善と悪
痛む体を引きずるようにして、夜を進む。高い城壁も無ければ、門番もいない。発展を優先し、守りを疎かにし続けた、愚かな、そして愛するかつての我が国。
今や国旗すら塗り替えられ、ダブージ教の神殿だった場所には、トラス教の旗が揺れている。
「……俺たちの恨み……思い知らせてやるからな……みんな……」
ヴィートは足元に座る魔狼、ホワイトホーンを見下ろす。彼は静かにヴィートの指示を待っていた。
フクロウがどこかで鳴いた。
ふっと顔から力が抜け、緩んだ頬をホワイトホーンが見つめている。
「……俺と、お前に。復讐の神ミュロデクのご加護があらんことを」
ホワイトホーンは返事をしない。変わらぬ瞳でヴィートを見つめるだけだった。
たった一匹の同志。名前のないただの魔物が、今では頼もしい友に見えてくる。
「……行こうか」
目指すは、トラス教の教会。
「俺たちがまだいるってことを、知らせてやるんだ。帝国と、トラス教に」
ヴィートは一歩進む。進む度に、膝が笑う。
「……やってくれ」
ホワイトホーンとの繋がりを感じる。まるでもう一つの神経が繋がったような感覚。
ホワイトホーンが、ヴィートの隣で遠吠えした。夜を裂く高い声が、街中に響きわたる。
ヴィートの口角が自然と上がっていく。これこそ反撃の狼煙だ。ここからダブージ教とカランビス王国がまた立ち上がる。
ホワイトホーンの遠吠えに呼応するように、街の外から遠吠えがいくつも響く。石畳を叩く爪の音。
「手始めにあの旗を燃やしてくれ」
右手でトラス教の旗を指さした。ホワイトホーンはヴィートの指を辿り、視線が旗に行き着く。
「……いけるか?」
ゔぅ、と小さな唸り声。同時に白い角が鈍く光り始める。
「できるだけ派手にいこう。教会関係者が飛び出てくるくらいに……そいつらを全員殺して、俺たちの復讐はやっと始まるんだ」
光が角に収束していく。
一瞬、ホワイトホーンとヴィートの視線が交差する。ヴィートはニヤリと笑った。
「……やれ!」
角に集まった光が炎の球となり、飛び出る。ホワイトホーンの首はその反作用を受け、ガクンと揺れた。
炎の球が旗に辿り着く。隠れ続けてきた数年がやっと報われる。
ヴィートは思わず笑っていた。
だがその瞬間、昂っていた炎が、あっという間に鎮火した。初めからそこに無かったかのように、夜の闇が再び戻ってくる。
「……は?」
情けない声を上げたヴィートの真横で、ホワイトホーンが姿勢を低くした。
敵が近くにいるみたいじゃないか。そう思った瞬間、ヴィートの耳に声が届く。
「ねぇ、カトリン。やっぱり殺しといた方が良かったでしょ?」
聞いたことのある声。昼間に助けてくれた女たちの中でも、エルフの女の声。
どこから聞こえるのかちっとも分からない。慌てて首を振るヴィートが、月明かりに照らされて教会の屋根に座るラーニャを見つけるまでに、そう時間はかからなかった。
「……まだ分からないでしょ、ラーニャ」
教会の影から歩いて出てきたカトリンを、ヴィートが睨みつける。ホワイトホーンも唸っていた。
「何しに来た……!」
「……あなたを止めに来た」
カトリンは眉を八の字にしながら小さく言った。それが無性に腹立たしい。
「私は正義なんて語る気はない。でも、あなたの行為を見ているだけなんて、それはできない」
「……所詮はお前も帝国の人間。帝国に正義なんて語れないよな。だが俺は、神に誓って俺の行いを正義だと断言できる!」
黙って悲しげに見つめてくるカトリンの視線がヴィートに刺さる。ホワイトホーンが指示を待っているのが分かる。
