第11話 私は街を売らないと決めた
鐘の余韻が消えてからも、時計塔の前には人が残っていた。
誰もが、直った時計を見上げている。雨の匂いを含んだ霧の向こうで、針は正しい時刻を刻み始めていた。ほんの少し前まで、街区の人々は鐘が鳴らないことを諦めかけていたのに、今はその音を確かめるように、黙って耳を澄ませている。
「地下保管庫へ行くなら、今日のうちに行こう」
ユアンが言った。
三本歯車商会の男たちは、親方を連れて塔の外へ出ようとしていた。グレンたちが道を塞いだが、ユアンは手を上げて止めた。
「追い払う必要はない。彼らにも、見届ける責任がある」
「私たちが立ち会う義務などない」
商会の男が冷たく返す。
「では、なぜ帰ろうとするんですか」
私は尋ねた。
男は答えなかった。代わりに、親方が私を睨んだ。
「リゼット。お前は工房を出てから、ずいぶん口が達者になったな」
「工房にいた頃は、話を聞いてもらえませんでしたから」
胸の奥に、古い痛みが戻ってきた。私が直した部品を親方の名で納められたこと。失敗の責任だけを押しつけられたこと。何度説明しても、「見習いの考えなど必要ない」と遮られたこと。
けれど、今さら怒鳴り返しても仕方がない。
「私は、自分の名前で仕事をします。だから、誰かの名前を隠すために街を壊す人を見過ごせません」
ユアンが私の横顔を見た。何か言いかけたが、すぐに口を閉じる。
私たちは時計塔の裏手に回り、古い水門へ向かった。地下保管庫へ続く入口は、錆びた鉄板と木箱で塞がれていた。水漏れの跡だという話だったが、壁には乾いた泥しかない。扉の錠前も、長く使われていないようには見えなかった。
「この錠前、最近開けられています」
私はしゃがみ込み、鍵穴を覗いた。
「内側に新しい傷がある。誰かが合鍵を使った」
「閉鎖後も、商会の者が出入りしていたということか」
ユアンの声が低くなる。
グレンが鉄棒を差し込んだ。扉は重く軋み、地下から冷たい空気が流れ出した。湿った石の匂いに混じり、油と金属の匂いがする。
階段を下りると、壁際に棚が並んでいた。古い水路図、壊れた弁、交換用の歯車。どれも埃をかぶっているように見えたが、棚の一部だけは明らかに最近動かされていた。
ユアンが灯りを掲げる。
「ここだ」
最奥の棚に、木箱が三つ積まれていた。蓋には三本歯車商会の印が押されている。
「開けるぞ」
グレンが蓋を持ち上げた。
中には調速輪が一つ、布に包まれて入っていた。私が時計塔で見たものと同じ形だ。けれど、歯の数が一つだけ違う。
「予備ではありません」
私は歯車を手に取った。
「これは雨告げ時計用ではなく、街区の水圧を制御する機械用です。これを使えば、水門を遠隔で閉じられる」
「水門を?」
「水路を止めれば、街区の井戸も工房も使えなくなる。住民は別の場所へ移るしかない」
ユアンの指が、歯車の縁を強く掴んだ。
棚の下から、折り畳まれた紙が落ちた。拾い上げると、街区の地図だった。家々の名前に印がつけられ、建物の脇には金額が書かれている。
安い。あまりにも安かった。
住民が立ち退けば、商会はこの一帯を買い取れる。時計の故障も、水路の停止も、すべて街区を諦めさせるための手順だったのだ。
地図の端には、契約予定日が記されていた。
十日後。
「十日しかない」
ユアンが言った。
その時、背後で階段を踏む音がした。
振り返ると、商会の男が一人、入口に立っていた。手には短い火打ち棒が握られている。
「その地図を渡せ」
「あなたがここへ隠したんですか」
「街区を守るために必要な処置だった」
男は淡々と答えた。
「水路も時計も古すぎる。維持するより、新しい倉庫を建てた方が住民のためになる」
「住民に何も知らせず、家を安く買い取るのが?」
私は地図を胸に抱えた。
「それは守ることではありません。奪うことです」
「職人見習いが、何を知っている」
「少なくとも、壊れたものを直す前に、壊した人を探すくらいはできます」
男の顔から余裕が消えた。
彼が火打ち棒を振るより先に、ユアンが一歩前へ出た。けれど私は腕を伸ばし、彼を止めた。
「私が話します」
「リゼット」
「ここで誰かを傷つけたら、商会は私たちを暴徒に仕立てます。証拠を持って、みんなの前へ戻りましょう」
ユアンは一瞬だけ私を見つめ、それから静かに頷いた。
地下保管庫を出ると、時計塔の鐘がまた鳴った。正午の音だった。
街区の人々がこちらを振り向く。私は地図と歯車を掲げた。
「十日後、この街区は売られる予定です。水路を止め、暮らしを壊し、安く買い取る計画がありました」
ざわめきが広がる。
不安そうな顔もあった。怒りに震える顔もあった。けれど、誰一人として目を逸らさなかった。
ユアンが住民たちの前に立つ。
「私は街区監督官として、これまで伝統を守ることばかり考えていた。だが、守るべきものは建物だけではない。ここで暮らす人々の選ぶ権利だ」
彼は深く頭を下げた。
「この街を売るかどうかを決めるのは、商会ではない。私たち自身だ」
私は地図を広げた。
「なら、私は街を売らないと決めました」
声は震えなかった。
鐘がもう一度鳴った。今度は誰かに命じられた音ではなく、私たちが取り戻した街の音だった。
グレンが拳を突き上げる。
「俺もだ」
「私も」
「うちの店も残す」
一人、また一人と声が重なっていく。
十日しかない。証拠を集め、契約を止め、壊された水路を守らなければならない。簡単なことではない。
それでも、私はもう一人ではなかった。
隣に立つユアンが、低い声で言った。
「リゼット。これから、忙しくなる」
「望むところです」
霧の向こうで、港の船が汽笛を鳴らした。
その音に合わせるように、時計の針が進んでいく。
私たちの街は、まだ壊れかけている。
だからこそ、これから直すのだ。




