エピソード⑦ 第三の手がかり
駅北口のバスロータリーは、深夜でも完全には眠っていなかった。終電を逃した人間、タクシー待ちの列、コンビニの明かり。岸本遼は人の流れに紛れながら、篠崎に指定された公衆電話の裏手へ向かった。
古びた緑色の電話ボックスは、再開発から取り残されたみたいに隅へ追いやられている。今どき使う人間も少ない。だからこそ、目立たない。
電話ボックスの裏へ回ると、コンクリートの基礎部分に黒いテープで留められた封筒があった。
小さく、白い字でこう書いてある。
第三鍵ではない。だが、第三の手がかり。
遼は封筒を剥がし取り、その場では開けずに電話ボックスの中へ入った。ガラス越しに外を見張りながら、中身を確認する。
入っていたのは、折りたたまれたメモ用紙と、ICカードサイズの社員証、そして古い鍵一本だった。
社員証には写真がついている。
名前を見た瞬間、遼は眉をひそめた。
篠崎 真帆
特別開発補助 / 契約ID:S-09
本物だ。少なくとも、社内で使われていた証明書には見える。裏面には入退室権限の一覧があり、その中に見慣れない表記があった。
B2資料室
災対サーバ室(旧)
メモには、篠崎の筆跡らしい細い字で短く書かれていた。
榊原は今夜、起動試験を前倒しする。
あなたのお母さんの家に行ったのは、床下の封筒を探すため。
でも本命はまだ取れていない。
修司さんが最後に隠したのは、B2資料室の紙記録。
データは消せても、紙は残る。
鍵は災対サーバ室(旧)にも使える。
ただし、先に母親を助けるなら時間は一度しかない。
遼はメモを握りしめた。
床下の封筒。
B2資料室。
災対サーバ室。
そして母。
全部を一度に守ることはできない。
そんな現実が、ここにきて初めて具体的な重さを持った。
スマートフォンが震える。篠崎からだ。
近くにいる。振り向かないで。右斜め前のバス停。
遼は視線だけを動かした。
確かに、数本先のバス停ベンチにフードをかぶった女が座っている。顔は見えないが、体格は篠崎に近い。
ここで話しますか。
送ると、すぐ返ってくる。
声に出さず読んで。追跡が一人いる。たぶん榊原の私設。会社の人間じゃない。
遼は背中に冷たい汗を感じた。
見えている追手だけではなかったのか。
母さんの家に向かうべきですか。
数秒の間があった。
そのあと、短い返信。
感情で言えば行くべき。
止めるためならB2。
どちらを選んでも、もう片方は失う可能性が高い。
遼は電話ボックスのガラスに映る自分を見た。ひどい顔だった。寝不足と緊張で目が赤い。工場の一社員だった自分が、いつの間にこんな選択を迫られる側に立ったのか。
だが考えている時間はない。
そのとき、スマートフォンに新しい通知が届く。差出人不明。動画ファイル。
再生すると、薄暗い室内が映った。
母の家の台所だった。
カメラが床下収納の開いた穴を映す。
誰かの手が、中から封筒を引き抜く。
その封筒には、遼にも見覚えのある父の字でこう書かれていた。
遼へ 母には見せるな
動画はそこで終わる。
すぐ次のメッセージ。
選ぶのが遅かったな。
遼は歯を食いしばった。
床下の封筒は奪われた。
もう母の家へ行く意味は、少なくとも“手がかり回収”という点では薄れた。
なら残るのはB2資料室。父の言う“紙の記録”。
だが母の安否はどうなる。
その迷いを見透かしたように、また篠崎から届く。
お母さんはまだ使い道がある。すぐには消されない。
でもB2は今夜消される。
冷酷な文面だった。
けれど、それが現実的な判断なのだと遼にも分かった。
遼は短く返す。
B2へ行きます。
篠崎はすぐに返信した。
地下搬入口から入る。S-09の社員証を使って。
災対サーバ室(旧)には、起動試験のバックアップ回線がある。
もしNOCTを止めるなら、そこを先に落とす。
電話ボックスを出た瞬間、遼は右後方に視線を感じた。スーツではない。黒いブルゾンの男が、タクシー待ちの列の脇に立っている。手ぶらで、姿勢に無駄がない。駅前の客には見えない。篠崎の言う“私設”だろう。
遼は視線を合わせないまま、人混みに入った。
追手もゆっくり動き出す。
ロータリー脇に停まった路線バスが、ちょうど扉を開けた。遼は行先も見ずに乗り込み、後方座席へ滑り込む。数秒遅れて、ブルゾンの男も乗ってきた。
ついてきた。
遼は無表情を装いながら、次の停留所で降りるふりをして立ち上がる。男も同じタイミングで立つ。そこで遼は反転し、運転席横の非常口確認窓のそばへ寄った。停車と同時に前方から飛び出し、歩道へ着地。そのままバスの陰を使って裏路地へ走る。
背後で男の足音。
無駄のない速さ。
現場慣れしている。
遼は住宅街を斜めに抜け、コインパーキングのフェンスを飛び越え、さらに細い路地へ入った。息が切れる。ケースが重い。だが止まれない。前方に、再開発で途中まで壊された雑居ビルの影が見える。隠れるならあそこだ。
ビル裏の非常階段へ飛び込み、二階踊り場の陰に身を伏せる。
数秒後、男が路地を通り過ぎた。
立ち止まり、周囲を見回し、耳を澄ますように顎を上げる。
遼は息を止めた。
男のスマートフォンが鳴る。
短い通話。
「……見失いました。いや、基板はまだ持っています。篠崎とは接触済みの可能性が高い」
相手の声までは聞こえない。
だが、男の次の一言で遼の背中が凍った。
「はい。起動試験は榊原さんの指示通り、二時四十分に」
二時四十分。
あと一時間もない。
男が去ったあと、遼はようやく息を吐いた。
篠崎にその時間を送る。すぐ返信が来る。
最悪。前倒しどころじゃない。
B2資料室に残っている紙記録と、災対サーバ室の回線遮断。両方必要。
どちらか片方だけでは、榊原は止まらない。
遼は画面を見つめた。
つまり今夜、自分は会社に戻る。
追われる側のまま。
しかも地下へ。
そのとき、別の通知が届いた。
送信元は、母の番号だった。
だが文面は明らかに母のものではない。
親子そろって、余計なものを見つける癖がある。
二時四十分までに基板を返せ。そうすれば母親は帰す。
遼は拳を握りしめた。
交渉ではない。脅迫だ。
しばらくして、さらに短い追撃が来る。
修司は返せなかった。お前はどうする?
その一文を見た瞬間、不思議と頭が冷えた。
恐怖が怒りに変わる境目だった。
父を奪い、母を人質にし、今度は自分に選ばせる。
なら、もう答えは一つしかない。
遼は黒いケースを抱え直し、階段を下りた。
深夜の街は静まり返りつつある。
だが会社の地下では今、何かが始まろうとしている。
工場の地下B2。
普段の遼なら、一生足を踏み入れることのない場所。
そこに父の紙記録があり、NOCTの起動を止める最後の回線がある。
そして二時四十分。
その時刻までに間に合わなければ、父が命をかけて残したものすべてが、誰にも届かないまま闇へ沈む。
夜風の中、遼は初めて自分から会社へ向かっていた。
追われるためではなく、奪い返すために。




