エピソード③ 港第三倉庫跡
港第三倉庫跡は、町の外れに取り残された古い物流区画の一角にあった。海沿いの道路は夜になると車通りも少なく、街灯の光は頼りない。十九時半より十分早く着いた岸本遼は、防波堤の陰に身を隠し、倉庫跡の様子をうかがっていた。
昼間からずっと、胸の中がざわついていた。
旧A棟で見つけた基板。
手書きの文字。
非通知の女の声。
そして最後のメッセージ。
あなたのお父さんのことを知っている。
遼の父・岸本修司は、遼が中学生の頃に家を出たまま戻らなかった。失踪扱いだった。母は多くを語らず、「仕事のことで遠くへ行った」とだけ言い続けた。だが、成長するにつれ、それが本当ではないことくらい分かるようになった。遼の中で父は、空白のまま固まった存在だった。
その空白を、今さら誰かが揺らしている。
海風が強く吹き、遼は上着の襟を押さえた。時刻は十九時二十八分。倉庫跡の入口は錆びたフェンスで半分だけ塞がれている。その向こうに、ヘッドライトを消した軽ワゴンが一台止まっていた。
誰かいる。
遼はケースを抱え直し、慎重に足を進めた。フェンスの切れ目から中へ入る。アスファルトはひび割れ、古いパレットが雨ざらしになっている。倉庫の壁面にはかつての会社名の跡が薄く残り、黒ずんだシャッターが半開きのまま止まっていた。
「岸本くん?」
女の声だった。
遼は振り向く。
シャッター脇の暗がりから、一人の女性が姿を現した。三十代後半か四十代前半。黒いパーカーに細身のパンツ、肩口で切りそろえた髪。化粧気の少ない顔立ちだが、目だけが異様に鋭い。工場の人間ではない。少なくとも遼には見覚えがなかった。
「……あなたが電話を?」
「そう。まず、それを見せて」
女はケースを顎で指した。
遼は動かなかった。
「先に名乗ってください」
数秒の沈黙。女は小さく息をついた。
「篠崎真帆。三年前まで、君の会社で開発補助をしていた」
遼は眉をひそめた。そんな名前は聞いたことがない。社内名簿にも覚えがなかった。
「嘱託だったから、表には残ってない。残さないようにされた」
「何のために」
「NOCTのために」
その言葉に、遼の指先が強張った。
篠崎は周囲を一度見回し、遼に近づきすぎない距離で立ち止まった。「時間がない。矢島も動いてる。たぶんもう私のことも嗅ぎつけてる」
「矢島さんは、何を隠してるんですか」
「矢島一人じゃない。会社ぐるみよ」
篠崎の声は低いが、断定的だった。作り話をしている感じではない。だが、だからこそ遼は簡単に信じきれなかった。
「三年前の事故で亡くなったのは設備担当の一人だけ、そう聞いてるはず」
「表向きはね」
「じゃあ、本当は?」
篠崎は一瞬だけ視線を逸らし、それからはっきり言った。
「二人よ。もう一人は記録から消された」
波の音が、不自然なくらい大きく聞こえた。
遼は何も言えなかった。
「消されたもう一人が、君のお父さん。岸本修司」
頭の中で何かが弾けたような感覚があった。理解が追いつかない。言葉は聞き取れているのに、意味だけが遅れてやってくる。
「……父が、三年前に?」
「ええ」
「でも、父はもっと前にいなくなってる」
「表向きにはね」
篠崎はポケットから古びた社員証を取り出した。写真付きの入構証だった。印字は擦れているが、名前の一部は読み取れる。
岸本 修司
遼は息を呑んだ。
間違いなく父の顔だった。若い頃の記憶より痩せ、疲れているが、父だと分かる。
「どうしてこれを……」
「私が預かってた。事故のあと、全部処分される前に抜いた」
「待ってください。話が合わない。父はずっと前に家を出て——」
「家族にはそう処理されたの。君のお父さんは、社内では別名義で戻っていた。NOCTの担当として」
遼はその場に立ったまま、足元がわずかに揺れるのを感じた。父は失踪したのではなく、名前を変えて戻っていた。しかも自分の勤める会社に。そんな話があるのか。なぜ。何のために。