「……言い返せない程度の正義感なら、止めるなよ。やるぞ、相棒。もう一回だ。……次は、全部だ」
相棒。隣で唸るホワイトホーンをそう呼んだ瞬間、なぜか異様にしっくり来た。
ホワイトホーンがまた遠吠えする。
「……そこで見とけよ、帝国の犬!」
ヴィートの後ろへ、魔狼たちが暗闇から飛び出してくる。ホワイトホーンの指示に従って、いつでも敵に飛びかかれるように。
「これが、ミュロデクの加護だ」
低い声が、闇に沈んでいくようだった。
・・・・・
〜四時間前〜
カトリンは宿の部屋で一人、机に向かっていた。ラーニャの魔法の分析、これまで集めた魔国の史料の整理、宮廷魔導師としての新たな魔法の開発。
やるべきことは沢山あるはずだった。
だが、カトリンの手は遅々として進まなかった。何がおかしいのかは分かっている。
見ないふりをしたはずの、ヴィートの目。ラーニャから言われた『殺したほうが良かった』という言葉。
どれもがカトリンに刺さって、返しがついているように抜けてくれなかった。
「あ〜……」
机に肘をつき、頭を抱える。
こんな風に唸っていては、まるでサラのようではないか。あの呆けた顔が頭に浮かんで、全てがどうでも良くなってくる。
あの人も言っていたはずだ。
休まなければ、何も上手くいかない。
カトリンはおもむろに立ち上がってベッドへ向かう。体を擲ってみれば、ベッドはぼすんと溜め込んだ空気を吐きながらカトリンを受け入れてくれた。
「……このまま沈んじゃわないかな……」
泥のなかに沈むような体なのに、頭だけは必死に這い上がろうとする。なんと煩わしいことだろう。
サラが開発した睡眠魔法を使ってしまおうか。
そんな考えが頭をよぎる。だが、サラが用意してくれたスクロールはリュックの奥底にしまわれたままだった。
横目で机の横に投げ捨てられたリュックを見る。リュックがこちらに来てくれればいいのに。
ヴィートの目が脳裏にちらつく。爛々と輝く、何かを企んでいる目。あれは、見逃すべきではないと分かっている。
「……だけど……人は変われるんだもん……」
誰にでもなく独り言ちた。
そうだ。人は変われる。
かつて悪逆非道と言われた悪魔族の、その将軍であったリリットが、わざわざ不慣れな茶まで用意してくれたのだ。
あの温かいカップを持ったときの掌の、じんわりと緩んでいく感覚は、今でも忘れられない。
だったら人に期待しないでどうするのか。それこそ、リリットへの裏切りではないのか。
何も知らず、ただ純粋にリリットを信じていたあの頃とは、カトリンは違う。リリットの悪い面も知っている。リリットは人間を食べていた。それは、唾棄すべき悪だ。
だが、あの人はただ生きようとしていただけ。悪であることと仕方のないことは同時に存在することだってあるのだ。
そしてなにより、リリットはカトリンを育ててくれた。人間に、一族を、国を、全てを滅ぼされながら、しかし人間のカトリンを育て上げたのだ。
それは、悪は善に変われることの何よりの証明のはずだった。
カトリンは顔をベッドのシーツに押し付ける。香水の爽やかな匂いで隠された、奥に染み付く汗の匂いが、ふわりと漂う。
顔を上げる気にはならなかった。
もし。
カトリンの中に、ずっと考えないようにしていた可能性がよぎる。
もし、リリットは何も変わっていなかったとしたら?
リリットは悪のまま、単なる気まぐれでカトリンを育てたのだとしたら?
全てが壮大で甘い勘違いであったとしたら?
