エピソード② 旧A棟 保管棚-3
旧A棟へ続く渡り廊下は、現役の工場棟よりも明らかに空気が重かった。昼間であるはずなのに薄暗く、金網の向こうに見える窓はどれも曇っている。岸本遼は人目を避けるように歩きながら、ポケットの中の鍵束を何度も握り直した。
ただの確認だ。
棚を見て、何もなければ戻ればいい。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥のざわつきは収まらない。始業後の現場は忙しい。抜け出していることが見つかれば叱られるだろう。だが、それ以上に気になっていたのは、朝の社内チャットだった。
**消すな。先に棚を見ろ。**
あの文面には妙な確信があった。遼が旧A棟へ向かうことを、最初から見越していたような。
立入禁止の札がかかった扉の前で立ち止まり、鍵束を一本ずつ差していく。三本目で、古いシリンダーが重く回った。乾いた金属音が、静かな通路にやけに大きく響く。
扉を開けた瞬間、湿った埃の匂いが流れ出てきた。
旧A棟の中は、時間だけが取り残されたような空間だった。使われなくなった作業台、養生テープの剥がれかけた床、壁際に寄せられた空のコンテナ。蛍光灯の何本かは死んでいて、奥の方は影の塊のように見える。
遼はスマートフォンのライトをつけ、棚番号を探した。
保管棚-1。
保管棚-2。
そして、最奥に**保管棚-3**。
棚そのものは残っていたが、周囲には立入禁止テープが乱雑に巻かれていた。事故現場の封鎖みたいで、背筋が冷える。遼は一瞬ためらったあと、テープを外し、棚の段を上から順に照らした。
空箱。
古い仕掛品の札。
部材袋。
そして、一番下の段にだけ、黒い樹脂ケースが一つ置かれていた。
現行品では使わない古いケースだ。表面には白いラベルが貼られ、油性ペンでこう書かれている。
**KR-47N / NOCT**
遼の喉が鳴った。
「あるのかよ……」
思わず出た声が、がらんとした空間に吸い込まれる。ケースを持ち上げると、見た目よりも重い。中身が入っている。しかも最近置かれたのか、表面の埃だけが不自然に拭われていた。
留め具を外す。
ふたを開ける。
中に入っていたのは、静電防止袋に包まれた基板だった。
ライトを近づけた遼は息を止めた。
それは確かに社内で作られた基板だった。シルクの入れ方も、ランドの癖も、自社設計の流儀そのものだ。だが、基板上の型番印字は見たことがない。
**NOCT-47 / Rev.0**
しかも、部品の実装状態が奇妙だった。通常の試作なら評価用の空きパターンや手修正痕がある。だがこの基板は、最初から完成形を知っていたかのように整いすぎている。試作機とも量産機とも違う、不自然な美しさだった。
遼は袋から基板を少しだけ取り出し、裏面を見た。
その瞬間、肩から腕にかけて電流のようなものが走った。
裏面に、小さな手書き文字があったのだ。白いマーカーで、端にひっそりと。
**見つけたなら、まだ間に合う。**
遼は反射的に基板を落としかけ、慌てて持ち直した。
誰が書いた。いつ書いた。何が“まだ間に合う”んだ。
呼吸が浅くなる。旧A棟の静けさが急に濃くなった。自分以外に誰かいるのではないか、そんな気配ばかりが膨らむ。
そのとき、遠くで何かが倒れる音がした。
ガタン。
遼は硬直した。音は棚のさらに奥、元検査室の方向から聞こえた気がする。ライトを向けても、暗がりしか見えない。
「……誰かいるんですか」
返事はない。
代わりに、もう一度。
ガタン。ギギ……。
今度は明確だった。扉が、ゆっくり動く音だ。
遼はケースを抱えたまま一歩下がった。足元の埃に、自分のものではない靴跡があることに気づく。古いものではない。輪郭が崩れておらず、ついさっきついたみたいに新しい。しかも一人分ではなく、少なくとも二人。
背中に冷たい汗が流れた。
逃げた方がいい。そう思った瞬間、棚の陰から小さな電子音がした。
ピッ。
ケースの中だ。遼は目を落とす。基板の端に、小さな緑色のLEDが点滅していた。電源など入っていないはずなのに、まるで眠っていたものが目を覚ましたように、一定の間隔で光っている。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
そしてスマートフォンが震えた。非通知の着信。遼は数秒ためらった末、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
ノイズ混じりの向こうで、かすれた女の声がした。
『それを持って、すぐ出て』
「誰ですか」
『矢島に見せたら終わる』
息を呑む。
次の問いを口にするより早く、女は続けた。
『三年前に死んだのは、一人じゃない』
ぶつり、と通話は切れた。
遼は凍りついたままスマートフォンを見つめた。三年前の事故。朝、頭をよぎった言葉。それが今、目の前の基板とつながった。事故で死んだのは一人。そう社内では説明されていた。設備点検中の感電事故。報告書もそうなっていたはずだ。
だが、もしそれが違うなら。
その瞬間、旧A棟の入口側で扉が強く閉まる音がした。
バンッ!
遼ははっと顔を上げる。誰かが入ってきた。重い靴音が、まっすぐこちらへ近づいてくる。隠れる暇はない。ケースを抱えたまま、遼は棚の横の非常口へ駆けた。錆びたレバーを押し下げると、赤い警報灯が一瞬だけ点滅したが、幸い警報音は鳴らない。
背後から男の声が飛ぶ。
「岸本! そこにいるのか!」
矢島の声だった。
遼は振り返らなかった。
非常口の外へ飛び出し、冷たい外気を吸い込む。胸が痛いほど脈打っている。腕の中のケースは現実の重さを持っていた。
もう、入力ミスでは済まない。
あの番号は実在していた。
しかも誰かが、今もそれを隠そうとしている。
遼は工場の裏手の死角に身を潜め、ケースを強く抱きしめた。
手書きの文字が、頭の中で何度もよみがえる。
**見つけたなら、まだ間に合う。**
何に。
誰を。
何から。
答えのないまま、彼のスマートフォンに新しいメッセージが届いた。差出人不明。本文は短い住所と時刻だけ。
**今夜 19:30 港第三倉庫跡**
その下に、最後の一文が添えられていた。
**あなたのお父さんのことを知っている。**




