魔王と魔将
矢の雨が降り注ぐ。友軍は次々に刺され、倒れていく。リリットは、必死に飛んでくる矢を破壊し、敵を手刀で貫いていた。
「引くな! 本隊が逃げ切るまで立ち続けろ!」
リリットは必死に叫んだ。だが、気付いたときにはもう一人きりになっていた。
「……くそ!」
敵がリリットをジリジリと囲む。湾曲した剣は、東方の遊牧民族特有の武器だ。彼らの目は、決して逃さない敵意に満ちていた。
リリットは体の力を少し抜いて、部下の死体をちらりと見た。
「……よくやってくれた、みんな。いま私も逝くぞ」
リリットは、手刀を硬め、深く腰を落として息を吐いた。音が遠くなっていく感覚。だが、集中し切る直前、リリットの耳に声が聞こえた。いま最も聞こえてはいけないはずの声が。
「ヴァスラディ隊長殿!」
「……なっ!? なぜあなた様が……っ!」
そこにいたのは、紛れもなく王族の男だった。第五王子アガルドリア。リリットの部下たちは、彼を逃がすために死んだはずだ。なぜ、ここに。
アガルドリアは弱々しい顔で、しかし顔を強張らせながら敵軍を蹴散らし、リリットの隣まで馬で駆けてくる。
「……ぶ、部下を見捨てて俺だけ生き残るなど……できない……っ!」
「……っ!」
リリットのこめかみには青筋が立っていた。
「……あなたは! それをやらねばならない立場でしょう!」
「……そ、それはそうだが……とにかく! 俺はやるのだ!」
「ふざけるな……っ!」
アガルドリアが馬から降りる。敵はアガルドリアを警戒してか、にじり寄るばかりで手を出してはこなかった。
アガルドリアが指を鳴らす。それは王族特有の詠唱法だった。音による詠唱は、王族に伝わる伝統。リリット自身は、何が良いのかと馬鹿にしていたやり方だった。
だが、その音が鳴った瞬間、アガルドリアとリリットを中心に、風が吹き抜けた。その風に当たった人間は、何が起きたか分かっていないようだった。だが、リリットには明確に見えていた。
敵の身体にヒビが入ったのだ。そしてヒビはあっという間に広がり、体全体を覆うと、まるで岩が崩れていくかのように、血を撒き散らしながら崩れ去った。
「……は?」
「……う、上手く行った……! に、逃げるぞ、ヴァスラディ隊長殿……!」
アガルドリアは我先にと馬に跨り、リリットが乗ってくるのを待っていた。
「ですが部下が……!」
遠くの坂を駆け下りてくる敵の増援が見えた。アガルドリアの力がどの程度か未だ把握しきれていない。あれほどの大軍に勝てるだろうか? 少なくともリリット一人では不可能だ。
「……くそったれ……! すまない、みんな……!」
リリットはアガルドリアの後ろに飛び上がり、腰に手を回した。
「行けます……!」
「よし!」
アガルドリアが馬を進める。
リリットは、大軍が迫る足音を聞きながら、部下の死体だけを見つめていた。
・・・・・
敵軍の気配は消えていた。重いほどの湿気が満ちた暗い森の中、隠れるのに都合の良い洞窟が、リリットたちを受け入れていた。
「……」
アガルドリアが火を焚こうとしていた。だが、リリットはその手を止め、首を振った。
「煙で敵に見つかります。それにこの湿気の中取れた枝では火はつきません」
「……そうか。そういうものか」
リリットは力なく腰を下ろした。目線を落とす。アガルドリアの顔を見たくなかった。
「……なぜ、お戻りに?」
「それは、部下を見捨てて逃げるようなことはできないと……」
「あなたが逃げる時間を稼ぐために、私の部下は命を捨てたのです。私の部下は犬死ですか?」
「それは……」
「そもそも。あなたがもっと早く前線に立っていれば……撤退などする必要もなかったのではありませんか? あの魔法の威力は何ですか?」
リリットの顔が上げられた。その赤い目は、アガルドリアを蝕むかのように睨みつけている。アガルドリアは声を詰まらせた。
「……すまない」
「謝罪など、聞きたくもありません」
リリットは吐き捨てるように言うと、僅かに持っていた保存食を確認し始める。
