善と悪と神
静かな部屋の中を、ラーニャの寝息だけが支配していた。アレンはただの剣を、この家にあっては珍しく清潔な布で磨いている。
カトリンはそれを見つめながら、一番聞きたいことを言い出せずにいた。
アレンは、リリットのことを知っている。もちろんサラからもある程度は聞いているが、「勇者」はリリットのことをどう見たのだろうか。
カトリンは何度も口を開けては、また閉じて。ずっと繰り返している。
怖かった。もし、「勇者」がリリットを悪様に言うのなら。
リリットは確かに悪だ。人を喰らう、悪魔族だ。カトリンはそんなことはとっくに理解していた。
だがそれは、書物の中の記録としてのリリットの姿――則ち、ヴァスラディ将軍の姿だった。もし生きている悪としてのリリットを知ったとき、カトリンはリリットをどう思ってしまうのだろうか。それがカトリンには怖かった。
「……なぁ」
不意にアレンが口を開いた。
「今夜の宿はあるのか? 流石に若い女子をこの部屋に泊めるのは気が咎めるんだが」
「あ……す、すみません、そこまで気が回らなくて……。えぇっと、とりあえず探してみます」
「まだアテがないなら、隣の奥さんのところに行ってみな。最近旦那を亡くして寂しがってんだ」
「あ、ありがとうございます……」
あとでリアを探してこないと。カトリンがそうやって今後を計算していると、アレンは言いにくそうに言葉を詰まらせながら喋り始める。
「……君の……師匠は、あのヴァスラディ将軍なんだろ……?」
カトリンの肩がビクリと震える。アレンはせっせと刃を磨いていた。もう顔が映るくらいには磨かれているのに。
「あれは強かった。……君は……いや、あ〜……どうだった……? 悪魔族に色々と教わって」
アレンが何を求めてそんなことを聞いているのか皆目見当もつかない。カトリンは必死に頭を回したが、思い出ばかりが空回りする。
「……その……師匠は……とても……良い人でした……」
こんなことを研究室で発表すれば、教授にどやされてしまうのは間違いないだろう。だが今のカトリンには、アレンを前にして、それが限界だった。
「そうか……」
アレンは剣を斜めにして、部屋の隙間から入り込む夕陽に当てた。傷は、無かった。
「……まあ、やっぱりあいつらにも心はあったんだな」
「……心……?」
「ああ。……俺はあいつらと殺し合うまでは、心なんて無い化け物だと思ってた。だけどな、あいつらには心があった。間違いない」
「なんで言い切れるんですか……?」
カトリンも知っている。だが、カトリンはそれを他に証明する道具を持っていなかった。
アレンは、僅かに口角を上げた。
「剣を交えたからだ。殺し合った相手は、ほとんど友達だよ」
あまりにも馬鹿馬鹿しい。だがそれゆえに、上手い反論など生まれようのない言い分。
カトリンは眉を押し下げながら、ふぅ、と軽いため息をつく。
「……普通友達は殺せませんよ」
「そうだ。でも、殺さなきゃいけない時だってある。どんなに生きていて欲しくても、後で酒を酌み交わしたくても、俺たちはいつだって振り回されて殺し合いをしなきゃならない」
アレンは、古びた鞘を手に取ると、ゆっくりと剣を収めていく。金属と木が擦れる音が、ラーニャの寝息を上書きしていく。
「その後に救いはあると思うか?」
その問いが、カトリンの頭のなかで鋭く木霊した。
「……あると、思います。実際にアレンさんは、世界を……救った」
「どうだかな。魔王を殺した後、悪魔族の人間牧場にいた人間たちがどうなったか知ってるか? まともに生きる力なんて当然ない。遊牧民族ドラン――今のドラングレイグ帝国が侵略の尖兵として使い潰して、今じゃあどれだけ残ってるのか分かったもんじゃない。悪魔族は悪魔族なりに家畜の扱いは良かったらしいぜ、家畜の範囲でな。あいつらにとって、悪魔族の家畜であることと、帝国の尖兵であること、どっちが幸せだったと思う?」
「……」
「……昔、セヴァンに聞いたんだ。俺たちの行動は善だったのかって。そしたらこう言われた。『神こそが善であり、神に導かれた我々が善であることに間違いはない』ってな。本当だと思うか?」
「……そんなこと私が知るわけないです……」
もう嫌だった。もう、答えの出ない問題に向き合うのは疲れた。
