第12話 守る人と直す人の共同作業
翌朝、街区の広場には、普段より早く人が集まっていた。
十日後に迫った契約を止めるには、商会が水路を壊した証拠と、住民がここで暮らし続けられる証明が必要だった。地下保管庫から持ち出した地図だけでは、商会の男たちは「誰かが勝手に作った偽物だ」と言い逃れするだろう。
「まず、水門を調べます」
私は広場に置いた板の上へ、古い水路図を広げた。
「この街区の水は、時計塔の地下にある主弁を通って各家へ流れています。主弁が動けば、時計塔の制御盤にも振動が伝わる。だから、故障した調速輪の近くに、水門を操作した痕跡が残っていたはずです」
「そこへ行くのは危険だ」
ユアンがすぐに言った。
「商会が証拠を消しに来るかもしれない。グレンたちには入口を見張ってもらう」
「見張りだけでなく、住民の記録も必要です」
私は地図の端を指した。
「誰の家がいつから水不足になったか、工房の機械が止まった日、時計が狂い始めた時刻。全部、書き留めておけば工作の順番がわかります」
「記録を集めるのは私がやろう」
ユアンは地図を見つめたまま答えた。
「私はこの街区の家を知っている。誰が何年ここで暮らしているかも、どの店がどの水路を使っているかもわかる」
「では、私は機械を調べます」
「一人で行くつもりか」
「一人ではありません。グレンに工具を持ってもらいます」
「それでも、私も行く」
思わず顔を上げると、ユアンは険しい表情をしていた。
「危険だから、ではない。君が見つけたものを、私もその場で確認したい」
以前の彼なら、街の古い設備に触れることさえ許さなかっただろう。壊すかもしれない、伝統を知らない者には任せられない、と言って。
「わかりました。ただし、作業の邪魔はしないでください」
「君も、危険を見つけたら勝手に進まないこと」
「それは約束できません」
「リゼット」
「直さなければ、もっと危険になります」
ユアンはため息をついたが、口元にはわずかな笑みがあった。
昼前、私たちは時計塔の地下へ下りた。グレンが入口に立ち、ユアンはその少し後ろで周囲を見張った。私は油皿と細い鏡、測定用の糸を床に並べる。
地下の主弁は、厚い石壁の中に埋め込まれていた。弁輪の表面には、何本もの新しい傷がある。工具で無理に回した跡だった。
「これを見てください」
私は傷の一つを鏡で照らした。
「鉄粉が残っています。商会の工具と同じ合金です」
ユアンが弁の根元を調べる。やがて、指先で小さな板を拾い上げた。
「刻印がある。三本歯車商会の修理番号だ」
その板の裏には、数字と日付が刻まれていた。時計が最初に遅れた日と一致している。
「これで、商会がここを触ったことは証明できます」
「まだ足りない」
ユアンは首を振った。
「証拠を持って契約所へ行っても、商会は担当者が勝手にやったと言うだろう。住民の証言も必要だ」
「だから記録を集めているんですね」
「守るというのは、門の前に立つことだけではない。何を守ったのか、誰に説明するのかを忘れないことだ」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
私は壊れた歯車を直せば、仕事は終わると思っていた。故障の原因を見つけ、正しい部品に替え、動くようにすればいい。けれど、街の時計は機械だけでできていない。鐘の音を待つ人、時刻に合わせて店を開ける人、音が鳴ることで安心する人。そのすべてが時計を動かしている。
「なら、直すというのは、動かすことだけではないんですね」
「君が言うと、ずいぶん難しい話に聞こえる」
「実際、難しいです」
「そうだな」
ユアンは主弁を見上げた。
「だから共同でやる」
その直後、塔の上から金属音が響いた。
グレンが叫ぶ。
「誰かいる!」
私たちが階段へ向かうと、入口の扉が激しく閉じられた。外側から閂を掛けられたらしい。続いて、油の匂いが地下へ流れ込んできた。
「火をつける気です!」
私は周囲を見回した。地下には古い木箱が積まれ、壁際には乾いた布が置かれている。火が回れば、主弁も証拠もすべて失われる。
ユアンが扉に肩をぶつけた。
「グレン! 裏の排水路を開けろ!」
「わかった!」
返事が遠ざかる。
「リゼット、ここから出られるか」
「出ます。ただし、主弁を閉じないと火が水路へ回ります」
「今は命が先だ」
「だから両方守るんです!」
私は制御盤へ駆け寄った。古い歯車の一つが固着している。時計塔を直した時と同じ構造だが、こちらは水圧で動く。力任せに回せば軸が折れる。
「ユアン、そこの鎖を引いてください。私が歯車を外します」
「わかった」
「合図したら、ゆっくり三回」
炎の気配が近づいてくる。煙が階段から垂れ込め、目が痛んだ。
私は工具を差し込み、固着した歯を一枚ずつ浮かせた。ユアンは鎖を握り、私の指示を待っている。以前なら、彼は自分の判断で鎖を引き、私も自分の判断で歯車を外していただろう。
けれど今は違う。
「一回目!」
鎖が鳴った。
歯車がわずかに動く。
「二回目!」
軸の奥で水が唸った。
「三回目!」
固着していた歯が外れ、主弁が閉じた。直後、地下の配管から激しい音がして、火の気配が途切れる。どこかで水が噴き出したのだ。
「今です、扉を!」
ユアンと私は同時に扉へ体当たりした。閂が外れ、冷たい霧の空気が流れ込む。グレンが外から手を伸ばし、私たちを引き上げた。
塔の外では、火打ち棒を持った商会の男が路地へ逃げようとしていた。ユアンが追おうとしたが、私は腕を掴んだ。
「待ってください。まず証拠を守ります」
ユアンは一瞬迷い、それから頷いた。
グレンたちが男を追い、私は地下へ戻って濡れた板と工具を拾い集めた。ユアンは住民を呼び、火事の跡と水路の状態を記録させている。
夕方、広場の板には新しい記録が並んだ。故障の日付、商会の修理番号、弁輪の傷、地下での放火未遂。さらに、各家の住民が自分の名前を添えて、水不足の期間を書き込んだ。
ユアンはその板を見渡した。
「これで、街区の記憶が証言になる」
「私は機械を直します」
「私は、その機械が誰の暮らしを支えているかを伝える」
「なら、私たちは同じ仕事をしているのかもしれません」
「守る人と、直す人の共同作業だな」
鐘が鳴った。
今度の音は、昨日より少し澄んでいた。地下の主弁を閉じたせいで水圧が整い、調速輪が滑らかに回っているのだ。
霧の向こうで、街の灯りが一つずつ点った。
契約の日まで、あと九日。
私たちはまだ、直さなければならないものを数え切れないほど抱えている。それでも、もう壊されるのを待つだけではなかった。
ユアンが記録板を抱え、私は工具箱を持つ。
並んで歩く足音が、石畳の上で同じ速さになっていった。