「……乾燥肉が……多く見積もって二日分。それまでに本隊と合流しなければなりません。そもそも指揮官であるあなたがいない時点で、本隊がどうなっているか想像もつきませんが」
「……信頼できる部下に、託してはあるが……」
「あなたが死んだと思えば、本隊は一体どうするのでしょうね? その様子を見る限り、あなたはあの中で生き残れると思われていなさそうですが」
「それは……」
「……はぁ」
アガルドリアはあまりにも頼りなかった。リリットは、むしろ憐れむような目を向けていた。
「無礼を申しました。申し訳ありません」
「……いや、いいんだ……」
・・・・・
生温かい夜だった。
リリットは死んだ部下の顔を思い出しながら、到底眠れるような気分ではなかった。初めての部下だった。
「アーグ……ジスティラ……ドゥーロ……ニオヴリー……ゼリオグ……」
順番に部下の名前を呼んでいく。
厳しい訓練をし過ぎたかもしれない。最後の夜くらい酒を許可してやればよかった。
「メレオラ……エグヴィ……ディレース……ベギダス……クエンティ……」
笑い声、泣き声、全て聞いた。そして、最期の悲鳴は、戦場の騒音で聞こえなかった。
背後の岩に頭を預け、湿気に満ちた空気を眺めた。いや、何も見ていなかったのかもしれない。リリットの赤い目は、ひたすら開かれているだけだった。
ふいに、視界の隅に震える何かが見えた。
「……?」
リリットは虚ろな目をそちらに向けた。そこには、「寝る」と宣言して横になっていたアガルドリアがいた。
「アガルドリア様……震えているのですか……?」
「……っ! そ、そんなことは……」
寝ようとしていたアガルドリアは、慌てて恥ずかしそうにリリットに手を振った。まさか見られるとは思ってもいなかったのかもしれない。
その目の赤さには、悪魔族の覇気も何も無かった。ただの情けない青年にしか見えなかった。
「……ぷっ……」
リリットは思わず吹き出した。アガルドリアは不思議そうにリリットを見ていた。
「……戦場は、今日が初めてでしたね? 恐ろしかったでしょう。初めては、皆そうなります」
「そうなのか……?」
「ええ、そうです」
「……君もそうだったのか?」
「ええ、そうです」
「……そうか」
アガルドリアは地面を見た。硬い地面だった。
「……すまない」
「……いえ、もういいのです。部下の死は、私の指示が悪かったのです。こちらこそ、理不尽に怒鳴ってしまい申し訳ありませんでした」
アガルドリアはリリットの目を見られなかった。リリットはそんなアガルドリアを見下ろしていた。その目に棘はなかった。
「……君は優しいんだな」
「まさか。王族を怒鳴りつける女が、優しいと?」
「……それもそうだな」
アガルドリアは力なく顔を上げ、リリットの表情を伺いながら微笑んだ。リリットも、アガルドリアと同じように微笑んだ。
アガルドリアは身体を持ち上げると、リリットの隣に背をもたれさせる。
「……さっき呼んでいたのは、君の部下か?」
「……そうです。今日死んだ、私の初めての、大切な部下でした」
「……そうか。ならば、俺も忘れるわけにはいかないな」
「そう言ってくださるのなら、ありがたいことです」
リリットの声は随分と柔らかくなっていた。なぜだろう。アガルドリアは実力はともかく、なよなよとした男のはずだ。だが、もう怒る気にはなれなかった。
「……眠れそうですか?」
「いや、無理だな。人間を食ったことはあっても、殺したのは初めてだ」
「さすがは王族ですね」
「……それは、皮肉か?」
「ええ、まさに皮肉です」
「……ふっ、そうか……」
アガルドリアの肩がリリットの肩に触れた。リリットは避けようとしなかった。
リリットとアガルドリアは、しばらく無言のまま夜の闇を見ていた。ふと、リリットがアガルドリアに話しかける。
「アガルドリア様……あなたの真名を教えていただけますか?」
「……っ!!」
アガルドリアの顔が一気に赤くなる。先端が円錐になったリリットの尻尾が揺れていた。
「……先に、君の真名を……ヴァスラディ隊長……」
