師
「カトリン」
リリットはその日、いつものようにやって来たカトリンへ、いつになく尖った声を浴びせかけた。カトリンは肩を震わして不安げにリリットを見た。
「リリットさん……?」
「……今日は、私も殺す気で相手をする。お前も、私を殺す気でやれ」
「え……?」
「分かったな?」
「ちょっとリリットさん……?」
リリットはカトリンの肩を掴んで、黒い目隠しの包帯をズラした。真っ赤に光る目がカトリンを射抜く。
「分かったな?」
低い声がカトリンの鼓膜を震わした。カトリンは思わず息を呑んだ。
「その目って……」
「……赤い目は、魔族の証」
リリットは少しだけ息を吐いた。そして続ける。
「……魔族の中でも、人を喰らう極悪非道の悪魔族。私はかつての魔将の一人だ」
リリットは後頭部の結び目を解くと、髪を振り乱してカトリンを光る目で射抜いた。
「言っている意味、分かるな?」
「わ、分からないよ……っ!」
「……なら言ってやる。修行は終わりだ。三年の期間は、もうすぐ終わる。これが最後の試練だ。お前が期待外れなら、殺して喰う」
リリットは拳を握りしめた。ギリギリと音が鳴る程に、その拳には力が込められていた。リリットは腰を落とし、いつでも踏み込めるように構えた。
「……構えろ」
「……っ!」
カトリンは反射的に構えていた。リリットと全く同じ構えだった。その瞬間に理解した。勝てない、と。次元が違う、と。
「『水を体に這わせて』!」
カトリンはほとんど叫ぶようにそう詠唱した。
リリットが拳を振り抜く。カトリンの顎目掛けて、一切の躊躇なく拳が迫る。カトリンには全てがスローモーションに見えていた。死をこれほど間近に感じるなんて、想像さえしていなかった。
カトリンは全神経を総動員してリリットの拳に手を沿わせ、魔力強化した受け流しで軌道を逸らす。その拳はカトリンの頬を僅かに切り裂いて血を滴らせた。
脇を、頭を、背中を、脂汗が流れ落ちていく。
「……攻撃しなければ勝てないぞ」
リリットは次の掌底を準備しながら言った。
カトリンの頭は高速で回転し始める。体格差がある。この距離では不利。
カトリンは受け流した勢いを利用して一歩踏み込み、リリットの間合いに入っていた。
リリットに組み付き、足を絡めて転ばす。リリットから教わった水の魔力強化の技を、リリットにかけようとしていた。
だがリリットに触れた瞬間、カトリンの身体は押し返された。
「あっ……ぅぐ……! ……魔力強化の次元が違う……!」
カトリンは半ベソをかきながらリリットを見上げた。初めて見た、殺意のこもった目。真っ赤な捕食者の目がカトリンを見下ろしている。
体の震えが止まらない。
リリットはカトリンの腹を蹴り飛ばした。カトリンの身体は宙に浮き、柵を壊しながら吹き飛んでいく。
ザリザリと地面を擦りながら、何とか威力を殺していたので立ち上がることはできた。だが呼吸が上手くできなかった。
リリットは悠々と歩いてくる。
「何をしている? まともに一撃すら入っていないぞ」
「……ぅうっ……はぁ……うぐぅ……。……こ、これまで、一撃も入れられたことなんかないのに……!」
カトリンは辛うじて再び構えた。リリットは律儀にカトリンの前で構え直すと、右の拳を大きく振った。
カトリンは頭を下げて躱すと、リリットの足首を狙って蹴りを放つ。だが、リリットは足を僅かに上げただけで簡単に回避してしまった。そのまま飛び上がったかと思うと、リリットは回し蹴りを放った。カトリンは避ける間もなく、両腕でガードしたが身体は宙に浮いてまた吹き飛んでいく。
「がっ……あ、ぐぅ……!」
「同じことを繰り返すつもりか?」
リリットはゆっくりとカトリンのところへと歩み寄ってくる。カトリンはフラフラと立ち上がりながら、なおも拳を握った。
リリットはカトリンの構えを見て、目尻をほんの少しだけ下げた。
「……あいつら何してんだ?」
カトリンは背後から素っ頓狂な声が上がるのを聞いた。
「え……?」
鋤を肩に担いだ中年の男。すぐ側にはザルを抱えた老婆。他にもぽつぽつと人が立っている。
