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エピソード⑧ 地下B2

会社の裏手にある搬入口は、深夜の工場とは思えないほど静かだった。昼間ならフォークリフトや搬入トラックが行き交う場所も、今は非常灯だけが青白く光っている。岸本遼はフェンスの影に身を潜め、建物全体を見上げた。


 見慣れた会社のはずなのに、まるで別の場所に見えた。

 ここで働いてきた。毎朝、当たり前のように入ってきた。

 それなのに今日初めて、この建物の中に“知らない階層”があることを意識している。


 バッグの中には黒いケース。

 ポケットには篠崎の社員証と古い鍵。

 スマートフォンの画面には時刻、1:58。


 二時四十分まで、もう四十分ちょっとしかない。


 遼は深く息を吸い、地下搬入口の脇にある認証端末へ向かった。篠崎の社員証をかざす。赤いランプが一度点き、次に黄色、最後に緑へ変わった。


 ACCESS GRANTED


 思っていた以上に、あっさり開いた。

 それが逆に不気味だった。篠崎の権限がまだ生きているのか、それとも誰かが“入らせるために”あえて残しているのか。


 エレベーターは使わない。使えば記録が残るし、閉じ込められる危険もある。遼は非常階段を選び、薄暗いコンクリートの箱を一段ずつ下りていく。B1、そしてB2。地上の工場音は完全に消え、かわりに遠くで低い機械音が響いていた。


 B2の防火扉を押し開けた瞬間、冷えた空気が頬に触れた。


 地下二階は、想像していた“倉庫”とは違っていた。

 通路は整然と区画され、壁際には古い書庫棚が並び、天井には更新されたばかりのような配線ラックが走っている。運用停止した資料室と、生きている設備フロアが無理やり同居している空間だった。


 案内板には小さく、白文字でこうある。


B2資料室

災対サーバ室(旧)


 遼はまず資料室へ向かった。

 今夜消されるのは紙記録。篠崎はそう言っていた。


 資料室の扉は電子錠ではなく、普通の鍵穴だった。古い鍵を差し込む。回る。開いた。

 中は書架が何列も並ぶ狭い部屋で、湿気と古紙の匂いが強い。ファイルボックスや保存箱には年度と部署名が書かれている。総務、品質保証、設備保全、開発試作——その一番奥、他より明らかに新しい灰色の保存箱が三つだけあった。


 ラベルは貼られていない。

 油性ペンで手書きされた番号だけ。


N-01

N-02

N-03


 遼はN-01を引き出した。

 中には会議資料のコピー、工程変更申請書、機密扱いの押印がある稟議書。表題のほとんどは抽象的だが、本文にNOCTの文字が散見される。読み進めるうち、父が言っていた“半分だけの説明”が具体的な形を持ち始めた。


 表向きの名目は、

 危険行動予兆検出システム。

 設備事故や情報漏洩の芽を事前に拾う行動解析基盤。


 だが、添付された別紙には明らかに違う用途が並んでいた。


優先監視対象の抽出

非協力者の行動ログ集積

離脱傾向者の隔離判断補助


 遼は書類を持つ手に力を入れた。

 事故防止ではない。管理だ。選別だ。排除だ。


 N-02には導入先候補と試験運用結果が入っていた。

 工場内だけではなく、関連会社、物流拠点、研究ライン。少人数の環境ほど行動の偏差が見えやすい、と書かれている。さらに備考欄には、見慣れた社内用語とは違う硬い文面があった。