カトリンはリリットの本当の姿を書いた本を出版したい。ただそれだけなのに。
「だよな。……善だの悪だのってのは、後代の奴と、もっと言えば神だけが決めるんだ。俺たちが知るわけ、ないよな」
アレンは剣を脇に置くと、ポリポリ頭を掻く。フケがアレンの膝に落ちる。
「……悪いな、最近若い奴と話すと説教ばっかりだ。また明日、会おう。ラーニャの相手をしてやらなきゃいけないからな」
膝を鳴らしながら立ち上がったアレンが、ラーニャの元まで歩いていくと、しゃがんで優しく肩を叩いた。
「おい起きろ、ラーニャ」
「……ん〜……? 朝……?」
「違うぜ。朝はまだまだ先だ。今日は一旦、隣の家に行ってみな。あそこのおばさん、野菜が余って仕方ないってよく俺に分けてくれるんだ。お前らの分も頼めばあるはずだ」
カトリンは力なく立ち上がっていた。
「……ラーニャ、行こう? また明日、アレンさんが相手してくれるって」
ラーニャへ手を差し出すと、ラーニャはそれを弱々しく握る。握り返してからラーニャを思い切り起こした。
「じゃあ、また明日。今日はありがとうございました」
「おう。また明日な」
ラーニャの手を引きながらペコリと小さく頭を下げ、扉を開く。アレンが年相応の唸り声を上げながら座る声を聞きながら扉は閉まった。
「さて、リアを探さないと――って、ずっといたの……?」
扉のすぐ側に、膝を抱えて座っているリアがいた。その目は不貞腐れているようにも、安心しているようにも見える。
カトリンは初めてリアの年相応な顔を見た。
「……『光の勇者』なんて……いなかったんですね……」
「リア……?」
「……何でもありません。もう大丈夫です。明日は、ちゃんとあの人の顔を見れます」
立ち上がったリアの顔は、またあの笑顔に戻っていた。
・・・・・
朝陽が窓から鋭い角度で滑り込んでくる。カトリンは顔が乾いて痛みを感じていた。
毛羽立った毛布をズラすと、同じ毛布に包まっていたラーニャが唸る。
アレンに紹介されたこの家に住む老婆は、できる限りを尽くしてくれた。それが、三人に対して二枚の粗末な毛布だった。リアは少し躊躇しながら毛布を受け取ったが、小さな毛布に困惑していたので、カトリンとラーニャが一緒に毛布に包まることにしたのだ。
リアは毛布を綺麗に畳んで隣に置き、硬い地面にそのまま寝転がっている。流石に冒険者としてどこでも寝られるようにはなっていたらしいが、皮膚をチクチクと刺激する毛布にはどうにも馴染めなかったらしい。
「……ラーニャ、リア、朝だよ」
遠くで鶏が鳴いた。
「また来なさいね。アレンのお客さんならいつでも歓迎だからね。若い子と一つ屋根の下に寝るなんて、子供が帰ってきたみたいで嬉しかったわ」
背中の曲がった老婆は、皺深い顔をさらに皺くちゃにして笑った。
「いえ……突然押しかけたのに泊めてくださってありがとう」
カトリンがにこやかに笑顔を返す。
「気にしちゃダメよ。あなたたちが来てくれて本当に嬉しかったんだから。じゃあまたね。アレンをよろしくね」
「お婆さん、またね!」
ラーニャが大きく手を振る。
三人はアレンの家までの、ほんの少しの間を歩く。
「……あまり眠れませんでした」
リアの目の下には薄っすらと隈ができている。日の光を手のひらで避けていた。
「私は眠れたけどなぁ。ラーニャは?」
「ん〜? う〜ん、私はいつも眠いよ?」
「そうなの? なんで?」
「なんかイヤな夢見るんだよね。だから、うまく寝れなくていつも眠いの」
「……ふ〜ん、大丈夫?」
「うん! もう慣れた!」
「それならいいんだけど……無理しないでね?」
「ムリなんかしたことないよ?」
ラーニャが小首を傾げる。
もうその頃には、アレンの家の扉まで辿り着いていた。
カトリンが扉をノックする。
「アレンさん、カトリンです」
リアの肩が少し緊張したのが横目に見える。扉の中から小さな金属音が聞こえ、続けて扉に足音が近付いてきた。
扉が開く。
「よう、朝早いな」
アレンは昨日とは違った。
薄汚れた服は着替え、着古してあるものの頑丈そうな軽装の鎧を纏っている。腰にはあの剣と、小さなダガー。
鉄の臭いが漂う。
カトリンは直感した。これは殺し合いをしてきた者の姿だ。
短いヒゲで覆われた顎を撫でたアレンは不敵に笑う。