篠崎は遼の動揺を見ながらも、話を止めなかった。
「NOCTは普通の製品開発じゃない。社内でも一部しか知らない、秘匿案件だった。表向きは環境監視系の試作基板。でも実際は違う」
「何が違うんですか」
「記録を残さず、特定の機器や回線に入り込むための制御基板。遠隔監視と侵入、その両方に使えるよう設計されてた」
遼の背筋が冷えた。工場で作るには異質すぎる内容だ。
「そんなもの、うちみたいな会社で——」
「だからこそ都合がよかったのよ。外から見ればただの基板試作と実装にしか見えない。分散して作れば、全体像を知る人間は少なくて済む」
篠崎はケースを見る。「君が持ってるのは試作最終版。その中には、開発ログの一部が埋め込まれてる可能性が高い」
「ログ?」
「修司さんの保険よ。何かあったとき、証拠が消されないように」
遼はケースをさらに強く抱いた。父がそんなことをしていた。信じがたいが、旧A棟で見つけた基板の異様さを思い返すと、全部がただの妄想とも思えない。
「父は事故で死んだんですか」
篠崎の表情が固くなる。
「私は、殺されたと思ってる」
その一言が、海風よりも冷たく遼の胸に入り込んだ。
「事故当日の報告書は改ざんされていた。感電事故なんて嘘。旧A棟の検査室で、データを外へ持ち出そうとして揉み合いになった。そう聞いた」
「誰から」
「本人から」
篠崎はそう言って、スマートフォンを取り出した。「亡くなる二日前、修司さんから音声データが送られてきた」
画面を操作し、再生ボタンを押す。
ノイズ混じりの短い音声が流れた。
『もしこれを聞いてるなら、もう時間がない。NOCTは止めないと駄目だ。矢島は——』
そこで音声は乱れ、切れた。
たしかに男の声だった。低く、掠れている。遼は何年も聞いていない父の声を即座に判別できる自信はなかった。だが、胸の奥が妙にざわついた。記憶の底に沈んだ声色と、どこか重なる。
「全部は残ってない。でもこれで十分だった。修司さんは危険を察してた」
そのときだった。
倉庫の外で、車のドアが閉まる音がした。
篠崎の顔色が変わる。
「まずい」
「誰ですか」
「たぶん追ってきた」
すぐ後に、足音が複数。倉庫跡の入口側から、懐中電灯の光が二本、三本と差し込んできた。フェンス越しに男たちの声が聞こえる。
「中だ!」
「ライト当てろ!」
篠崎は低く言った。「奥に非常階段がある。海側へ抜けられる」
「でも、あなたは」
「君が基板を持って逃げて。私は別方向へ引く」
「それじゃ——」
「君じゃないと駄目なの。修司さんが残したものは、君にしか開けない」
遼は反射的に篠崎を見た。「どういう意味ですか」
篠崎が答える前に、シャッターが外から激しく叩かれた。
ガン! ガン! ガン!
「岸本! いるのは分かってるぞ!」
その声に、遼の全身が硬直した。
矢島だった。
篠崎は遼の腕をつかみ、倉庫の奥を指す。「行って! 次は駅前のコインロッカー。番号は——」
言いかけた瞬間、倉庫内に強い光が差し込んだ。脇の通用口が開けられたのだ。男が二人、シルエットになって立っている。ひとりは作業服姿。もうひとりはスーツだった。
遼はケースを抱えたまま走り出した。
後ろで篠崎の怒鳴り声。
追う足音。
鉄骨階段の軋む音。
海側の出口まで数十メートル。その距離がやけに遠い。
背後で、矢島の声がさらに鋭く響く。
「それを渡せ、岸本! お前の父親みたいになりたくなければな!」
遼は振り返らなかった。
もう疑いようがなかった。
父はこの事件の中にいた。
そして今、自分も完全にその中へ引きずり込まれている。
海の匂いのする闇の中へ飛び出した瞬間、遼の頭の中には一つの言葉だけが残っていた。
君にしか開けない。
基板に、父は何を残したのか。
そして、自分はなぜ“選ばれた”のか。