そこはもう村の中だった。村人たちがリリットとカトリンを見ていた。
「あれって用心棒じゃ……?」
「おい見ろ、あの目……」
「目が赤いぞ……! 魔族だ……!」
リリットはそれを聞いて面白そうに頬を緩めた。
「そうだ。私は悪魔族の生き残り、ヴァスラディ将軍だ。そしてこれから、お前たちを皆殺しにする。――ここの女子供は美味そうだ。よく肥え、無垢で、平和しか知らない。そういう肉は美味いものだ。知っていたか、人間ども?」
「……リリットさん……! ダメ……!」
カトリンは悲痛な声をあげていた。
「リリットさんはそんな人じゃ……!」
そこまで言ったカトリンを、リリットの鋭い目が刺した。心の底まで凍るような思いだった。
村人たちは口々に騒ぎ出す。男たちは鍬や鋤を持ち出し、カトリンの後ろで構えていた。カトリンより前に出ることはなかった。
「……非情だな」
リリットは吐き捨てるようにそれだけ言うと、また腰を落として構えた。
「カトリン。これからお前には、本物の戦いを見せてやる」
リリットは大きく足を振り上げて地面を踏みしめた。すると地面が大きく揺れ始める。
「じ、地震か……!?」
男たちはフラフラとよろめき、地面に手をついた。だが、カトリンは立ったまま沈痛な面持ちでリリットを見つめていた。
「お前がやらねば、村人が死ぬぞ」
リリットはそれだけ言うと、大きく踏み込んで突き刺すような蹴りを放った。カトリンは何とか身体を逸らして躱し、裏拳を叩き込もうとするが、リリットは難なくその手をとって捻り上げ、逆に投げ飛ばしてしまう。
カトリンは受け身を取って立ち上がった。この全てが、リリットから教わった技のはずだった。なぜリリットに向けなければならないのか、カトリンにはまだ分からなかった。
「……まだやる気にならないか? 一人くらい殺してみせるべきか?」
リリットは村人たちの方へ掌を向けた。カトリンは知っている。そこから放たれる魔法の衝撃波は、簡単に人を殺せてしまう。
「ダメ……っ! 『水で足を滑らせて』……!」
カトリンは反射的に駆け出していた。足の裏に纏わせた水で地面を滑りながら高速移動する、リリットと共に編み出した水の魔力強化による移動法だった。
カトリンは右の拳を振り上げるが、左の握りしめた手から、無詠唱で高圧の水を発射してリリットの目を狙う。そのまま右の拳を振り下ろした。
リリットはそのすべてを見抜いていた。目を瞑ったまま水を顔面で受け止め、振動で霧散させながら右の拳を受け止める。
「まだ無詠唱は安定しな……っ!?」
リリットが勝ち誇ったように言おうとしたその瞬間、カトリンが跳び上がっていた。そして、カトリンの細い膝がリリットの顎を撃ち抜いていた。
村人たちが歓声を上げた。
「や、やっちまえカトリン!」
拳を空に突き上げる声は、今のカトリンには雑音にしか聞こえなかった。
リリットは大きく後退りしながら、顎に手を当てた。着地したカトリンは涙を浮かべながら荒い呼吸でリリットを睨みつけている。
「……よくやった」
リリットの口からツーと血が垂れた。リリットは乱暴に拭うと、温かい目でカトリンを見ていた。
「だが、これからだ」
リリットは再び腰を落とした。
・・・・・
カトリンは気付いていた。リリットは本気を出していない。それどころか、カトリンが危うく勝てる程度に抑えていると。
カトリン自身も何発も攻撃を受けている。だが、死ぬほどの威力は無かった。カトリンの攻撃も、何度かリリットに入っていた。
「やあっ!」
大きく声を上げながら放ったカトリンの拳がリリットの腹に入った。リリットは大きく吹き飛んでいく。
カトリンはリリットを追うようにして、地面の上を滑っていった。
「カトリン頑張れー!」
「俺たちを守ってくれ!」
後ろから声援が聞こえる。これほど嬉しくない声援があることを、カトリンは今日初めて知った。
リリットが吹き飛んだ先は、あの小屋の庭だった。この三年間、ずっとここで修行してきた。初めて自分の魔力で魔法を使った場所。初めて組み手をした場所。初めてリリットが笑ったところを見た場所。全てがここから始まった。
