復讐
走った先の森の中に、木々を引っこ抜いて作られたのであろう広場があった。隅には小さな小屋が佇んでいる。
カトリンが近くにあった巨木の後ろに隠れると、二人も同じようにカトリンの後ろに隠れた。
相変わらず助けを求める男の声は辺りに響いている。
「おい! いないのか!? 頼む!」
返事はせずに広場を覗き込む。小屋の扉には、見たことのない紋様が刻まれていた。
「何あれ……?」
蛇が何匹も絡まり合い、粘つく液体が零れ落ちる様子を象る錆びたエンブレムには、黒ずんだ血が浴びせられて乾いている。
「何かの宗教……? リア、何か知ってる?」
隣で呼吸を整えているリアに、カトリンは目も向けずに聞く。血の跡があるということは、油断してはならないということだ。
「分かりません。この辺りのものか……あるいは……」
カトリンは、リアが小さく歯ぎしりするのを聞いた。思わず横目で見ると、リアの顔には心臓を掻き毟るような憎しみが映り込んでいる。
「どうしたの……?」
「……っ!」
リアは肩を驚かせた拍子に息を吸った。喉から高く掠れた音が鳴る。
そのままリアは軽く自分の頬を両手で包み込むように叩いた。
「……楽しめ……大丈夫……分かってる、分かってるから……アドラ……」
自分に言い聞かせるように呟いている。後ろにいるラーニャも怪訝な顔でリアを見ていた。
「どうしたの……?」
「あ……いえ……な、何でもありません……」
絞り出すように言ったあと、リアも木の陰から顔を覗かせる。
「頼むよ! もう死にそうなんだ……!」
声は悲痛さを帯び始めている。泣いているのだろうか。
「……カトリンさん、何か分かりますか?」
冷静さを取り戻したリアが囁きながら聞いてきた。
「魔力の残滓が残ってる。あの小屋からだね。まだ魔狼がいるのか……それとも、他の魔物か……」
「ってことは、戦う?」
ラーニャが嬉々としてカトリンの両肩に手を置きながら、カトリンの頭の上に顎を乗せて木陰から小屋を覗いた。カトリンはわずかに顔をしかめたが、何も言わずに受け入れている。
「うん、多分ね。殺していいのは魔物だけ。分かった?」
「分かった!」
「でももうちょっと待って。先に様子を伺わないと……こっそり行くよ。準備はいいね? 突然戦闘になるかもしれない」
「そしたら殺すよ」
ラーニャが何の躊躇いもなく言い切る。カトリンは眉をひそめたが、ここまでのラーニャは何の問題もなく言うことを聞いてくれていた。
「まあ……とりあえず今はそれでいいや。リアは?」
「私も問題ありません。先に私が行ってもいいですか?」
「どうして? 危ないよ? 私かラーニャが先に行ったほうが――」
「大丈夫です。私に行かせてください」
リアは強く言い切った。そしてカトリンの返事も聞かずに、木陰から出て小屋へと向かっていく。
「あ……ちょっと……! ……ラーニャ、行こう!」
「うん!」
カトリンとラーニャもその後に続く。リアは足が逸るようで、どんどんと先へ行ってしまう。
「リア……! 危ないって……!」
「大丈夫です」
肩を掴むカトリンの手を避ける。リアの足取りは変わらない。
カトリンはため息をついてラーニャに顔を向けた。
「……ラーニャ、リアが危なかったら真っ先に助けてあげて。できそう?」
「できるよ」
ラーニャが軽く返事をしたころには、リアはもう扉の前に着いていた。
「おい……! 本当にいないのか……!?」
声が小さく響く。それはもはや誰かに届けようとは考えていない声だった。
リアは腰に佩いたレイピアを抜くと右手に持ち、左手でドアノブに手をかける。
中に魔物がいる可能性が高いのだから蹴り破るべきだろう。行儀良く扉を開ければ中の魔物に襲われた時の対処が遅れる。
