第7話 リゼットが師匠から受け取った言葉
市場の地下へ続く階段は、雨の音を腹の底に溜めていた。
石段を一段下りるたび、湿った空気が濃くなる。壁には古い水位線が幾本も刻まれ、その横に、かすれた日付が並んでいた。十七年前、十二年前、八年前。そして三年前。
「三年前から、ここは使われていないことになっている」
ユアンが壁の印を照らした。
「記録では、貯水槽が老朽化して危険だから閉鎖したことになっている」
「実際には?」
「水は今も流れている。誰かが閉鎖したのは、貯水槽ではなく記録のほうだ」
階段の先で、地下水が低くうなっていた。
私は雨告げ時計から外した金属膜を布に包み、腰袋へしまった。あの黒い粉と、滑車に噛み込んでいた金属片。どちらも、同じ三本針の紋章を持つ商会が関わっている可能性を示している。
けれど、証拠をいくら集めても、鐘が鳴らなければ街は変わらない。
地下の貯水槽は、円形の広い空間だった。天井から幾本もの管が下がり、屋根や路地から集められた雨水が中央の溝へ流れ込んでいる。水は濁っていた。油のような膜が表面に浮かび、石壁の隙間には黒い粉がこびりついている。
「これでは、海へ流す弁も長くは持ちません」
「今朝、開いた弁は?」
「一時的に動いただけです。水圧が上がれば、また詰まります」
私は水槽の端にしゃがみ、弁の構造を調べた。古いが、壊れたわけではない。軸の周囲に黒い粉が入り込み、金属同士の隙間を塞いでいる。雨告げ時計の膜を止めたものと同じだ。
「商会は、街の設備を少しずつ止めていたんですね」
「住民には、古くなったから壊れたと思わせるために」
「水が溢れれば、街区の地価は下がる。さらに安く買い取れる」
ユアンは黙って水面を見つめた。
「私が、古い仕組みを守ろうとした理由も同じだった」
「違います」
私は弁の軸に細い針金を通した。
「監督官が守ろうとしたのは、仕組みではなく、仕組みを使っていた人たちでしょう」
彼は返事をしなかった。ただ、少しだけ顔を背けた。
そのとき、階段の上から足音が響いた。グレンと市場の布屋、それに数人の住民が降りてくる。皆、手に灯りや工具を持っていた。
「監督官、手伝いに来た」
「危険だ。上で待っていてくれ」
「上で待っている間に、また誰かに壊されるかもしれない」
布屋の女がそう言って、濁った水の中へ視線を落とした。
「母が言っていた。雨告げの鈴が鳴れば、皆で屋根を確認したものだと。あれを取り戻すなら、私も手を貸す」
別の男が、古い弁の図面を差し出した。
「祖父の倉から出てきた。昔の水番が使っていたものだ」
図面には、弁の内側へ通じる細い点検口が描かれていた。私は紙を受け取り、思わず息をのんだ。
「これなら、軸を外さずに掃除できます」
「できるのか?」
「やってみます」
私は膝まで水につかり、点検口の蓋を開けた。冷たさが骨まで上がってくる。中には黒い粉が固まり、薄い板ばねを押しつぶしていた。
鑢では届かない。私は腰袋から、師匠が昔くれた細い真鍮の匙を取り出した。
工房を出る朝、師匠は最後まで私を引き止めなかった。ただ、工具箱の底からこの匙を拾い上げ、私の手に押しつけたのだ。
「急いで直すな、リゼット」
あの人は、いつものように不機嫌そうに言った。
「壊れた理由を見つけてから、直せ。でなければ、直したつもりで同じ場所を壊す」
私はその言葉を思い出しながら、匙の先で粉を少しずつ掻き出した。
固まった黒い粉の下から、赤茶けた金属片が現れる。表面には、三本針の紋章。さらにその裏には、商会の荷印と、作業日を示す小さな数字が刻まれていた。
「見つけました」
私は水から上がり、片手を差し出した。
ユアンが金属片を受け取る。住民たちが周囲に集まり、灯りを近づけた。
「これを、公開修復会で示せる」
「まだ足りません」
私は弁の中を振り返った。
「ここに残っている粉を採取して、時計塔の軸受けから出たものと比較します。それに、記録を書き換えた人間も探さなければ」
「危険が増える」
「もう、増えているかどうかではありません。私たちは、止められたものを一つずつ動かしているだけです」
ユアンは金属片を握りしめた。
「リゼット。お前は、工房で成果を奪われていたと聞いた」
思いがけない言葉に、私は顔を上げた。
「誰から聞いたんです」
「港の職人たちからだ。お前の修理を別の職人の名で売っていたと」
「それが、今と何の関係が?」
「ある。お前は自分の仕事を証明するために、誰より早く直そうとする」
胸の奥を、細い針で刺されたような気がした。
「早く直さなければ、また誰かに持っていかれます」
「だからこそ、急ぐな」
ユアンは師匠と同じ言葉を口にした。
「直したものが、誰の手で、何のために使われるのかを見届けろ。名前を刻むのは最後でいい。動いた仕組みが、誰かの暮らしを支えたとき、お前の仕事は奪われない」
私はしばらく黙っていた。
水槽の中で、弁の板ばねがかすかに震えた。私が掻き出した粉の隙間から、水が細く流れ始めている。
住民たちが声を上げた。
「流れている!」
私は弁の取っ手をゆっくり回した。重かったが、今度は途中で止まらなかった。濁った水が管の奥へ吸い込まれ、地下にこもっていた轟音が少しずつ遠ざかっていく。
その瞬間、地上から鐘の音が落ちてきた。
まだ小さく、歪んでいる。それでも、確かに一度鳴った。
誰もが顔を上げた。
私は胸元の匙を握った。師匠から受け取った言葉は、古い工具よりも重く、けれど水の流れより静かに、私の中へ沈んでいった。
直したつもりで、同じ場所を壊さない。
私はその意味を、ようやく理解し始めていた。