リリットは、立ち上がらなかった。大の字で空を見上げながら、カトリンが来るのを待っていた。
「……リリットさん……」
「……よく成長したな。それなら帝国騎士にも遅れはとらん」
「それは……リリットさんが教えてくれたから……!」
ふっ、と力が抜けたように、リリットが笑った。リリットは傷だらけで寝転がったまま、カトリンの目を見た。
「……お前は、私を殺せるか?」
初めは、何と言われたのか分からなかった。そしてカトリンは首を振った。
「殺せるわけないじゃん……っ! だって……だって……! 一緒に……」
カトリンの目からは、もはや抑えきれない涙が流れ続けていた。
「なんでこんなこと……!」
「……さあな。だが、きっと、魔王様も似たような気持ちだったのだろうなぁ……」
リリットは空を見上げた。澄み渡るような、真っ青な空だった。
「くく……あはは……あははははっ!」
リリットは頭を抱えて笑っていた。涙が出るほどに笑っていた。
「あはは、はぁ……」
立ち上がると、フラフラとカトリンの下にやってきた。もうその目に殺意は無かった。
「……カトリン、立派になったな。……血に塗れたこの手でも良ければ、最後に撫でさせてくれないか?」
カトリンは何も返せなかった。代わりに頭を差し出した。リリットは、その頭を、柔らかな金色の髪の毛をぐしゃぐしゃにしながら、思い切り撫でた。まるで心残りを無くすかのように。
「……じゃあな。これから、サラに手紙を出せ。『リリットのお墨付きが出た』とでも言ってな」
「リリットさんは……?」
「……お前には、殺せないだろう? だから、どこかへ旅にでも出る。もう会うことはないだろう。この三年で教えられることは全て教えた。野盗も全て殺してきた。もう悔いはない」
それだけ一方的に言うと、リリットは懐から何かを取り出した。それは、瓶だった。
「……サラからもらった香水だ。一度使ったが、私には甘過ぎる。お前のような子にこそ、よく似合う。持っていけ。餞別だ。何の役にも立たないだろうがな」
リリットはカトリンの手にそれを無理やり握らせると、踵を返して森の中へと歩いていく。
何か、何か言わなければ。カトリンは口をぱくぱくとさせながら、必死に言葉を紡ごうとした。だが、どれもまともな言葉にはならなかった。
だから、カトリンはずっと前から思っていたことを口にした。
「リリットさん……! し、師匠って呼んでも……良いですか……!?」
リリットとは二度と会えない気がしていた。唯一、子弟という関わりだけが、二人を繋ぎ止めてくれる。そんな感覚が、カトリンの中に渦巻いていた。
リリットは足を止める。そして、振り返ることなく片手を上げながら、去り際に一言だけ残していった。
「ははっ……好きに呼ぶといい」
カトリンは、リリットの姿が消えてからもそこを見つめ続けていた。涙がとめどなく溢れていた。
「……カトリン?」
横から優しげな声がかけられた。カトリンが見上げると、そこにはフロリアンがいた。
村人たちを後ろにゾロゾロと引き連れている。彼らはみな警戒したようにキョロキョロしながら、その場を踏み荒らした。
一緒に過ごしたリリットの小屋の中に、ズカズカと男たちが入り込んで、破壊する音が響いていた。カトリンはもう止める気にもならなかった。
フロリアンは何も言わずにカトリンの肩に手を置いた。
「……まさか、こんなやり方をするとは、流石に予想外でしたね。怪我は?」
「……怪我は、痛くないです……」
膝は擦りむき、腕や頬には切り傷があった。こういう時には、リリットがどこから持ってきたのかも分からない薬を塗ってくれていた。
今はもう、誰も手当てなどしてくれない。
「そうか。……さあ、帰ろう。英雄の凱旋だ」
フロリアンはリリットの小屋の開いたままの扉を見た。男たちが怒鳴りながら忙しく出入りしていた。
「これでいいのかい?」
答える者のない問いが、どこへともなく投げかけられた。




