第10話 歯車に残った、商会の刻印
公開修復会の朝、霧はいつもより低く垂れこめていた。
時計塔の石壁は白く濡れ、足元の石畳には夜の雨が細い水たまりを作っている。けれど、塔の前にはすでに人が集まり始めていた。布屋の女、港の水番、船大工のグレン。昨日まで不安そうに紙を見ていた住民たちも、今朝はそれぞれ手に道具や記録帳を持っている。
私は借り物の作業台に、雨告げ時計の部品を並べた。
外した歯車、磨き直した軸、地下水路へつながる弁の金具。その中央に、問題の調速輪を置く。
「本当に、ベルナール工房の道具は使わないんだな」
グレンが尋ねた。
「使いません。今日使うものは、すべてここにある人たちから借りました」
私は作業台の端に置かれた古い工具箱を見た。錆びた鑢も、柄の擦り減った小槌も、私が以前使っていた道具よりずっと扱いにくい。それでも、誰のものかわからない道具ではない。持ち主の名前を聞き、借用の記録も書いた。
ユアンは塔の入口に立ち、集まった人々へ修復会の手順を説明していた。
「最初に、故障の原因を公開する。次に、リゼットが修復を行う。その間、誰でも質問してよい。最後に、時計を動かし、記録と照合する」
「質問なら、私からさせてもらおう」
人の輪の向こうから声がした。
黒い外套の男が歩いてくる。その後ろには、ベルナール工房の親方と、銀色の歯車章をつけた三本の男たちがいた。
三本歯車商会の使いだった。
「公開修復会とは聞こえがいいが、盗用した技術を披露する場ではない」
親方が言った。
私は胸の奥が締まるのを感じた。ベルナール親方と顔を合わせるのは、工房を出て以来初めてだった。
「私は誰の技術も盗んでいません」
「ならば、なぜ工房にあった設計と同じ仕組みを使っている?」
「古い街区の時計に、あなたの工房が発明した印でもついているんですか」
親方の眉がわずかに動いた。
その時、ユアンが机の上の部品を見下ろした。
「印なら、ある」
彼は調速輪を持ち上げた。
「昨夜、歯の一つに細い刻みを見つけた。これは設計者の印か?」
私は部品を受け取り、拡大鏡を覗いた。歯車の側面に、三本の細い線が刻まれている。三本歯車商会の紋章に似ているが、正式な印とは少し違った。
「これは後から刻まれたものです」
「どうしてわかる」
「歯車の表面だけが新しく削られています。刻みの底に、研磨油ではなく黒い砂が残っている」
私は細い針で溝をなぞった。
「港の乾ドックで使われる研磨砂です。時計を作った時の刻印なら、歯車全体を磨く前に入れるはず。でもこれは、組み立てた後に外側から刻まれている」
住民の間からざわめきが起きた。
三本歯車商会の男が一歩前へ出た。
「商会の印に似せた刻みを、私たちが入れたと言いたいのか」
「そうは言っていません」
私は刻印から目を離さなかった。
「誰かが、商会の所有物に見せるために入れたと言っています」
ユアンが調速輪を受け取り、刻みを指で確かめた。
「この部品は、いつ交換された?」
「雨告げ時計の修理記録では、二年前だ」
彼は古い帳面を開いた。そこには街区監督所の記録と、部品を納めた業者の名が残っている。
「納入元は三本歯車商会」
「それだけで工作の証拠になると?」
親方が笑った。
「商会は街中の部品を扱っている。納品した部品が壊れたからといって、商会が壊したことにはならない」
「では、これはどう説明する」
ユアンが帳面の一行を示した。
「調速輪の納入数は二つ。ひとつはこの時計に取り付け、もうひとつは予備として倉庫に保管したとある。だが、街区の倉庫には予備がなかった」
グレンが声を上げた。
「俺たちは去年、倉庫を空にして掃除した。そんな歯車は見ていない」
「予備が別の場所へ運ばれた可能性もある」
「ならば納品先の記録があるはずです」
私は帳面の余白を指した。
「ここだけ、書き直されています」
墨の色が違っていた。古い紙の上に新しい文字を重ねた跡がある。私は濡らした布で表面を軽く撫でた。すると後から塗られた墨がにじみ、下に薄い文字が浮かんだ。
そこには、かすかにこう残っていた。
『旧水門街区、地下保管庫へ搬入』
ユアンの顔色が変わった。
「地下保管庫は、去年の春に閉鎖された」
「閉鎖した理由は?」
「水漏れだ。中に入れないほどではなかったが、商会の代理人が危険だから撤去すると言ってきた」
グレンが拳を握った。
「撤去したのは、三本歯車商会の連中だ」
三本歯車商会の男たちは、互いに目を合わせた。
私は刻印のある歯車を作業台へ戻した。
「この歯車は、街区の時計を壊すために最初から作られたものではありません。正しい部品に、後から細工が加えられた。軸受けを逆向きにした偽の設計図も、その細工を隠すためだった」
「推測にすぎない」
親方が低く言った。
「では、実物で確かめます」
私は調速輪の軸を外し、刻印の裏側を見せた。
「歯車を固定するための小さな穴があります。そこに、細い銅線の切れ端が詰まっている。誰かが回転を止めるため、軸の隙間へ銅線を押し込んだんです」
グレンが息をのんだ。
私は針先で銅線を引き出した。短い、黒ずんだ金属片だった。
「時計が動き始めるまで、壊れた原因が見つからないようにしていた。けれど、雨が降るたび水圧が変わり、銅線が少しずつずれて、時刻が狂った」
住民たちの視線が、親方と商会の男たちへ集まった。
「商会は、時計が直らない街区を安く買い取るつもりだったんですね」
誰かが言った。
否定の声は返らなかった。
親方は顔を赤くしたが、商会の男は冷たい目で私を見た。
「たとえ誰かが細工したとしても、あなたが修復を成功させられる保証はない」
「今から確かめます」
私は新しい軸を差し込み、歯車を組み直した。住民たちが見守る中、ユアンが水路の弁を開く。地下から低い振動が伝わり、歯車がゆっくり噛み合った。
一回。
二回。
三回。
濁っていた音が、少しずつ澄んでいく。
やがて時計塔の鐘が鳴った。
霧の街区を越え、港の方まで届く音だった。
人々から歓声が上がる。私は安堵で膝から力が抜けそうになった。
その時、歯車の刻印が朝の光を受けて浮かび上がった。
三本の線のうち一本だけが、深く削られている。
私はそれを見つめた。
これはただの証拠ではない。誰かが街区を奪うために残した、商会の刻印だ。
ユアンが隣に立った。
「次は、その地下保管庫を調べる」
「ええ。そこに、もう一つの歯車があるはずです」
鐘の余韻が消えたあとも、住民たちはその場を離れなかった。
私たちはようやく、壊れた時計を直した。
けれど、街区を壊そうとした仕組みは、まだ地下の暗がりに残っている。