カトリンがそう言おうと思った時には、リアはもう扉を開けていた。
内開きの扉がゆっくりと開いていき、リアは扉の隙間から中を覗く。同時に息を呑む音が聞こえる。
「……! き、来てくれたのか……!」
今にも壊れそうなベッドに、汚れたシーツ。その上に男が寝ていた。
体中に汚れた包帯。両足の包帯は血で黒く変色し、左腕に至っては肩から先が無かった。
悪臭が漂う部屋の中、男の様子を見た瞬間に、リアは男に詰め寄っていく。カトリンは慌てて部屋の中に入り、扉で隠れていた死角を確認する。
「……その腕は何……? どこでやられたの……! あなたは眷属ですか……!」
部屋の隅を見たカトリンの目に飛び込んできたのは、一匹の魔狼だった。しかも、ホワイトホーン――群れのボスであるはずの魔狼が、部屋の隅で丸まっている。しかし闖入者の登場に顔を上げると、牙を剥いて唸り始めていた。
「うぇ……くさい……」
鼻を摘みながら部屋にラーニャも入ってくる。
カトリンはラーニャの手を取ると、ホワイトホーンから距離を取る。突然手を握られたラーニャは困惑しながら大人しくカトリンに従った。
「なに……?」
「ホワイトホーン……!」
「戦っていい?」
ラーニャが顔を綻ばせた。だがホワイトホーンは襲ってこない。牙を剥いて唸るだけだった。
ラーニャはカトリンの顔を見ながら、返事を待っている。だがカトリンはすぐには返事できなかった。
その間にもリアは男の胸ぐらを掴み上げ、ぐらぐらと揺らしている。
「あなたは何なんですか……?」
「何言ってんだよ……!? 眷属……? なんだよそれ……!」
「とぼけないでください。扉のエンブレム、見ましたよ。あれは何ですか?」
男はほとんど泣きそうになっている。
「ちょっとリア……! 怪我人だよ」
カトリンはリアの手を握る。
「ねえカトリン、あの魔狼と戦っていい?」
「ダメ。ちょっと待ってて」
思わず低い声が出てしまった。しまった、と思ったカトリンがラーニャを見たときには、ラーニャは叱られた子供のように悲しげに驚いていた。
「……ごめんね、ラーニャ。後でちゃんと説明するから――とりあえず、リアは落ち着いて」
呼吸が乱れているリアの手を強く引っ張る。リアの力は案外弱かったものの、その血走った目が男から離されることはなかった。
「……な、なんなんだよ、アンタ……!」
男は怯えた目でリアを見た。リアは何も言わなかった。
代わりにカトリンができる限りトーンを抑えて男に聞く。
「とりあえず、あの魔狼は何? 教えて」
「あ……ああ。……アレは、俺の言うことを聞くように俺が操ってるんだよ。俺の命令はよく聞くから今はあそこで待機してる……」
「操ってる? どういうこと?」
「……呪術、らしい。この腕と引き換えに、アイツを操る権限を得たって言えばいいのかな……仕組みはよく分からん……」
呪術、という単語を聞いた瞬間に、リアはカトリンの手を振り払ってレイピアを男の首に突きつける。男の喉が鳴る。
「……やはり、眷属ですね?」
「だ、だから何だよそれ……! 知らないよ……! 俺はやれって言われたからやっただけだよ……!」
レイピアを持つリアの手首を抑え、カトリンはリアを後ろに押す。リアは理解できないという風に眉を寄せた。
「カトリンさん、何ですかさっきから……!」
「それはこっちのセリフ。話が拗れるから、一旦外にいて」
「ダメです! 眷属には聞きたいことが山程……!」
「いいから。ラーニャも、外に出といてくれる? 二人で一緒に近くにいて」
騒ぐリアを無視してラーニャに顔を向ける。リアの歯ぎしりの音が聞こえる。
まだ悲しげな顔をしたままのラーニャは、カトリンの顔を恐る恐る上目遣いで見た。
「……でも、魔物いるよ……?」
