第8話 安すぎる買収話の裏側
鐘が一度鳴った翌朝、街区の掲示板に白い紙が貼られていた。
雨に濡れないよう、油紙で覆われている。けれど、紙の上に記された三本針の紋章は、隠す気がないほど大きかった。
「街区一括買収の提案?」
グレンが読み上げる。
「時計塔、水路、倉庫、住居を含む全資産を、三週間以内に商会が買い取る。住民には市場価格の三分の一を支払う……だと?」
掲示板の前には、すでに人だかりができていた。皆、紙を見上げながら、怒るべきか喜ぶべきか決めかねている。
「三分の一でも、空き家になるよりはましじゃないか」
誰かが言った。
「借金を払えるなら、港の向こうへ移る」
別の誰かが続ける。
私は紙を引き剥がし、裏面を確認した。商会の印が押されているだけで、役所の認可も、評価額の根拠もない。
「この値段は安すぎます」
私が言うと、隣にいたユアンが紙を受け取った。
「街区の土地だけなら、三分の一どころか、今の二倍で売れる」
「でも、時計塔も水路も壊れている」
「壊したのは、買い手の側だ」
ユアンの声は低かった。周囲の住民がこちらを振り返る。
「三本針商会は、設備の故障を理由に地価を下げた。雨が続けば水路が溢れ、住民が逃げる。店が閉まり、さらに安くなる。その時期を見計らって買い取るつもりだった」
「証拠はあるのか」
市場の男が尋ねた。
私は腰袋から、地下の弁に噛み込んでいた金属片を出した。表面の三本針が朝の光を鈍く返す。
「これが水路の中に残されていました。時計塔の軸受けから出た黒い粉も、同じ性質です」
「それだけで商会がやったと決めつけられるのか?」
「まだ、決めつけてはいません」
私は金属片を握り直した。
「だから、確かめます」
ユアンは掲示板の紙を裏返した。下のほうに、小さな文字で買収の条件が続いている。
ただし、住民の同意が四分の三に達した場合、商会は街区の設備修復費を負担しない。
その一文に、私は目を止めた。
「設備を直す義務がない?」
「買い取った時点で、時計塔も水路も住民の責任になる。商会は土地だけを使うつもりだ」
「では、商会は何を建てるんです?」
グレンが尋ねる。
ユアンは紙の隅に書かれた計画地図を見た。そこには、古い水路に沿って太い線が引かれていた。街区の中心を横切り、港へ向かって伸びている。
「倉庫だ」
「倉庫?」
「潮位が高い日でも荷を運べる地下倉庫。水路を埋め、時計塔を取り壊し、土地を一枚につなげる」
人々の間にざわめきが広がった。
私は地図を覗き込み、指で線を追った。水路はただ雨水を流すだけではない。街区の地下には、港の古い荷揚げ場へ通じる空洞がある。かつて市場が栄えていた頃、荷車を濡らさずに通すための道だった。
「この倉庫が完成すれば、商会は港の荷を独占できます」
「それだけじゃない」
ユアンが地図の端を示した。
「この街区は霧が濃い。外からは見えないが、地下の空洞を使えば、税関を通らず荷を移せる」
グレンが息をのんだ。
「密輸のために、街を買うのか」
「まだ推測だ」
「けれど、安く買う理由としては十分です」
私は紙を折りたたんだ。
「買収を止めるには、住民全員に本当の価値を知らせなければなりません。土地の値段だけではなく、水路と時計塔が何を支えているのか」
「住民の中には、すでに契約書へ署名した者もいる」
ユアンは苦い顔をした。
「商会の代理人が昨夜、家々を回った。借金のある世帯には、今日中に署名しなければさらに値を下げると脅したらしい」
「なら、署名を取り戻す方法を探します」
「簡単ではない」
「簡単なことなら、商会はここまで壊していません」
言い終えたとき、掲示板の前に小さな少女が現れた。雨告げ時計の文字盤を描いた紙を抱えている。先日の公開修復会に来ていた子だった。
「お母さんが、もう引っ越すって言った」
少女は紙を差し出した。
「でも、鐘が鳴ったから、まだここにいてもいいって言ったの。鐘が鳴る街なら、怖くないって」
私は紙を受け取った。歪んだ文字盤の絵の中央に、青い小さな点が描かれている。
「あなたの家も、買収の紙に署名したの?」
「わからない。でも、お母さんは泣いてた」
ユアンが少女の目線に合わせて膝をついた。
「泣いている理由を、今日の集会で皆に話してもらえるか」
少女は不安そうに私を見た。
「話したら、追い出されない?」
「追い出させません」
私は答えた。
その言葉に、根拠はなかった。鐘もまだ一度しか鳴らず、証拠も金属片と黒い粉だけだ。けれど、根拠がないから黙るのでは、商会と同じ速さで何もかも失ってしまう。
その日の午後、私たちは時計塔の下で臨時の集会を開いた。
ユアンは街区の地下構造を描いた古い地図を広げ、私は黒い粉と金属片を並べた。布屋の女は、商会の代理人が訪れた時刻と会話を記録していた。水番だった老人は、三年前から水路の点検記録が書き換えられていると証言した。
少しずつ、別々だった記憶が一つにつながっていく。
故障した日。
商会の荷車が来た日。
役所の記録が消えた日。
そして、買収の紙が貼られた日。
「商会は、街区を安く買うために壊しただけではない」
ユアンが言った。
「ここを買った後、地下水路を使って港の荷を運ぶつもりだった。私たちが売れば、街区の暮らしだけでなく、港の流れそのものが商会のものになる」
集会の輪の中で、誰かが契約書を破いた。
続いて、別の家からも声が上がる。
「明日の朝までに、署名を撤回できるか役所へ聞いてくる」
「私は、代理人が置いていった金を返す」
「なら、証拠を集めよう。公開修復会を待つ必要はない」
人々の声が重なっていく。
私は時計塔を見上げた。雨告げ時計の針は、まだ正しい時刻を示していない。だが、地下の弁は動き始め、水は流れている。
そのとき、塔の内部から小さな金属音がした。
かちり、と歯車が一つ噛み合う。
私は反射的に階段へ走った。ユアンも後に続く。
機械室の床には、見覚えのない封筒が落ちていた。封蝋には、三本針の紋章。
封筒の中には、買収契約の写しと、短い書き付けが入っていた。
『街区を売らないなら、次は鐘を止める』
私は紙を握りつぶしそうになった。
ユアンが私の手に重ねるように、自分の手を置いた。
「今度は、止めさせない」
塔の外で、遠くから鐘が二度鳴った。
まだ歪んでいる。けれどその音は、脅しの紙を破るように、霧の向こうへ響いていった。




