エピソード⑨ 返されなかったもの
サーバ室の警告灯が赤く回り続ける中、榊原の顔から完全に余裕が消えていた。
内部記録の解放は終わった。
もう、隠しきれないところまで証拠は流れたはずだった。
だが、それで全てが終わるわけではない。
床に散らばったケーブル、倒れた椅子、砕けたノートPC。岸本遼は荒い息を吐きながら基板を抱え直した。ブルゾンの男は篠崎に押さえられ、矢島は呆然と立ち尽くし、榊原だけが異様な静けさでモニターを見ている。
「終わりだと思うか」
榊原が低く言った。
遼は答えなかった。
「証拠が流れたところで、止まりはしない。社会は便利な仕組みを欲しがる。人を分類し、危険を先回りして弾く仕組みをな。名前がNOCTでなくなっても、同じものはまた作られる」
その声に、焦りよりも信念に近いものが混じっていた。
遼は初めて、榊原という男の気味悪さの正体を理解した。
この男は隠蔽のために動いているだけではない。
必要なことをしていると、本気で信じている。
「だから何だ」
遼は絞り出すように言った。
「だから、今ここでお前だけは止める必要がある」
榊原はそう言うと、背後のラック脇に手を伸ばした。
遼が止めるより早く、非常用の保護ケースが割られる。中から取り出されたのは、銃ではなかった。短い金属棒のようなスタン警棒。電極が青白く弾ける。
篠崎が叫ぶ。
「遼くん、下がって!」
だが榊原の狙いは遼ではなかった。
床に落ちていた基板へ真っ直ぐ踏み込み、そのまま叩き壊そうとする。
遼は反射的に飛びついた。
体当たりで榊原の腕を逸らす。スタン警棒が肩を掠め、左腕に激痛が走る。視界が一瞬白く弾けた。
その隙に、矢島が動いた。
「もうやめろ、榊原さん!」
矢島は榊原の腕を後ろから押さえた。
榊原が振り返りざまに肘を入れる。矢島がよろめく。
だがその数秒で、遼は基板を回収し、サーバ室の出口まで下がることができた。
篠崎が荒い息のまま言う。
「記録は解放できた。でも起動系統がまだ生きてる。最後に止めるなら、残りはその基板しかない!」
遼は基板を見る。
緑のLEDはまだ点いている。
fail-safeの画面は消えたが、基板自体がNOCTの“核”であることはもう疑いようがなかった。
スマートフォンがまた震えた。
さっきと同じ名前。
修司
遼は数秒迷い、画面を開く。
今度はメッセージではなく、短い音声ファイルだった。
再生する。
『遼。もしここまで来たなら、最後に迷うはずだ』
父の声。
ノイズ混じりだが、確かに父だった。
『証拠を残すか、装置を壊すか。両方やりたくなる。でも現実には、どちらかを優先しなきゃならない時がある』
遼は立ち尽くしたまま聞き入る。
『俺は最初、全部持って帰ろうとした。それで失敗した。だからお前は迷うな。証拠が外へ出たなら、次は止めろ』
その瞬間、遼の中で一本の線がつながった。
内部記録の解放はもう済んだ。
なら次にやることは一つだけだ。
『NOCTは壊せ。戻せない形で』
音声はそこで終わった。
遼はゆっくり顔を上げた。
榊原も、篠崎も、矢島も、その表情を見たのかもしれない。
「遼くん……?」
篠崎の声に、遼は短く答えた。
「壊します」
榊原が初めて明確な敵意をむき出しにする。
「やめろ! それがどれだけの価値を——」
「価値なんかじゃない」
遼は基板を握る手に力を込めた。
その中には父が命をかけて残した証拠も、保険も、技術も、全部入っているかもしれない。
それでも父は最後に「壊せ」と言った。
なら、そうする。
榊原が再び突っ込んでくる。
矢島が止めきれない。
ブルゾンの男も立ち上がる。
遼はサーバ室を飛び出し、B2通路を全力で走った。
後ろで怒号。足音。非常灯の赤が通路を断続的に染める。
資料室の前を過ぎ、搬入口側とは逆方向へ曲がる。その先には、旧設備廃棄用の圧縮処理室がある。現場で一度だけ場所を聞いたことがあった。大型の不良設備を物理的に潰すための部屋だ。
あそこなら、基板を確実に壊せる。
曲がり角を抜ける直前、背後から声が飛ぶ。
「岸本!」
矢島だった。
遼は走りながら振り返らない。
「修司は、俺が殺したんじゃない!」
その言葉に、遼の足がほんの一瞬だけ鈍る。
だが止まらない。
「じゃあ誰がやったんですか!」
叫び返すと、矢島の息の切れた声が追ってくる。
「榊原じゃない! もっと上だ! 社外だ!」
遼は目を見開いた。
榊原より上。
しかも社外。
圧縮処理室の前へたどり着く。重い防音扉。横の操作盤は通常ロックされている。だがB2全体が非常モードに入っているせいか、手動操作に切り替わっていた。遼はレバーを引き、無理やり扉をこじ開ける。