「俺の方は準備万端だぜ。ラーニャは?」
「……!」
ラーニャの口角がみるみるうちに吊り上がる。目がキラキラと輝き出した。
「私も準備バンタン!」
「よし……じゃあ、そうだな……。カトリンか、あとは……君はリアだったかな? どっちかが俺のサポートをしてくれないか」
「え? 一対一じゃないんですか?」
アレンは冗談めかして片眉を上げた。
「まさか。俺が一人でこいつに勝てると思うか? ムリムリ。まして俺はもう引退してるんだぜ」
引退しているなんていう言葉を、カトリンは信じられない。だって剣は、驚くほど綺麗に手入れされていた。
「私は、ラーニャさんの戦いにはついていけません。カトリンさんに頼みます」
リアが一歩後ろに下がった。声が硬い。
「私……?」
カトリンは呟く。『光の勇者』と共闘など、自分に務まるとは思えなかった。
それこそ、サラのような天才でなければ無理だ。
「私には……」
「よし、じゃあ決まりだな!」
「決まり〜!」
アレンとラーニャだけが意気揚々と歩き始める。
「あっちでやろう。あそこなら誰もいない。俺の鍛錬場だ」
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
「……? どうした?」
「私には務まりません……」
「なんでだ?」
「わ、私はサラさんみたいに天才じゃないから……!」
「でも、君はアルディオスを首席で卒業したんだろ? それに、最年少で宮廷魔導師の部門長らしいじゃないか。俺から見れば、君も十分天才に見えるぜ」
「でも……」
食い下がろうとするカトリンは必死だった。アレンの背中を守ることは、カトリンにとってあまりにも重責が過ぎる。
「カトリン、早く!」
ラーニャがカトリンの背中に回ると、そのまま押した。カトリンはタタラを踏んで、無理やり前へ進まされる。
「カトリンさん」
カトリンはリアに呼ばれて振り向いた。リアは、笑顔を浮かべていた。
「あなたは、ちゃんと天才だと思います」
リアは粘着質な笑顔を浮かべていた。
気のせいかもしれない。だが、カトリンの耳には、巧妙に隠された妬みが含まれているような気がしていた。
カトリンは、そこからもう何も言えなくなった。
「じゃあルールの確認だな」
アレンが鞘で地面に線を引く。
「ここが開始位置だ。ラーニャ、そこに立って」
「おっけー!」
たたた、と走って爪先を念入りに線に合わせるラーニャを、アレンは笑って見ている。
「そんなにちゃんと合わせなくていいよ。何となくでいい、何となくで」
そう言いながら、アレンはきちんと爪先を線に合わせて立った。アレンとラーニャの立ち位置は、十歩ほど離れているだろうか。
カトリンはアレンの後ろにおずおずと立った。
「殺しは無し。目潰しと、関節技と、あとは……」
アレンは眉を吊り上げてから、ラーニャ、リア、カトリンと順番に見ていく。
「……俺だけか。悪いが、俺の股間には攻撃しないでくれ。分かったな?」
「多いよ〜……」
「ははは、これから楽しく戦おうって言うんだぜ? 治らない傷が残ったら楽しくないだろ?」
「……たしかに。そうだね、ルール守る!」
「その意気だ。……さてと」
麻紐で鞘と剣を固定する。刃はその中に固く仕舞われたままだ。
「その他は、まあ、楽しくやろう。カトリンもな」
「は、はい……」
「リア……さん」
「なぜ私だけそう呼ぶのですか?」
リアが硬い声で端的に言葉を返す。
「いや、ちょっと……うぅん、まあいいか……リア。開始の合図をしてくれないか?」
「私でいいのですか?」
「ああ、俺たち全員に分かるように掛け声、頼むよ」
「……承知しました。では、全員位置に付いてください」
ラーニャがトントンと爪先で地面を叩いてから、今にも走り出しそうなポーズで停止する。バチバチと青い電気を体に纏っていた。
アレンはゆっくりと足を開いて、剣を構えながら油断なく腰を落とした。その体は薄ぼんやりと光っているように見えた。
二人とも笑っていた。
カトリンも慌てて魔力を集中させる。
「では行きます。――用意……はじめ!」
ラーニャの姿が、青い雷を残して掻き消える。
次の瞬間、アレンの剣は、ラーニャが振り下ろした拳を叩き落としていた。




