エピソード⑤ 朝倉整備工場跡
朝倉整備工場跡は、川沿いの細い道を抜けた先にあった。錆びた看板は半分剥がれ、シャッターは閉じたまま、周囲には背の低い雑草が広がっている。営業をやめて長いはずなのに、建物そのものは妙に整っていた。完全な廃墟というより、誰かが時々手を入れているような静けさがあった。
岸本遼は周囲を確認し、通りの反対側からしばらく様子を見た。追跡の気配は今のところない。だが、それは安全を意味しない。見えていないだけかもしれない。
バッグの中には黒いケースとUSB。
ポケットには写真と手帳の切れ端。
そして頭の中には、篠崎の言葉が残っていた。
修司さんは、作っていた。でも最後に壊そうとした。
遼は建物の脇へ回り込んだ。正面のシャッターは動かないが、裏手には古い勝手口がある。ドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
中は暗い。油と鉄の匂いが、今も壁に染みついている。工具棚、古いリフト、タイヤの山。整備工場だった頃の名残がそのまま残されている。スマートフォンのライトで床を照らしながら進むと、事務スペースらしき小部屋が見えた。机とスチール棚、ブラウン管の古い監視モニター。そして棚の一番上に、小型のノートパソコンが一台置かれていた。
遼は手を止めた。
新しくはない。だが放置品にしては埃が少なすぎる。電源ケーブルもまとめられ、すぐ使えるように見える。
「……ここで見ろってことか」
独り言が小さく響く。
椅子を引き、ノートパソコンを机に置く。電源を入れると、意外なほど素直に起動した。OSは古いが、生きている。パスワード画面が表示された瞬間、遼は息を呑んだ。
User: R.Kishimoto
父のものだ。
入力欄の下には、ヒントのように一文だけ表示されていた。
“最初に教えた声”
意味が分からない。
遼はしばらく画面を見つめ、それから、ふと思い出した。小さい頃、父はよく古いラジオを分解しては、遼に部品の名前を教えていた。そのとき何度も聞かされた言葉がある。
「……コイル、コンデンサ、抵抗……」
試しに「resistor」と打ってみる。違う。
「coil」も違う。
遼は眉を寄せた。
最初に教えた“声”。
声、という表現が気になった。部品ではなく、言葉そのものかもしれない。さらに記憶を探る。父は工具を手渡しながら、必ず最初にこう言っていた。
『まず、聞け。機械は音で嘘をつく前に本当を言う』
遼はゆっくりと打ち込んだ。
listen
画面が切り替わった。
遼は浅く息を吸う。
父の癖だったのか、偶然なのか。ともかく開いた。
デスクトップにはフォルダが三つしかなかった。
LOG
VOICE
SECOND KEY
迷うまでもなく、まずVOICEを開く。
中には音声ファイルが六つ並んでいた。日付順だ。一番新しいものは事故の前日になっている。
再生ボタンを押す。
数秒の無音。
それから、男の声。
『遼。これを聞いている時点で、俺はたぶんお前の前にはいない』
遼の喉が詰まった。
今度は、はっきり分かった。父の声だった。
『急にこんな形で話すことになるのは、本当にすまない。たぶんお前は怒るし、呆れるし、意味が分からないと思う。でも、時間がない』
ノイズが混じる。遠くで何か機械音がしている。
『俺は一度、この仕事を受けた。人を守るためのものだと聞かされていた。設備事故を減らし、遠隔で異常を検知し、危険が起きる前に止める。その説明自体は嘘じゃなかった。でも半分だけだった』
遼は画面を見つめたまま動けない。
『NOCTは人を見る。設備じゃない。行動、接続履歴、出入り、通信、反応。全部を拾って、危険か、従順か、邪魔かを選別する。その基準は外から書き換えられる。誰かが“危険”だと決めれば、そいつは消される側に回る』