中は薄暗く、中央に金属圧縮機が据えられていた。
遼はその投入口の前に立つ。
手の中の基板は、まだ緑に点滅している。
数秒後、榊原たちが入口へなだれ込んできた。
榊原の顔には、ここに来て初めてはっきりした焦燥があった。
「岸本、それを入れたら終わりだ!」
「終わらせるために来たんですよ」
「違う! お前は知らないだけだ!」
榊原は一歩、また一歩と近づいた。
「NOCTの原型は、もうここだけじゃない。お前が壊したところで、別系統が残っている。だがその基板には、逆に辿るための鍵も入っている。壊せば、本当に辿れなくなる!」
遼は息を止めた。
別系統。
榊原の背後で、矢島も青い顔をしている。篠崎は遅れて入口に着き、言葉を失ったように榊原を見た。
「……それ、本当?」
篠崎の問いに、榊原は苛立ったように吐き捨てる。
「ここまで来て嘘をつく意味があるか。私は実行管理者にすぎない。設計思想も、展開先も、決めているのは外だ」
矢島が低くうめく。
「だから修司は、外へ出そうと……」
遼の頭の中で、父の声と今の言葉がぶつかる。
壊せ。
でも、壊せば辿れないかもしれない。
迷いが、一瞬だけ戻る。
そのとき、篠崎がはっきりと言った。
「遼くん、思い出して。修司さんは“証拠が外へ出たなら次は止めろ”って言ったんでしょ」
遼は振り向く。
篠崎の顔は疲れ切っていたが、目はぶれていない。
「外に流れた記録の中に、きっと“次”へ進むための糸口もある。ここでこれを残したら、榊原たちは奪い返す。今、止める機会は一度しかない」
榊原が怒鳴る。
「黙れ!」
そして前へ踏み込んだ瞬間、矢島が真正面から榊原を止めた。
「もう終わりにしましょう」
その声は、遼が知る現場主任のものだった。
静かだが、初めて決意があった。
「俺は見ないふりをしすぎた。修司にも、お前にも、会社にも」
榊原が矢島を睨む。
「今さら正義のつもりか」
「違う。ただ、これ以上は無理だ」
二人がもみ合う。
ブルゾンの男が割って入ろうとするが、篠崎が工具棚の鉄パイプを投げつけて足を止める。
時間が伸びる。
でも実際には、ほんの数秒だ。
遼は基板を見た。
父が残したもの。
父が最後に壊せと言ったもの。
そして、自分の生活と家族を壊したもの。
「……父さん」
小さくつぶやき、遼は基板を圧縮機の投入口へ入れた。
「やめろおおッ!」
榊原の絶叫。
遼は躊躇なく、起動レバーを下ろした。
重い機械音が室内に響く。
内部で金属が噛み合い、押し潰される嫌な音が鳴る。
緑のLEDが、最後に一度だけ強く明滅し——消えた。
その瞬間、B2全体の照明が一度落ちた。
再点灯。
非常灯だけになる。
サーバ室側から、遠くアラームの音が変わる。
同期失敗。
系統断。
そう告げているような、短く乾いた警告音だった。
誰もすぐには動かなかった。
榊原だけが、信じられないものを見る目で圧縮機を見つめていた。
「……終わった」
篠崎がかすれた声で言う。
だが遼は、終わったとは思えなかった。
榊原の言葉がまだ胸に残っていたからだ。
私は実行管理者にすぎない。決めているのは外だ。
つまり、NOCTはここで止まっても、話そのものは終わっていない。
父が命をかけて暴こうとした相手は、まだその先にいる。
そのとき、B2通路の奥から複数の足音が近づいてきた。
会社の警備ではない。もっと統制された、迷いのない足音。
篠崎が顔を上げる。
矢島も息を呑む。
次の瞬間、圧縮処理室の入口に黒いスーツの男女が三人現れた。
全員が無表情で、胸元に見慣れないバッジをつけている。
中央の女が、静かな声で言った。
「こちらで引き継ぎます」
榊原の顔から血の気が引いた。
「なぜ、もう来た……」
女は榊原を見ず、まっすぐ遼を見た。
「岸本遼さんですね。お父様の件も含め、正式にお話ししたいことがあります」
遼は圧縮機の前に立ったまま、その女を見返した。
「あなたたちは誰ですか」
女は一拍置いて、事務的に答えた。
「監督機関の回収班です。ただし、表向きには存在しません」
そして、わずかに視線を落として続けた。
「なお、お母様は現在保護されています。生存しています」
遼の心臓が強く跳ねた。
生きている。
その言葉だけで、張りつめていた何かが崩れそうになる。
だが次の一言が、すぐにそれを凍らせた。
「ただし——修司氏の死因については、あなたが今思っているものより、さらに悪い」
圧縮処理室の空気が、一段深く冷えた気がした。
NOCTは止まった。
だが真実は、まだ一番深いところを見せていない。




