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クムルサレアの果てた後  作者: 北里有李
第一章 もう生まれませんように

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魔王と魔将

 矢の雨が降り注ぐ。友軍は次々に刺され、倒れていく。リリットは、必死に飛んでくる矢を破壊し、敵を手刀で貫いていた。


「引くな! 本隊が逃げ切るまで立ち続けろ!」


 リリットは必死に叫んだ。だが、気付いたときにはもう一人きりになっていた。


「……くそ!」


 敵がリリットをジリジリと囲む。湾曲した剣は、東方の遊牧民族特有の武器だ。彼らの目は、決して逃さない敵意に満ちていた。


 リリットは体の力を少し抜いて、部下の死体をちらりと見た。


「……よくやってくれた、みんな。いま私も逝くぞ」


 リリットは、手刀を硬め、深く腰を落として息を吐いた。音が遠くなっていく感覚。だが、集中し切る直前、リリットの耳に声が聞こえた。いま最も聞こえてはいけないはずの声が。


「ヴァスラディ隊長殿!」


「……なっ!? なぜあなた様が……っ!」


 そこにいたのは、紛れもなく王族の男だった。第五王子アガルドリア。リリットの部下たちは、彼を逃がすために死んだはずだ。なぜ、ここに。


 アガルドリアは弱々しい顔で、しかし顔を強張らせながら敵軍を蹴散らし、リリットの隣まで馬で駆けてくる。


「……ぶ、部下を見捨てて俺だけ生き残るなど……できない……っ!」


「……っ!」


 リリットのこめかみには青筋が立っていた。


「……あなたは! それをやらねばならない立場でしょう!」


「……そ、それはそうだが……とにかく! 俺はやるのだ!」


「ふざけるな……っ!」


 アガルドリアが馬から降りる。敵はアガルドリアを警戒してか、にじり寄るばかりで手を出してはこなかった。


 アガルドリアが指を鳴らす。それは王族特有の詠唱法だった。音による詠唱は、王族に伝わる伝統。リリット自身は、何が良いのかと馬鹿にしていたやり方だった。


 だが、その音が鳴った瞬間、アガルドリアとリリットを中心に、風が吹き抜けた。その風に当たった人間は、何が起きたか分かっていないようだった。だが、リリットには明確に見えていた。


 敵の身体にヒビが入ったのだ。そしてヒビはあっという間に広がり、体全体を覆うと、まるで岩が崩れていくかのように、血を撒き散らしながら崩れ去った。


「……は?」


「……う、上手く行った……! に、逃げるぞ、ヴァスラディ隊長殿……!」


 アガルドリアは我先にと馬に跨り、リリットが乗ってくるのを待っていた。


「ですが部下が……!」


 遠くの坂を駆け下りてくる敵の増援が見えた。アガルドリアの力がどの程度か未だ把握しきれていない。あれほどの大軍に勝てるだろうか? 少なくともリリット一人では不可能だ。


「……くそったれ……! すまない、みんな……!」


 リリットはアガルドリアの後ろに飛び上がり、腰に手を回した。


「行けます……!」


「よし!」


 アガルドリアが馬を進める。


 リリットは、大軍が迫る足音を聞きながら、部下の死体だけを見つめていた。



・・・・・



 敵軍の気配は消えていた。重いほどの湿気が満ちた暗い森の中、隠れるのに都合の良い洞窟が、リリットたちを受け入れていた。


「……」


 アガルドリアが火を焚こうとしていた。だが、リリットはその手を止め、首を振った。


「煙で敵に見つかります。それにこの湿気の中取れた枝では火はつきません」


「……そうか。そういうものか」


 リリットは力なく腰を下ろした。目線を落とす。アガルドリアの顔を見たくなかった。


「……なぜ、お戻りに?」


「それは、部下を見捨てて逃げるようなことはできないと……」


「あなたが逃げる時間を稼ぐために、私の部下は命を捨てたのです。私の部下は犬死ですか?」


「それは……」


「そもそも。あなたがもっと早く前線に立っていれば……撤退などする必要もなかったのではありませんか? あの魔法の威力は何ですか?」


 リリットの顔が上げられた。その赤い目は、アガルドリアを蝕むかのように睨みつけている。アガルドリアは声を詰まらせた。


「……すまない」


「謝罪など、聞きたくもありません」


 リリットは吐き捨てるように言うと、僅かに持っていた保存食を確認し始める。


「……乾燥肉が……多く見積もって二日分。それまでに本隊と合流しなければなりません。そもそも指揮官であるあなたがいない時点で、本隊がどうなっているか想像もつきませんが」