「……違う……違うよ……」
シーツに押し付けた顔を、ぐりぐりと更に深く潜るように擦り付ける。
「師匠は……」
その先は言葉にならなかった。
リリットとの別れの直前、最後に見た赤い目が、フラッシュバックする。優しく、悲しく、常にカトリンをつねり上げる記憶。
リリットへの思いは間違いだったのだろうか。
ため息がシーツの中に吸い込まれていき、生ぬるい湿度が顔を湿らせる。
「……ダメ……私が証明するんだ……」
リリットが、悪魔ではなかったことを。
だがその声に力はなかった。
アルディオスで必死に勉強して、魔法を学び、歴史を学んだ。それに七年も費やし、やっと卒業して、宮廷魔導師になった。
全てはリリットが、あの優しい師匠が、この世に存在した証拠を残すため。極悪非道のヴァスラディ将軍ではなく、たった一人の愛しい師匠は、確かにいたのだと、全ての人に証明したかった。
村人に壊されていく小屋の光景が今でも瞼の裏に焼き付いている。卒業後に一度帰った時には、もうそこには何も無かった。一緒に薪割りをした庭も、お茶を淹れてくれた椅子と机も、修行で荒れていた芝も、全てが痕跡ごと消えていた。
カトリンは、村の英雄に成り果てていた。
「……会いたい……」
ぽつりと、シーツの中へ溶けていく。
リリットなら、何か答えをくれるのではないか。あるいは、全てが間違いだと否定してほしかった。リリット自ら、自分は悪であると宣言してくれれば、どれほど楽になるだろう。
いや、そんな答えは望んでいない。リリットは善で無ければいけない。そうでなければ、あの三年間は何だったと言うのだ。
「……」
今では誰も答えをくれない。だから信じてしまう。信じたくなる。信じるしかない。
誰もが変われるのだと。
その時、コンコンと控えめに扉がノックされた。カトリンは重い頭をゆっくりと扉に向けた。
こういうノックを、ラーニャはしない。ならばリアだろう。
「……どうぞ」
思っていたよりも声が小さかった。
聞こえたか聞こえなかったか、扉はそっと開き、リアが顔を覗かせた。ベッドに突っ伏しているカトリンを見て、ただでさえ大きく丸い目を、さらに大きく見開いた。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫。どうかしたの?」
リアとラーニャが連れ立って部屋を出ていったのは、宿に帰ってきてからすぐのことだった。リアが半ば無理やりラーニャの腕を引っ張っていったのだ。
「その……ヴィートさんのことでラーニャさんとお話をしていたんですが……」
「……」
やはり。
リアはカトリンの判断を信じていなかった。
「ラーニャさんは戦いたいとしか言わなかったので勝手に結論付けたんですが、やっぱり教会を守りに行きませんか……? 念のために、です」
すぐには答えられなかった。視線が交差する。互いに気まずい沈黙が流れる。
「……リアはさ」
カトリンの口は、脳を介さずに動いていた。制御しようとも思わなかった。
「人を信じたいと思ったこと、ないの?」
我ながらその言葉に棘があると思ったのは、言ってから数瞬経ってからのことだった。
慌てて上半身を起こし、両手を振る。
「あ、違う……責めてるんじゃなくて……!」
リアの表情は変わっていなかった。自分一人だけ慌てていることに、急に気恥ずかしさが募ってくる。
リアは唇をさっと舐めてから、潤いを取り戻した唇で言葉を紡ぎ始めた。
「信じたいですよ」
その顔は、寂しそうな笑顔だった。
「……でも、自分を過信して、他人を信じたせいで、死に別れたんです。だから私は自分にできることをやりたいし、自分のせいで人が死ぬなんて許せません」
「……」
何も言い返せなかった。言い返すべき言葉じゃなかった。
ずるい。
カトリンの頭のなかに、その言葉が浮かんだ。それを言われたら、自分が間違っているような気がしてくる。
「それに、念のため、です。確信があるわけではありません。ラーニャさんにも私にも。……私はそこまで戦闘能力は高くないので、もし何かあった場合にはお二人に任せることになりますが……」
「何も……無いと思うよ」
何の根拠もない憶測だった。これが研究室だったらきっと教授から怒られている。
いや、もう怒られるような身分ではないか。
「そうですね。だから『念のため』なんです。……もしカトリンさんが行かないなら、ラーニャさんは行く気なので、私とラーニャさんの二人で行きますが……どうしますか?」
カトリンの唇はきゅっと結ばれたままだった。目線があちこちに飛び、迷っているのが丸分かりだった。まるで迷子になった幼子のようだった。
やがて、視線がリアに固定されると、瞼を強く閉じたまま言った。
「……私も……行く」
何も無いことを願って教会に張り込んでいたカトリンの期待が裏切られたのは、それからしばらくも経たないうちだった。




