↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
壊れた時鐘を直したら、忘れられた街に春が来た  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/20

第10話 歯車に残った、商会の刻印

 公開修復会の朝、霧はいつもより低く垂れこめていた。


 時計塔の石壁は白く濡れ、足元の石畳には夜の雨が細い水たまりを作っている。けれど、塔の前にはすでに人が集まり始めていた。布屋の女、港の水番、船大工のグレン。昨日まで不安そうに紙を見ていた住民たちも、今朝はそれぞれ手に道具や記録帳を持っている。


 私は借り物の作業台に、雨告げ時計の部品を並べた。


 外した歯車、磨き直した軸、地下水路へつながる弁の金具。その中央に、問題の調速輪を置く。


「本当に、ベルナール工房の道具は使わないんだな」


 グレンが尋ねた。


「使いません。今日使うものは、すべてここにある人たちから借りました」


 私は作業台の端に置かれた古い工具箱を見た。錆びた鑢も、柄の擦り減った小槌も、私が以前使っていた道具よりずっと扱いにくい。それでも、誰のものかわからない道具ではない。持ち主の名前を聞き、借用の記録も書いた。


 ユアンは塔の入口に立ち、集まった人々へ修復会の手順を説明していた。


「最初に、故障の原因を公開する。次に、リゼットが修復を行う。その間、誰でも質問してよい。最後に、時計を動かし、記録と照合する」


「質問なら、私からさせてもらおう」


 人の輪の向こうから声がした。


 黒い外套の男が歩いてくる。その後ろには、ベルナール工房の親方と、銀色の歯車章をつけた三本の男たちがいた。


 三本歯車商会の使いだった。


「公開修復会とは聞こえがいいが、盗用した技術を披露する場ではない」


 親方が言った。


 私は胸の奥が締まるのを感じた。ベルナール親方と顔を合わせるのは、工房を出て以来初めてだった。


「私は誰の技術も盗んでいません」


「ならば、なぜ工房にあった設計と同じ仕組みを使っている?」


「古い街区の時計に、あなたの工房が発明した印でもついているんですか」


 親方の眉がわずかに動いた。


 その時、ユアンが机の上の部品を見下ろした。


「印なら、ある」


 彼は調速輪を持ち上げた。


「昨夜、歯の一つに細い刻みを見つけた。これは設計者の印か?」


 私は部品を受け取り、拡大鏡を覗いた。歯車の側面に、三本の細い線が刻まれている。三本歯車商会の紋章に似ているが、正式な印とは少し違った。


「これは後から刻まれたものです」


「どうしてわかる」


「歯車の表面だけが新しく削られています。刻みの底に、研磨油ではなく黒い砂が残っている」


 私は細い針で溝をなぞった。


「港の乾ドックで使われる研磨砂です。時計を作った時の刻印なら、歯車全体を磨く前に入れるはず。でもこれは、組み立てた後に外側から刻まれている」


 住民の間からざわめきが起きた。


 三本歯車商会の男が一歩前へ出た。


「商会の印に似せた刻みを、私たちが入れたと言いたいのか」


「そうは言っていません」


 私は刻印から目を離さなかった。


「誰かが、商会の所有物に見せるために入れたと言っています」


 ユアンが調速輪を受け取り、刻みを指で確かめた。


「この部品は、いつ交換された?」


「雨告げ時計の修理記録では、二年前だ」


 彼は古い帳面を開いた。そこには街区監督所の記録と、部品を納めた業者の名が残っている。


「納入元は三本歯車商会」


「それだけで工作の証拠になると?」


 親方が笑った。


「商会は街中の部品を扱っている。納品した部品が壊れたからといって、商会が壊したことにはならない」


「では、これはどう説明する」


 ユアンが帳面の一行を示した。


「調速輪の納入数は二つ。ひとつはこの時計に取り付け、もうひとつは予備として倉庫に保管したとある。だが、街区の倉庫には予備がなかった」


 グレンが声を上げた。


「俺たちは去年、倉庫を空にして掃除した。そんな歯車は見ていない」


「予備が別の場所へ運ばれた可能性もある」


「ならば納品先の記録があるはずです」


 私は帳面の余白を指した。


「ここだけ、書き直されています」


 墨の色が違っていた。古い紙の上に新しい文字を重ねた跡がある。私は濡らした布で表面を軽く撫でた。すると後から塗られた墨がにじみ、下に薄い文字が浮かんだ。


 そこには、かすかにこう残っていた。


『旧水門街区、地下保管庫へ搬入』


 ユアンの顔色が変わった。


「地下保管庫は、去年の春に閉鎖された」


「閉鎖した理由は?」


「水漏れだ。中に入れないほどではなかったが、商会の代理人が危険だから撤去すると言ってきた」


 グレンが拳を握った。


「撤去したのは、三本歯車商会の連中だ」


 三本歯車商会の男たちは、互いに目を合わせた。


 私は刻印のある歯車を作業台へ戻した。


「この歯車は、街区の時計を壊すために最初から作られたものではありません。正しい部品に、後から細工が加えられた。軸受けを逆向きにした偽の設計図も、その細工を隠すためだった」


「推測にすぎない」


 親方が低く言った。


「では、実物で確かめます」


 私は調速輪の軸を外し、刻印の裏側を見せた。


「歯車を固定するための小さな穴があります。そこに、細い銅線の切れ端が詰まっている。誰かが回転を止めるため、軸の隙間へ銅線を押し込んだんです」


 グレンが息をのんだ。


 私は針先で銅線を引き出した。短い、黒ずんだ金属片だった。


「時計が動き始めるまで、壊れた原因が見つからないようにしていた。けれど、雨が降るたび水圧が変わり、銅線が少しずつずれて、時刻が狂った」


 住民たちの視線が、親方と商会の男たちへ集まった。


「商会は、時計が直らない街区を安く買い取るつもりだったんですね」


 誰かが言った。


 否定の声は返らなかった。


 親方は顔を赤くしたが、商会の男は冷たい目で私を見た。


「たとえ誰かが細工したとしても、あなたが修復を成功させられる保証はない」


「今から確かめます」


 私は新しい軸を差し込み、歯車を組み直した。住民たちが見守る中、ユアンが水路の弁を開く。地下から低い振動が伝わり、歯車がゆっくり噛み合った。


 一回。


 二回。


 三回。


 濁っていた音が、少しずつ澄んでいく。


 やがて時計塔の鐘が鳴った。


 霧の街区を越え、港の方まで届く音だった。


 人々から歓声が上がる。私は安堵で膝から力が抜けそうになった。


 その時、歯車の刻印が朝の光を受けて浮かび上がった。


 三本の線のうち一本だけが、深く削られている。


 私はそれを見つめた。


 これはただの証拠ではない。誰かが街区を奪うために残した、商会の刻印だ。


 ユアンが隣に立った。


「次は、その地下保管庫を調べる」


「ええ。そこに、もう一つの歯車があるはずです」


 鐘の余韻が消えたあとも、住民たちはその場を離れなかった。


 私たちはようやく、壊れた時計を直した。


 けれど、街区を壊そうとした仕組みは、まだ地下の暗がりに残っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。