「……信頼できる部下に、託してはあるが……」


「あなたが死んだと思えば、本隊は一体どうするのでしょうね? その様子を見る限り、あなたはあの中で生き残れると思われていなさそうですが」


「それは……」


「……はぁ」


 アガルドリアはあまりにも頼りなかった。リリットは、むしろ憐れむような目を向けていた。


「無礼を申しました。申し訳ありません」


「……いや、いいんだ……」



・・・・・



 生温かい夜だった。


 リリットは死んだ部下の顔を思い出しながら、到底眠れるような気分ではなかった。初めての部下だった。


「アーグ……ジスティラ……ドゥーロ……ニオヴリー……ゼリオグ……」


 順番に部下の名前を呼んでいく。

 厳しい訓練をし過ぎたかもしれない。最後の夜くらい酒を許可してやればよかった。


「メレオラ……エグヴィ……ディレース……ベギダス……クエンティ……」


 笑い声、泣き声、全て聞いた。そして、最期の悲鳴は、戦場の騒音で聞こえなかった。


 背後の岩に頭を預け、湿気に満ちた空気を眺めた。いや、何も見ていなかったのかもしれない。リリットの赤い目は、ひたすら開かれているだけだった。


 ふいに、視界の隅に震える何かが見えた。


「……?」


 リリットは虚ろな目をそちらに向けた。そこには、「寝る」と宣言して横になっていたアガルドリアがいた。


「アガルドリア様……震えているのですか……?」


「……っ! そ、そんなことは……」


 寝ようとしていたアガルドリアは、慌てて恥ずかしそうにリリットに手を振った。まさか見られるとは思ってもいなかったのかもしれない。


 その目の赤さには、悪魔族の覇気も何も無かった。ただの情けない青年にしか見えなかった。


「……ぷっ……」


 リリットは思わず吹き出した。アガルドリアは不思議そうにリリットを見ていた。


「……戦場は、今日が初めてでしたね? 恐ろしかったでしょう。初めては、皆そうなります」


「そうなのか……?」


「ええ、そうです」


「……君もそうだったのか?」


「ええ、そうです」


「……そうか」


 アガルドリアは地面を見た。硬い地面だった。


「……すまない」


「……いえ、もういいのです。部下の死は、私の指示が悪かったのです。こちらこそ、理不尽に怒鳴ってしまい申し訳ありませんでした」


 アガルドリアはリリットの目を見られなかった。リリットはそんなアガルドリアを見下ろしていた。その目に棘はなかった。


「……君は優しいんだな」


「まさか。王族を怒鳴りつける女が、優しいと?」


「……それもそうだな」


 アガルドリアは力なく顔を上げ、リリットの表情を伺いながら微笑んだ。リリットも、アガルドリアと同じように微笑んだ。


 アガルドリアは身体を持ち上げると、リリットの隣に背をもたれさせる。


「……さっき呼んでいたのは、君の部下か?」


「……そうです。今日死んだ、私の初めての、大切な部下でした」


「……そうか。ならば、俺も忘れるわけにはいかないな」


「そう言ってくださるのなら、ありがたいことです」


 リリットの声は随分と柔らかくなっていた。なぜだろう。アガルドリアは実力はともかく、なよなよとした男のはずだ。だが、もう怒る気にはなれなかった。


「……眠れそうですか?」


「いや、無理だな。人間を食ったことはあっても、殺したのは初めてだ」


「さすがは王族ですね」


「……それは、皮肉か?」


「ええ、まさに皮肉です」


「……ふっ、そうか……」


 アガルドリアの肩がリリットの肩に触れた。リリットは避けようとしなかった。


 リリットとアガルドリアは、しばらく無言のまま夜の闇を見ていた。ふと、リリットがアガルドリアに話しかける。


「アガルドリア様……あなたの真名を教えていただけますか?」


「……っ!!」


 アガルドリアの顔が一気に赤くなる。先端が円錐になったリリットの尻尾が揺れていた。


「……先に、君の真名を……ヴァスラディ隊長……」


「……女に先に言わせるのですか? まあ、いいでしょう。私の真名はリリットです」


「そうか……俺の真名は……」


 リリットは、その名を愛おしそうに聞いた。



