エピソード⑥ N-CORE
川沿いの遊歩道をどれだけ走ったのか、自分でも分からなかった。息が焼けつくように苦しい。岸本遼は暗い橋の下へ滑り込み、ようやく足を止めた。背後に追跡の光は見えない。だが、それで安心できる段階はとっくに過ぎている。
バッグを胸に抱えたまま、遼はコンクリート壁にもたれた。
開いたのだ。
父の端末で、第二鍵を。
そして今、自分の手元にはNOCTの中核、N-COREへ続く入口がある。
スマートフォンの時刻は深夜一時を回っていた。橋の下は湿った水の匂いが濃く、遠くでトラックの走行音が響いている。ここで長居はできない。だが、内容を確認しないまま動くのも危険だった。
遼はベンチ代わりの低い縁石に腰を下ろし、USBを手に取った。整備工場から抜いてきたのは本体側のデータだけだ。ノートPCは持ち出せなかった。つまりN-COREそのものは、まだ完全には見えていない。だがUSBの中にも複製データがあるかもしれない。
スマートフォンに接続できる変換アダプタは、たまたま工具ポーチに入っていた。写真データの持ち運び用に以前買ったものだ。こんな場面で役立つとは思わなかった。
接続。
読み込み。
表示されたフォルダは二つだけだった。
mirror
if_found
遼はまず if_found を開いた。
テキストファイルが一つ。
短い文だけが並んでいる。
遼へ
これを見つけたなら、たぶん俺は失敗した。
mirror を開け。
ただし、見た後は一人で判断するな。
お前が信じられる相手を一人だけ作れ。
一人もいないなら、篠崎を探せ。
遼は無意識に、画面を握る手に力を入れた。
父は篠崎を信じていた。少なくとも、この文面ではそう読める。
次に mirror を開く。
中には複数の動画、設計図、ログファイル。それに、見慣れない形式の圧縮データが一つ。
NCORE_Mirror_0
遼は最初に動画を選んだ。
再生された映像は、固定カメラらしい俯瞰だった。場所は旧A棟の検査室。日付表示は三年前の事故当日。画質は荒いが、誰が映っているかは十分分かる。
机の前にいるのは父。
その向かいに矢島。
さらにその奥、ドアの近くにスーツ姿の男が一人。
遼は画面に顔を寄せた。
その男を、知っていた。
「……専務」
会社の専務取締役・榊原だった。普段は現場にほとんど来ない。朝礼や会議で一方的に話すだけの、遠い上層部の人間。その男が、旧A棟にいる。
映像に音声はない。
だがやり取りは荒れているのが分かった。父が何かを主張し、矢島が制止し、榊原は動じず見ている。次の瞬間、父が机上の基板を掴み、ポケットから何か小型端末を取り出す。矢島が腕を掴む。揉み合いになる。映像が一度大きく揺れ、そのあと白飛びした。
そこで動画は終わっていた。
遼の呼吸が浅くなる。
事故ではない。
少なくとも、ただの設備事故では絶対にない。
次に設計図を開く。回路ブロック図と注記が並ぶ。全部は理解できないが、通常の工場設備監視基板とは構成が違うのは分かった。通信モジュール、認証部、ログ秘匿層、そして外部更新領域。注記にはこうあった。
行動パターン照合 / 優先度タグ付与 / 自動例外抽出
まるで人間を分類する装置だ。
設備用ではない。
“人を見る”という父の言葉通りだった。
さらにログファイルを開く。そこには、NOCT導入候補先としていくつもの組織名が並んでいた。工場だけではない。物流会社、研究施設、自治体関連施設。試作段階のはずなのに、すでに導入先が検討されている。
その最下部に、見慣れた地名があった。
戸塚東地区 実証候補
遼は息を止めた。
自分の住んでいる街だ。
スマートフォンが震えた。着信ではなく、メッセージアプリの通知。送信者不明。本文は動画一件。サムネイルには、自宅アパートの外観が映っていた。
遼の背筋が凍る。
再生はしない。する必要がなかった。
すぐ次のメッセージが届く。
持ち逃げは感心しない。
帰る場所がなくなる前に返せ。
遼は立ち上がった。橋の下の闇が、急に薄くなった気がした。見張られている。家も、生活圏も、もう安全ではない。
そのとき、また別の通知。今度は篠崎からだった。番号が変わっている。
開いた?
