第9話 盗作の噂で工房を閉じる日
翌朝、街区へ入る路地の壁に、見慣れない紙が何枚も貼られていた。
雨に濡れないよう油紙で覆われている。けれど、掲示板のものより文字が大きく、通りすがりの誰もが読めるようになっていた。
『時計職人リゼット、他人の設計を盗用』
『雨告げ時計の修復は、港都の工房から持ち出した技術によるもの』
『無断で工房を離れた見習いに、街の時計を任せてよいのか』
紙の下には、三本針商会の紋章ではなく、私が以前いた工房――ベルナール工房の印が押されていた。
胸の奥が冷たくなった。
「これは、盗作の告発書だ」
ユアンが紙を剥がしながら言った。
「設計図が公開されているなら、盗作とは言えません」
「公開されていなければ?」
私は返事をせず、紙の隅に描かれた図を見つめた。
そこには、雨告げ時計の心臓部である調速輪と、地下水路の弁を連動させる仕組みが描かれていた。私が工房で考案したものに似ている。似ているどころか、歯車の数も、軸の位置も、ほとんど同じだった。
だが、ひとつだけ違う。
中央の軸受けが逆向きになっている。
「この図では、三日も動きません」
「では、偽物か」
「偽物に見せるための図です」
私は指先で紙を押さえた。
「誰かが私の設計を写して、わざと壊れる形に変えた。これを証拠に、私がベルナール工房の技術を盗んだと言うつもりです」
背後で、人の気配が揺れた。
振り返ると、昨日まで集会にいた住民たちが、路地の入口に立っていた。皆、紙を読んでいる。誰かが私を見て、すぐに目をそらした。
「リゼットが盗んだって、本当なのか」
市場の男が尋ねた。
「違います」
「でも、工房の印がある」
「私が使っていた道具の型を、ベルナール工房が登録しているだけです。古い時計の仕組みまで、工房の所有物にはできません」
「商会に訴えられたら、私たちも巻き込まれるんじゃないか」
別の声が続いた。
私は口を開きかけた。けれど、その瞬間、過去の工房が脳裏によみがえった。
私が修理した懐中時計を、親方が自分の成果として客へ渡した日。私の名前を書いた設計紙を、親方が破り捨てた日。抗議した私に、「見習いが口を出すな」と言った日のこと。
あの時も、皆は目をそらした。
「リゼット」
ユアンの声が私を現在へ引き戻した。
「工房へ戻ろう。ここでは話が広がりすぎる」
「戻りません」
「しかし、噂が広がれば修復会そのものが疑われる」
「だからこそ、ここで説明します」
私は住民たちの前へ一歩出た。
「私はベルナール工房で、何度も修理をしました。けれど、私の名前で記録された仕事は一つもありません。成果を横取りされたことも、設計を使われたこともあります。それでも、私が盗んだと言われる理由にはなりません」
声が震えた。怒りなのか、恐れなのか、自分でもわからない。
「この時計を直したのは、私一人ではありません。ユアンが古い記録を探し、グレンが弁を磨き、皆さんが水路を掃除した。誰か一人の所有物にするための時計ではないんです」
少女が人の輪から顔を出した。
「リゼットは、私のお母さんの時計も直してくれた」
小さな声だった。
「盗んだ人は、壊れた時計を直さないよ」
誰も笑わなかった。
その日の昼過ぎ、ベルナール工房から使いの男が来た。黒い外套の胸元に、銀色の歯車章をつけている。
「ベルナール親方は、あなたに工房名義の技術を無断使用した責任を問う」
男は封書を差し出した。
「本日中に修復作業を中止し、設計図と工具を提出しなさい。応じない場合は、盗作の証拠を役所へ提出する」
「証拠とは、あの偽の図ですか」
「図が偽物だと、あなたが証明できますか?」
男は薄く笑った。
「街区の人々を巻き込む前に、身を引くことです。見習いが一人で工房を開くなど、身の程を知りなさい」
ユアンが封書を奪うように受け取った。
「帰れ」
「監督官が職人同士の争いに口を出すのか」
「これは街区の設備に関わる。口を出す権限がある」
男は肩をすくめ、霧の中へ消えていった。
封書には、今日付けで工房を閉じるよう命じる文面と、私がベルナール工房から盗み出したという道具の一覧が記されていた。
一覧にある道具の中には、私が自分で買った小型の鑢まで含まれている。
「これを受けたら、あなたは修復会に出られない」
ユアンが言った。
「出ます」
「リゼット、相手は噂だけでなく、役所の手続きまで動かしている」
「わかっています」
私は自分の腰袋を見下ろした。何年も使い続けた鑢、油差し、折れた針金。どれも高価ではない。けれど、親方の工房を出る時に持ってきた、数少ない私の所有物だった。
「なら、今日で工房を閉じます」
グレンが目を見開いた。
「諦めるのか?」
「いいえ。ベルナール工房を閉じます」
私は路地の端にある小さな修理小屋の扉を見た。これまで、住民が持ち寄った部品を置いていた場所だ。
「私が借りている名前も、場所も、道具も、全部いったん返します。盗んだと言われるものを使わずに、明日の公開修復会へ出る」
「そんなことをしたら、何も残らない」
「残ります」
ユアンが静かに言った。
「記録と、直した時計と、ここにいる人々が残る」
その言葉に、住民たちが一人ずつ動き始めた。
布屋の女が、使っていない作業台を運んできた。水番の老人は、祖父から受け継いだ古い工具箱を差し出した。グレンは港の船大工から借りた木槌を持ってきた。
私は修理小屋の看板を外した。
そこには、誰かが勝手に書いた「ベルナール工房出張所」という文字が残っていた。私はそれを削り、白い板だけにした。
新しい名前は、まだ決めなかった。
夕方、時計塔の下で、私たちは借り物の道具を並べた。
設計図も、ベルナール工房の名が入った紙は使わない。住民が覚えている故障の時刻、水路の記録、私自身の作業記録を一枚ずつ書き直した。
ユアンはその作業を黙って見ていたが、最後に一枚の紙を差し出した。
「これは?」
「監督官としての証明書だ。雨告げ時計の修復責任者は、リゼット。街区の合意に基づき、明日の公開修復会を行うと記してある」
「あなたまで責任を負うつもりですか」
「対等に挑むと言っただろう」
窓の外で、霧が濃くなっていた。
夜半、時計塔の鐘が三度鳴った。音はまだ少し濁っていたが、今までより遠くまで届いた。
私は空白の看板を撫でた。
工房を閉じる日が、工房を始める最初の日になるなんて、その時の私はまだ知らなかった。