手が震えた。
ただの違法機器ではない。選別装置。監視装置。そして排除のための基盤。
『気づいた時には遅かった。もう試作は最終段階で、止めるには証拠を持ち出すしかなかった。篠崎も手伝ってくれた。でも社内には、最初から全部分かっていて動いてる連中がいる』
そこで父の声が少し低くなる。
『矢島は使われてる側だ。危険なのはその上だ』
遼は目を見開いた。
矢島が黒幕ではない。さらに上がいる。
『もしお前がここまで来たなら、基板を持っているはずだ。第二鍵はこの中にある。ただし、開くには認証が必要だ。血縁認証と音声一致。俺がそうした。せめて、知らない誰かの手には渡らないように』
ファイルはそこで切れていた。
遼はしばらく動けなかった。父は本当に自分に向けて残していた。逃げたのでも、家族を捨てたのでもない。戻れなくなった人間の声だった。
次にSECOND KEYを開く。
フォルダ内には実行ファイルが一つだけあった。
NOCT_AUTH.exe
ダブルクリックすると、簡素な認証画面が開く。
血縁照合を開始します
指先をセンサー部へ
続いて音声を入力してください
机の横を見ると、小型の外付け機器が接続されていた。指紋センサーらしい。最初から用意されていたのだ。
遼はためらった。
ここで認証すれば、何かが動く。
だが、ここまで来て止まれない。
人差し指をセンサーに置く。
短い読み取り音。
一致率 49%
再測定
「……低い?」
父子で半分程度なのか、それとも機器が古いのか。もう一度、少し強く押し当てる。
一致率 51%
閾値到達
次の表示が出る。
音声を入力してください
遼は唇を湿らせた。何を言う。
父が最初に教えた言葉。
あるいは、父しか知らない合言葉。
ふいに、さっきのパスワードヒントが頭をよぎる。
“最初に教えた声”。
遼はマイクへ向かって、幼い頃に父と何度も交わした一言を口にした。
「聞け」
数秒の無音。
その後、画面が明滅した。
認証完了
SECOND KEY 解放
デスクトップに新しいフォルダが現れる。
N-CORE
遼がそれを開こうとした瞬間、建物の外で砂利を踏む音がした。
ジャリ。
ジャリ、ジャリ。
反射的にライトを消し、息を殺す。
複数人ではない。二人か、三人。足音が止まり、次にドアノブが静かに回された。
鍵はかけていない。
遼は素早くUSBを抜き、ノートパソコンの画面を閉じた。黒いケースを抱える。逃げ道は入口の反対、整備ピットの裏手に小窓があったはずだ。
勝手口が、ぎい、と音を立てて開いた。
「……中だな」
男の声。
矢島ではない。低く、抑揚がない。
もう一人が言う。
「端末が残ってるなら先に押さえろ。基板は岸本が持ってる」
遼は背筋を冷やした。
基板の存在だけでなく、この場所まで知られている。
足音が近づく。
遼はピットの陰を這うように移動し、小窓のロックに手をかけた。固い。錆びている。力を込める。
そのとき、事務スペースの方で男が低くつぶやいた。
「ログイン済みだ」
間に合わない。
遼は最後に力を込め、小窓を押し開けた。金属が悲鳴を上げる。すぐ後ろで誰かがこちらに気づいた気配がした。
「いたぞ!」
遼は振り返らず、窓から外へ身を滑り出させた。肩を強く打つ。土の上へ転がる。だが止まらず、そのまま川沿いの暗がりへ走った。
背後で怒号が飛ぶ。
ライトが揺れる。
だが今の遼の頭にあるのは一つだけだった。
矢島は使われてる側だ。危険なのはその上だ。
父が本当に伝えたかった相手は、まだ姿を見せていない。
そして遼は、ついに第二鍵を開けた。
残るのは、N-CORE。
そこにあるのは、父が命をかけて残した“中核”だ。
もしそれが本当にNOCTの心臓部なら、次に狙われる理由も、もう十分すぎるほどあった。