・・・・・



 二人は硬い地面に隣り合って寝転んでいた。二人そろって空を見上げている。


「……俺の真名を知っているのは、父母の他には、君だけだ」


「それは、大層光栄ですね」


「あまり嬉しそうではないな」


「……まさかあなた様とこうなるとは、微塵も思っていませんでしたから」


「はは……俺もそうだよ」


「……戦場がそうさせたのかもしれませんね……不思議なものです」


 梟の鳴き声が、寂しそうに夜へ響いていた。



・・・・・



 一年後、リリットはアガルドリアの副官として、数多の戦場へと付き従うようになっていた。二人はすっかり歴戦の勇士の顔となり、互いに背中を預け合って戦い続けていた。


 だが、夜を共にしたのはあれ以来一度もなかった。


「おい、聞いたかヴァスラディ参謀副官殿?」


「何を?」


 ゴシップ好きの同僚がリリットにからかうように聞いてくる。赤い目は同族の証だ。


「次期魔王様の話だよ」


「……まだ聞いてないけど」


「ここだけの話なんだけどな……」


 彼はリリットの耳へ囁くように声を落とした。


「次の魔王様は、アガルドリア様らしいぞ」


「……ふーん」


「一番強いからな。古代魔族王の先祖返りとか言われてるらしいぜ」


「……それで? 私にわざわざ言うんだから、それだけじゃないでしょ」


「よく分かってらっしゃる」


 男は軽薄そうに笑うと、また一段声を落とした。


「アガルドリア様が魔王様になるってことは、魔王様の隣に立つのは王妃ってことだ」


「何が言いたい?」


「せいぜいがんばりなってこった。はっは〜」


「ふざけるな……」


 ため息をつきながら、男が楽しげにフラフラと去っていくのを見送った。だが、リリットの目は力強く細められていた。



・・・・・



 リリットはひたすらに手柄を立て、上官にゴマをすり、部下の教育にそれまで以上に手をかけた。ライバルをひたすらに蹴落とし、同僚たちに根回しを繰り返し、強くなるための修行を繰り返した。


 そしてアガルドリアが魔王になってから半年後、アガルドリア直々に呼び出された。


 謁見の間ではなく、自室に呼び出されたのだ。リリットは念のため身綺麗にして魔王の執務室へ向かった。


 扉をノックして「ヴァスラディです」と名乗り、返事を待つ。しばらくして「入れ」と声がかけられ、リリットはゆっくりと扉を開いた。そこには、あのときの情けない青年でも、頼れる戦友でもなく、疲れ切った王がいた。


「……お久しぶりです。やつれましたか?」


「ああ……少しな」


 アガルドリアは困ったように笑った。


「それで……今日は何の御用で……?」


「……君に辞令だ。君は今日付けで、将軍になる。『ヴァスラディ将軍』だ。構わないな?」


「それは……」


「俺の隣で俺を守ってくれ」


「……っ! はい。お任せを」


「……ははは、君なら王妃にしろと言ってくるのではないかと思っていたが、無用な心配だったか」


「そこまで恥知らずではありません」


「そうか。実は父上から早く王妃を娶れと言われていてな。君は第一候補だったよ、リリット」


「……!」


「だが」


 アガルドリアはリリットが何か言う前に手で制した。


「それは、国が安定してからだ。だから、共に頑張ろう。食料の安定供給が目下の課題だ。人間国家に攻め入ってばかりでは、先細りだからな」


「そう……ですか……」


「そう残念がるな。またいずれ、な」


「……はい、魔王様」


 リリットは、力なく頷いた。



・・・・・



 その約束が果たされないと知るのは、あの四人に致命傷を負わされてからだった。憎き勇者たち。一人一人は自分より弱いはずなのに、全く敵う気がしなかった。


 ぬるりと血が流れ落ち、喉の奥から湧き上がる血を飲み下すこともできない。もう、立てない。そう思ったときに、アガルドリアがやって来た。


「……リリット」


 アガルドリアはそれだけ言うと、勇者たちへ視線を戻した。リリットが見たアガルドリアは、それが最後だった。

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