開いたなら今すぐ駅北口のバスロータリーへ。人の多い場所にいなさい。
遼は短く打つ。
専務が映ってた。榊原です。
すぐ既読がつき、返信。
やっぱり。見られたなら次は隠さない。
遼くん、もう“告発”では止まらない。向こうは起動させる気よ。
起動。
大型ビジョンの一件が頭をよぎる。
NOCT 起動待機中
あれは誤作動ではなかったのかもしれない。
テスト表示。あるいは威嚇。
遼はUSBを抜き、スマートフォンをポケットにしまった。橋の下を出ると、遠くの空がわずかに明るい。夜明けにはまだ遠いが、街は完全には眠っていない。
歩きながら、父の残した最後の文を思い返す。
一人で判断するな。信じられる相手を一人だけ作れ。
篠崎を信じるしかないのか。
今のところ、それ以外に選択肢は見えない。
だがその矢先、遼のスマートフォンにさらに別の着信が入った。
今度は登録済みの番号。
母からだった。
心臓が一度、強く跳ねた。
こんな時間に母から電話が来ることなど、ほとんどない。
「……もしもし」
数秒、沈黙。
そのあと、震えた声。
『遼……今、どこにいるの』
「外。どうしたの」
『帰ってきちゃ駄目』
遼は足を止めた。
『さっき会社の人が来たの。修司さんのことで、もう話さなくていいって……でも、おかしいの。あの人たち、鍵まで持ってた』
血の気が引く。
会社の人間が、母のところへ。
「誰が来たの」
『矢島さんと……あと、偉い人。何度か写真で見たことがある……』
榊原だ。
遼は確信した。
『遼、聞いて。お父さんは失踪なんかしてない。私、ずっと嘘をついてた』
母の嗚咽混じりの声が、夜気の中でかすれる。
『お父さんは、戻るって言ってたの。最後の日も。“あと一つ終われば全部話せる”って。だから私は待ってた。でも次の日、会社の人が来て、事故だったって……遺体は確認させてもらえなかった』
遼は目を閉じた。
やはりそうだった。
父は家族を捨てていない。
『ごめんね。遼を守るためだと思って……でも、もう限界。台所の床下に、修司さんが置いていった封筒がある。開けるなって言われてたけど、今なら——』
その瞬間、電話口の向こうで大きな物音がした。
ドアが開く音。
母の息を呑む気配。
男の声。
『まだ通話中か』
遼の全身が硬直した。
「母さん!?」
ノイズ。
何かがぶつかる音。
そして最後に、母の叫び。
『逃げて、遼——!』
通話が切れた。
遼はその場で凍りついた。
頭が真っ白になる。
だが数秒後、逆に異様なほど冷静になった。
母の家にも、もう入られている。
床下の封筒。
父が最後に残した別の手がかり。
そしてNOCT起動へ向けて動く榊原。
篠崎から、新しいメッセージが届く。
ロータリーに着いたら左の公衆電話裏。
そこに第三の手がかりがある。
遼はスマートフォンを握りしめた。
父の痕跡は、まだ終わっていない。
だが次の一手を誤れば、母まで消される。
歩き出した足は、もう迷っていなかった。
今、自分が追っているのは父の死の真相だけではない。
NOCTが起動すれば、もっと多くの人間が“選別される側”に回る。
夜の街を横切りながら、遼は初めてはっきり理解した。
これは過去を暴く話ではない。
これから起きるものを、止める話なのだ。




