ばし、何事もなかったように歩き出した。
北の冬は、すぐそこまで来ていた。
本作は、ブラウザで遊べるシミュレーションゲーム『Last Sovereign of Eldia ―六王戦記―』の小説版です。
ゲームでは六つの国から好きな君主を選び、武将を率いて大陸統一を目指せます。
レイドたちと一緒に戦ってみたい方は、ぜひ遊んでみてください。
▼ゲームはこちら(PLiCy/無料・ブラウザですぐ遊べます)
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