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エピソード① ないはずの番号

 四月の終わり、朝の工場はまだ少し冷えていた。始業のベルが鳴る前、岸本遼はいつものように事務所の端の机に座り、生産実績の一覧を開いていた。毎朝やる確認作業だ。前日の投入数、実装数、不良数、保留理由。数字は正直で、たいていは人間より先に異変を知らせる。


 その日も、最初はただの数字の並びにしか見えなかった。


 だが、スクロールを止めた遼の指が、ふいに固まった。


 品名欄に、見慣れない型番が一つだけ紛れ込んでいた。

 **KR-47N / NOCT**

 社内の命名規則に似ているようで、どこか違う。客先コードでもない。試作番号にも該当しない。登録日付は昨夜二十三時四十分。担当者欄は空白。なのに工程進捗だけは妙に整っていて、「受入」「印刷」「実装」「外観確認」まで完了になっていた。


「……なんだこれ」


 遼は小さくつぶやき、履歴を開いた。更新者名は表示されない。かわりに「管理者権限により変更」とだけ出る。管理者権限を持つのは限られた人間だけだ。しかし昨夜の時間帯、工場はとうに閉まっている。残業届も見ていない。


 背後でドアが開き、現場主任の矢島が入ってきた。五十代半ば、怒鳴らない代わりに低い声で人を黙らせるタイプだ。


「おはようございます」


「ああ。早いな」


 遼は迷ったが、画面をそのまま見せた。「この型番、見覚えありますか」


 矢島は老眼鏡をかけ、モニターをのぞき込んだ。数秒の沈黙。だが次の瞬間、彼は何でもない顔で眼鏡を外した。


「入力ミスだろ。消しとけ」


「でも工程が全部進んでます。ログも管理者権限で——」


「聞こえなかったか。消しとけ」


 口調は強くなかった。だが、そこで会話は終わりだと言っていた。矢島はそれ以上画面を見ようともせず、現場へ向かった。


 遼はひとり残され、しばらくカーソルをその番号の上に置いたまま動けなかった。矢島が中身を確認せずに“入力ミス”と決めつけたことが妙に引っかかった。あの人は、分からないことを分からないままにしておくのを嫌う。そんな人間が、今は逆に見ないようにした。


 嫌な感じがした。


 遼は一覧から部材紐付け画面へ飛んだ。KR-47N / NOCT に登録された使用部品の一つひとつを確認する。抵抗、コンデンサ、コネクタ、マイコン。構成自体は珍しくない。だが、最後の一行で息が止まった。


 **基板入庫場所:旧A棟 保管棚-3**


 旧A棟は三年前に閉鎖された建屋だ。雨漏りと配線老朽化で立入禁止になり、今は資材も設備もほとんど移設されている。保管棚番号も、すでにシステム上では削除されたはずだった。


「なんで残ってる……」


 遼は周囲を見た。まだ誰も気にしていない。始業前の静けさの中、空調の低い唸りだけが聞こえる。


 そのとき、社内チャットが鳴った。送信者は表示されない。本文は一行だけだった。


**消すな。先に棚を見ろ。**


 全身に薄い鳥肌が立った。いたずらにしてはタイミングがよすぎる。だが、誰が送ったのか分からない。送信元を追おうとした瞬間、メッセージは履歴から消えた。最初から存在しなかったみたいに、きれいに。


 遼は椅子にもたれ、乾いた唇を舌で湿らせた。


 旧A棟には近づくな。入社したころから、先輩たちは半分冗談、半分本気でそう言っていた。夜に警備センサーが反応するだの、廃棄したはずの台帳が戻ってくるだの、くだらない怪談はいくつも聞いた。遼は一度も信じたことがない。


 だが今、モニターに残る“ないはずの番号”と、“存在しないはずの棚”は、冗談にしてはできすぎていた。


 始業ベルが鳴った。


 現場が動き始める音を聞きながら、遼は静かに画面を閉じた。そして誰にも言わず、ポケットに旧棟の鍵束を入れた。総務の引き出しの奥で埃をかぶっていたものだ。昨夜、なぜか気になって持ち出してしまっていた。


 まるで、こうなるのを知っていたみたいに。


 その朝、遼はまだ知らなかった。

 たった一つの型番が、三年前に終わったはずの事故と、消えた記録と、ある人間の死に直結していることを。

 そして自分自身も、その番号と無関係ではないことを。


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