「……女に先に言わせるのですか? まあ、いいでしょう。私の真名はリリットです」
「そうか……俺の真名は……」
リリットは、その名を愛おしそうに聞いた。
・・・・・
二人は硬い地面に隣り合って寝転んでいた。二人そろって空を見上げている。
「……俺の真名を知っているのは、父母の他には、君だけだ」
「それは、大層光栄ですね」
「あまり嬉しそうではないな」
「……まさかあなた様とこうなるとは、微塵も思っていませんでしたから」
「はは……俺もそうだよ」
「……戦場がそうさせたのかもしれませんね……不思議なものです」
梟の鳴き声が、寂しそうに夜へ響いていた。
・・・・・
一年後、リリットはアガルドリアの副官として、数多の戦場へと付き従うようになっていた。二人はすっかり歴戦の勇士の顔となり、互いに背中を預け合って戦い続けていた。
だが、夜を共にしたのはあれ以来一度もなかった。
「おい、聞いたかヴァスラディ参謀副官殿?」
「何を?」
ゴシップ好きの同僚がリリットにからかうように聞いてくる。赤い目は同族の証だ。
「次期魔王様の話だよ」
「……まだ聞いてないけど」
「ここだけの話なんだけどな……」
彼はリリットの耳へ囁くように声を落とした。
「次の魔王様は、アガルドリア様らしいぞ」
「……ふーん」
「一番強いからな。古代魔族王の先祖返りとか言われてるらしいぜ」
「……それで? 私にわざわざ言うんだから、それだけじゃないでしょ」
「よく分かってらっしゃる」
男は軽薄そうに笑うと、また一段声を落とした。
「アガルドリア様が魔王様になるってことは、魔王様の隣に立つのは王妃ってことだ」
「何が言いたい?」
「せいぜいがんばりなってこった。はっは〜」
「ふざけるな……」
ため息をつきながら、男が楽しげにフラフラと去っていくのを見送った。だが、リリットの目は力強く細められていた。
・・・・・
リリットはひたすらに手柄を立て、上官にゴマをすり、部下の教育にそれまで以上に手をかけた。ライバルをひたすらに蹴落とし、同僚たちに根回しを繰り返し、強くなるための修行を繰り返した。
そしてアガルドリアが魔王になってから半年後、アガルドリア直々に呼び出された。
謁見の間ではなく、自室に呼び出されたのだ。リリットは念のため身綺麗にして魔王の執務室へ向かった。
扉をノックして「ヴァスラディです」と名乗り、返事を待つ。しばらくして「入れ」と声がかけられ、リリットはゆっくりと扉を開いた。そこには、あのときの情けない青年でも、頼れる戦友でもなく、疲れ切った王がいた。
「……お久しぶりです。やつれましたか?」
「ああ……少しな」
アガルドリアは困ったように笑った。
「それで……今日は何の御用で……?」
「……君に辞令だ。君は今日付けで、将軍になる。『ヴァスラディ将軍』だ。構わないな?」
「それは……」
「俺の隣で俺を守ってくれ」
「……っ! はい。お任せを」
「……ははは、君なら王妃にしろと言ってくるのではないかと思っていたが、無用な心配だったか」
「そこまで恥知らずではありません」
「そうか。実は父上から早く王妃を娶れと言われていてな。君は第一候補だったよ、リリット」
「……!」
「だが」
アガルドリアはリリットが何か言う前に手で制した。
「それは、国が安定してからだ。だから、共に頑張ろう。食料の安定供給が目下の課題だ。人間国家に攻め入ってばかりでは、先細りだからな」
「そう……ですか……」
「そう残念がるな。またいずれ、な」
「……はい、魔王様」
リリットは、力なく頷いた。
・・・・・
その約束が果たされないと知るのは、あの四人に致命傷を負わされてからだった。憎き勇者たち。一人一人は自分より弱いはずなのに、全く敵う気がしなかった。
ぬるりと血が流れ落ち、喉の奥から湧き上がる血を飲み下すこともできない。もう、立てない。そう思ったときに、アガルドリアがやって来た。
「……リリット」
アガルドリアはそれだけ言うと、勇者たちへ視線を戻した。リリットが見たアガルドリアは、それが最後だった。