ちらりと横目で魔狼を見る。魔狼はいつの間にか牙をしまっているが、いつでも立ち上がれるように準備をしているように見えた。
「ホワイトホーン一匹くらいなら……多分私一人でも……大丈夫なはず。もし危なかったら声かけるから、すぐに助けに来てくれる?」
「うん……」
カトリンは顔を柔らかく微笑せてから、ラーニャの肩に手を置いた。
「ラーニャ、あなたが頼りだからね。リアを見ておいてね」
「……! ……うん!」
ラーニャの笑顔が戻ったことを確認してから、リアの背中を押す。リアはまだレイピアを抜いたままカトリンを冷たい目で睨んでいた。
「ダメです! そいつは……そいつは……!」
「ラーニャ、リアを連れて行ってあげて。あ、怪我はさせないでね」
「うん、分かった!」
暴れ始めたリアを、素早くラーニャが羽交い締めにする。金切り声をあげながら暴れるリアは、しかしラーニャには敵わずに外へと引きずられていった。
「な、何なんだよあの女……」
男の声が、悪臭漂う小屋のなかに投げられた。
・・・・・
二人が外に行ったあと、カトリンは小さくため息をついた。男は屠畜される直前の豚のような目で扉を見つめていた。
鼻が慣れてきている。悪臭は悪臭だが、もはや不快感はない。
「……で、話を聞きたいんだけど」
「わ、分かった……でも乱暴はやめてくれよ……? 体中痛いんだ……」
男は顔をしかめながら体中の力を抜き、黄ばんだ枕に頭を任せた。
「まず、その魔狼について聞きたい。魔法に他者を操るようなものは無い。少なくとも私が知ってる限りはね。さっき『呪術』って言ってたよね?」
魔狼はカトリンから目を離さず、部屋の隅を陣取っていた。
「教えてもらったんだよ……」
「誰に?」
「知らん……仲間が誰かから教わったって……」
「仲間がいたの?」
「あ、ああ……」
男は目を強く閉じる。目の辺りが皺だらけになっていた。
「死んじまった……! みんな、死んじまった……!」
右手で頭を抱える。左肩も頭を抱えようと動いていたが、肩から先には何も無い。断面は汚れた包帯で隠れている。
痛みに顔を歪ませているが、それでも体を震えさせる。
「落ち着いて……水飲む?」
「……すまん。飲む」
「口開けて」
「……は?」
顔を歪めたまま薄っすらと目を開け、男はカトリンを見上げる。だが詳しく聞く気力も体力も無いようで、震える口を開けた。唇は渇き、ヒビ割れが痛々しい。乾いて白くなり始めた舌が僅かに見える。
カトリンは男の口元に手をやると、魔力を掌に集中させる。
「ゆっくり……ゆっくりね……」
カトリンの手から水が溢れる。ただの魔力の放出。魔法ではない。
ちょろちょろと掌から溢れた水が、男の口に吸い込まれていく。一瞬驚いて目を見開いた男は、水の感触に気付いたらしくゴクゴクと飲み出した。
男の喉仏が五回ほど動いてから、カトリンは魔力の放出を止めた。手についた水を払う。
「まだ飲む?」
「……いや……ありがとう……あんた、魔法使いか……?」
「うん。宮廷魔導師」
「……! 帝国の……宮廷魔導師か……?」
途端に男の目に敵意が宿るが、すぐに霧散していってしまう。
「いや……あんたは命の恩人だ……」
カトリンは目を細めた。この男は、帝国に恨みがあるのだろう。
帝国は恨まれるようなことばかりしている。この大陸にあったはずの数多くの国を滅ぼし、支配しているのだから。
だが現地の文化を重視することで、反発を抑えているはずだった。そこから零れ落ちてしまったのが、この男なのだろうか。
「……じゃあ話を続けるんだけど、あなたは――あなたたちは何?」
「……ダブージ教って、聞いたことないか?」
「ああ……確か、西部の宗教だっけ?」