対象の“自発的従順性”は高く、段階導入に適する。


 人間を、部品のように書いている。


 N-03に手を伸ばしたとき、資料室の外で足音がした。


 遼は反射的に動きを止め、照明を消した。

 扉の下の隙間に、通路の光が細く伸びている。そこへ、影が二つ、三つ。


「……こっちは?」


「先にサーバ室だ。資料はあとで焼けばいい」


 低い声。

 矢島ではない。前に整備工場へ来た男たちのどちらかだ。


 遼は歯を食いしばった。

 先にサーバ室。

 つまり向こうも、起動試験に必要な回線を確認しに来ている。


 資料を全部持ち出す時間はない。遼はスマートフォンで必要箇所を連続撮影し、N-03だけを抱えて資料室を出た。通路の反対側、災対サーバ室(旧)へ向かう。


 扉は半開きだった。

 中から、機械の低い駆動音とモニターの光が漏れている。


 遼は隙間から覗いた。


 古いサーバラックが三列。壁際にはUPS電源装置。中央の作業机にはノートPCが開かれ、その前に矢島が立っていた。

 その隣には、専務の榊原。

 そして奥にもう一人、黒いブルゾンの男。


 遼は息を止める。


 榊原は昼間の会議で見せる穏やかな表情ではなかった。目だけが冷たく、机上の画面を見下ろしている。


「二時四十分で同期開始です」


 ブルゾンの男が言った。


「バックアップ回線は?」


「生きています。ただし旧系統に一度だけノイズが入りました。おそらく岸本が開けた第二鍵の影響かと」


 榊原はわずかに眉を動かしただけだった。


「問題ない。起動後に回収する」


 矢島が低く言う。


「岸本の母親は、どこまで知っているんですか」


「何も知らない。知る前に静かにしてもらえばいい」


 その言葉を聞いた瞬間、遼の頭の奥で何かが切れた。


 母を、静かにしてもらえばいい——

 あまりに平然と、榊原はそう言った。


 次の瞬間、遼は考えるより先に動いていた。

 資料室から持ち出したN-03の箱を通路の反対側へ投げる。

 箱は床にぶつかり、大きな音を立てて中身を散らした。


「誰だ!」


 ブルゾンの男が扉へ向く。

 その一瞬の隙に、遼はサーバ室へ飛び込み、壁際の非常停止レバーに体当たりするように手をかけた。


「岸本!」


 矢島の叫び。

 榊原の顔が初めて明確に歪む。


 遼は全力でレバーを引いた。

 警告灯が赤く回転し、サーバラックの一部が落ちる。だが全部ではない。UPSが生きている。


「中途半端だ!」


 ブルゾンの男がこちらへ駆ける。

 遼は机上のノートPCを掴み、床へ叩きつけた。画面が砕ける。さらに黒いケースを開き、中の基板を露出させる。LEDが不気味に点滅した。


 そのときだった。

 基板の緑LEDが急に明るさを増し、部屋中のモニターが一斉に切り替わる。


 黒画面。

 次に、白文字。


血縁認証済

管理者権限の一部を移譲します


 全員が一瞬、動きを止めた。


「何だこれは……!」


 榊原の声が初めて乱れる。


 遼自身も何が起きたのか分からなかった。

 だがモニターの一つに、新しいウィンドウが開く。


NOCT CORE / fail-safe mode


 fail-safe。

 父が埋め込んだ保険だ。


 画面下に選択肢が現れる。


1. 外部同期停止

2. 内部記録解放

3. 全系統遮断(不可逆)


 遼は息を呑んだ。

 選べる。

 だがどれも軽くない。


 1なら今夜の起動試験を止められるかもしれない。

 2なら証拠を外へ出せる。

 3なら全部を破壊できるが、父の残した記録まで失われる可能性がある。


 矢島が遼へ手を伸ばす。


「押すな!」


 だがその直前、別の声が響いた。


「そのまま!」


 通路側の扉に、篠崎が立っていた。

 肩で息をし、片手には消火斧。

 もう片手にはスマートフォン。顔色は悪いが、目は鋭い。


「外部回線の一部、こっちで切った! でも完全停止には証拠解放が要る!」


 榊原が低く吐き捨てる。


「まだ生きていたか、篠崎」


「しつこいのはそっちでしょ」


 ブルゾンの男が篠崎へ向かおうとする。

 その隙に、遼は画面を見つめた。


 外部同期停止だけでは、また別の回線で再開されるかもしれない。

 全系統遮断は最終手段だ。だが今ここで全部を壊せば、榊原が逃げ切る可能性がある。


 なら——


 遼は迷いを捨て、2. 内部記録解放を押した。


 直後、サーバ室のモニターが一斉に走り出した。

 進捗バー。転送ログ。外部送信先一覧。


「止めろ!」

 榊原が怒鳴る。


 だがもう遅かった。

 画面には複数の送信先が表示されている。報道機関、監督官庁、外部監査窓口、匿名公開ノード。父は最初から、“どこへ流せば消されにくいか”まで準備していたのだ。


 矢島が呆然とつぶやく。


「修司……お前、そこまで……」


 次の瞬間、ブルゾンの男が遼へ飛びかかってきた。

 遼は避けきれず、背中から床へ倒れる。息が詰まる。基板が滑り、床を打つ。

 篠崎が斧の柄で男の腕を殴りつける。

 矢島が何かを叫ぶ。

 警告灯が回り続ける。


 混乱の中で、モニターの進捗が**78%**を超えた。

 まだ終わっていない。

 だが、もう戻らないところまで来ている。


 榊原は壊れたノートPCの横で、信じられないものを見る顔をしていた。

 自分が握っていたはずの仕組みが、今まさに逆流している。


 遼は床に手をつき、立ち上がろうとした。

 そのとき、スマートフォンが震えた。

 母からではない。非通知でもない。


 送信元表示は、ありえない名前だった。


修司


 遼の指先が止まる。

 画面には、ただ一文だけ。


最後は、お前が決めろ。


 その直後、モニターの進捗が**100%**に達した。

 部屋の空気が変わる。

 榊原の顔色が、初めて本当の恐怖に染まった。

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