悪魔
目を覚ました。空気は乾き切り、唇は割れそうだった。
リリットは目を擦りながら起き上がる。どれくらいぶりだろう。昔の夢を見たのは。
「魔王様……」
あの時、何を言おうとしたのだろうか。あるいは、何も言おうとしなかったのか。今となっては、誰にも分からなかった。
リリットは廃屋を出て、空を仰いだ。曇り空はむしろ心地よいくらいの気温をもたらしている。
目隠しの黒い包帯を巻き直し、街道沿いに歩き始めた。目的地は、正トラス教会の聖地の一つ、『魔王の封印場』。
「確か……この道をまっすぐ……」
リリットは迷いなく歩みを進めた。
数時間後、小さな町が見え始めた。町というよりも教会の関係者だけが住む修行場のようだった。きっとあそこだろう。
腹の虫が鳴っていた。カトリンと別れてから、数日。しばらく何も口にしていない。だが、もう人を食う気にはなれなかった。
町の入り口には門番が立っていた。彼らはリリットを発見すると、武器を構えこそしないが警戒したように話しかけてきた。
「何者だ。何の用か?」
「ここは何?」
「先に名乗れ。何の用だ」
リリットはため息をついた。門番は苛ついたように武器を構えようとするが、リリットはそれを手で制する。
「私はリリット。魔王の封印を見に来た。……これでいい?」
「……祈祷者か? 盲目なのに、一人で来たのか?」
「やりようはある」
門番は偉そうに鼻息を吐いた。
「……ふん。この道を真っ直ぐ行け」
どうせ盲目には何もできないと思ったのだろう。リリットとしてはむしろ好都合だった。
リリットは堂々と門を通り、真っ直ぐ歩いていく。リリットの頭のなかには、それまでの記憶が渦巻いている。アガルドリアの情けない顔、戦友となったあとの顔、疲れた王の顔、殺意に満ちた勇者たちの顔。ふざけた調子のサラの顔、下らないはずだったカトリンの笑った顔。
「……すっかり、あの子に絆されたな……情けない……」
やがて見えてきたのは、鎖で雁字搦めにされた、何もない地面だった。側に建てられた碑に「魔王、ここに眠る。二度と巨悪が生まれませんように」と書かれていた。
「魔王様……こんな……何もないところに……」
リリットは膝から崩れ落ちた。そして、ひたすら地面を見つめた。
「……次は、きちんと……」
リリットはそれ以上言葉にしなかった。聞かれてはならない言葉だった。たとえ、すでに魔王が死んでいたとしても。
「おや? 君は?」
背後から声をかけられた。そこには礼服を着た男が数人立っていた。教会関係者だろうか。
「……祈祷……しに来た……」
「そうかそうか。良い心がけだね」
教会の男たちは、胸に手を当てて目を瞑った。そして、口々に呟いた。二度と生まれてきませんように、と。
リリットは乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
「ねぇ」
「……? なんだい?」
「ここに眠っているのは、悪?」
「そうだね。人を脅かす、決して許されてはならない極悪非道の魔王その人だよ。もっとも、その首しか埋まっていないけどね」
「……そう」
リリットはそれだけ聞いて立ち上がった。そして、目隠しの包帯を解いていく。赤い目が男たちを力なく見た。
「……っ! 魔族か……」
教会の男たちは、リリットの目を見て少しだけ驚いた。だが、すぐに落ち着きを取り戻す。
「……種族を聞いてもいいかな? 全ての魔族が魔王に与していたわけではないことは、知っているからね。安心してくれ。君を悪だとは思っていないさ」
「……本当に? 私は悪魔族だよ」
「……!!」
今度こそ、男たちは後ずさりを始めた。
「私は、ヴァスラディ将軍。この名前は知っているでしょう?」
「それは……勇者さまが取り逃がした……最後の将軍の名前……!」
「そう。魔王様に助けてもらった無能の名前」
リリットはそれだけ言うと、懐から何かを取り出した。瓶だった。カラカラと錠剤を取り出す。
「何をする気だ……?」
「……魔王様と、一緒に封印してほしい。この何の意味もないただのパフォーマンス用の鎖でね」
リリットは皮肉げに言いながら鎖に触れ、ジャラジャラと音を鳴らした。そして、錠剤を一気呷ると、その場に座り込んでしまった。
教会の男たちは、リリットから目を離さず、少しずつ離れていった。ある程度離れた後、「衛兵!」と叫ぶ。
「魔王様……綺麗なままで逝きます……。もう置いていかないで……。……次は……次こそは……」
リリットは魔王が埋まっているはずの地面を見つめながら、微笑んでいた。
・・・・・
衛兵が来た時には、魔国の最後の生き残りの命は、とうに尽きていた。
その顔は、穏やかに微笑んだままだった。