「そうだ……俺たちは、ダブージ教徒だ。さっきの女がエンブレムがどうとか聞いてきてたな……。あれは、復讐の神の紋だ」
「復讐……?」
男の目に鋭さが宿る。体には力が入っていないが、目だけはカトリンをしっかりと捉えていた。カトリンは真正面からその視線を受け止める。
「……俺たちの神を悪だと言ったトラス教に、神の裁きを与えるためだ」
トラス教。帝国の根幹を作る教えだ。
唯一神サヴクィを信仰し、その教えを各地へと広めている。そして、帝国の侵略と同時に布教活動を行い、教化してまわっている者たち。
だが他宗教を弾圧しているという話は聞かない。むしろ共存を唱えていたはずだ。
「トラス教は、他宗教を尊重してるって聞いてるけど」
「……カランビス王国が、俺たちの教えの総本山だった。でも、王家が帝国に従わなかった。だから、王国ごとダブージ教も……」
「なるほどね……」
カトリンは顎を指先で摘んで天井を見上げた。
「それって、多分教会のせいじゃないよ。帝国が利用してるだけ」
「……んなことはどうでもいい。俺たちは生きてるんだ。……いや、生きてた。だから教会に思い知らせてやらなきゃいけなかったんだ――」
男はまた目を閉じた。息を吸ってからまた目を開く。視線はカトリンには向かない。
「――俺らには神がついてるって」
「そっか」
カトリンは極めて軽く返事をした。
男は眉をひそめたが、カトリンは気にしなかった。
「私は神の議論をしに来たんじゃないんだよ。したいのは状況の確認」
「……そうかよ」
「あなたはダブージ教徒で、呪術を使って魔狼を操ってるってことでいいよね?」
「……ああ」
「それで、他の仲間は……呪術が失敗したの?」
「……代償は腕一本で良いって言われたんだ。だからみんなで腕を切って……でも成功したのは俺だけ……。みんな魔狼に食われちまった」
男は力なく笑った。
「俺だけはそこの魔狼に助けられたんだ。俺を助けた後、アイツの角が白くなった。多分、自分が群れのボスだって認識になったんだろうな。俺とアイツだけの群れだ」
「そのあとは?」
「……ここに帰ってきて、動けなくなった。足を噛まれたせいで」
「リアが言ってた、『眷属』っていうのは知ってる?」
「知らん」
男は長く、細く、息を吐く。ほとんど息で言葉を作り出す。
「……疲れた」
「……この後はどうしたい? トラス教の教会に手を出す気なら、素直に助けてあげるわけにはいかないんだけど」
「真正面から言うのかよ、それ」
呆れたように言った男は、魔狼を見た。魔狼はまだカトリンを見つめている。
「できれば助けてあげたいとは思ってる」
「……なんでだ? あんたに利益ないだろ」
「どんな悪人にも、理由があるでしょ。理由があるなら人は変われる。変われるって知ってるもん」
カトリンの手が、首に巻いた黒いスカーフを触る。男には分からないくらいに、しかしカトリン自身にはしっかりと分かるくらいに、声が震えていた。
リリットも、人を喰っていた悪人だ。でも、カトリンの師匠だ。それは確かに良いことだった。そのはずだ。
「俺が変われってことか……?」
「うん」
頷く。
「……それで助けてくれるのか?」
「うん」
「……じゃあ……そうだな……分かった。もうトラス教には手を出さない」
随分あっさりと男はそう言った。一瞬止まったカトリンは、すぐに話を続ける。
「良かった。じゃあ、とりあえず街まであなたを運ぶね。名前は?」
「……ヴィート」
「分かった、ヴィート。ちょっと待っててね。すぐに外の二人呼んでくるから」
カトリンは扉の方へ目を向けた。
そのせいで見ていなかった。ヴィートの目が、爛々と輝いた瞬間を。
あるいは、わざと見逃したのかもしれない。
黒いスカーフが、カトリンの首を締め付けているような気がしてならなかった。




