↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
壊れた時鐘を直したら、忘れられた街に春が来た  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/20

第7話 リゼットが師匠から受け取った言葉

 市場の地下へ続く階段は、雨の音を腹の底に溜めていた。


 石段を一段下りるたび、湿った空気が濃くなる。壁には古い水位線が幾本も刻まれ、その横に、かすれた日付が並んでいた。十七年前、十二年前、八年前。そして三年前。


「三年前から、ここは使われていないことになっている」


 ユアンが壁の印を照らした。


「記録では、貯水槽が老朽化して危険だから閉鎖したことになっている」


「実際には?」


「水は今も流れている。誰かが閉鎖したのは、貯水槽ではなく記録のほうだ」


 階段の先で、地下水が低くうなっていた。


 私は雨告げ時計から外した金属膜を布に包み、腰袋へしまった。あの黒い粉と、滑車に噛み込んでいた金属片。どちらも、同じ三本針の紋章を持つ商会が関わっている可能性を示している。


 けれど、証拠をいくら集めても、鐘が鳴らなければ街は変わらない。


 地下の貯水槽は、円形の広い空間だった。天井から幾本もの管が下がり、屋根や路地から集められた雨水が中央の溝へ流れ込んでいる。水は濁っていた。油のような膜が表面に浮かび、石壁の隙間には黒い粉がこびりついている。


「これでは、海へ流す弁も長くは持ちません」


「今朝、開いた弁は?」


「一時的に動いただけです。水圧が上がれば、また詰まります」


 私は水槽の端にしゃがみ、弁の構造を調べた。古いが、壊れたわけではない。軸の周囲に黒い粉が入り込み、金属同士の隙間を塞いでいる。雨告げ時計の膜を止めたものと同じだ。


「商会は、街の設備を少しずつ止めていたんですね」


「住民には、古くなったから壊れたと思わせるために」


「水が溢れれば、街区の地価は下がる。さらに安く買い取れる」


 ユアンは黙って水面を見つめた。


「私が、古い仕組みを守ろうとした理由も同じだった」


「違います」


 私は弁の軸に細い針金を通した。


「監督官が守ろうとしたのは、仕組みではなく、仕組みを使っていた人たちでしょう」


 彼は返事をしなかった。ただ、少しだけ顔を背けた。


 そのとき、階段の上から足音が響いた。グレンと市場の布屋、それに数人の住民が降りてくる。皆、手に灯りや工具を持っていた。


「監督官、手伝いに来た」


「危険だ。上で待っていてくれ」


「上で待っている間に、また誰かに壊されるかもしれない」


 布屋の女がそう言って、濁った水の中へ視線を落とした。


「母が言っていた。雨告げの鈴が鳴れば、皆で屋根を確認したものだと。あれを取り戻すなら、私も手を貸す」


 別の男が、古い弁の図面を差し出した。


「祖父の倉から出てきた。昔の水番が使っていたものだ」


 図面には、弁の内側へ通じる細い点検口が描かれていた。私は紙を受け取り、思わず息をのんだ。


「これなら、軸を外さずに掃除できます」


「できるのか?」


「やってみます」


 私は膝まで水につかり、点検口の蓋を開けた。冷たさが骨まで上がってくる。中には黒い粉が固まり、薄い板ばねを押しつぶしていた。


 鑢では届かない。私は腰袋から、師匠が昔くれた細い真鍮の匙を取り出した。


 工房を出る朝、師匠は最後まで私を引き止めなかった。ただ、工具箱の底からこの匙を拾い上げ、私の手に押しつけたのだ。


「急いで直すな、リゼット」


 あの人は、いつものように不機嫌そうに言った。


「壊れた理由を見つけてから、直せ。でなければ、直したつもりで同じ場所を壊す」


 私はその言葉を思い出しながら、匙の先で粉を少しずつ掻き出した。


 固まった黒い粉の下から、赤茶けた金属片が現れる。表面には、三本針の紋章。さらにその裏には、商会の荷印と、作業日を示す小さな数字が刻まれていた。


「見つけました」


 私は水から上がり、片手を差し出した。


 ユアンが金属片を受け取る。住民たちが周囲に集まり、灯りを近づけた。


「これを、公開修復会で示せる」


「まだ足りません」


 私は弁の中を振り返った。


「ここに残っている粉を採取して、時計塔の軸受けから出たものと比較します。それに、記録を書き換えた人間も探さなければ」


「危険が増える」


「もう、増えているかどうかではありません。私たちは、止められたものを一つずつ動かしているだけです」


 ユアンは金属片を握りしめた。


「リゼット。お前は、工房で成果を奪われていたと聞いた」


 思いがけない言葉に、私は顔を上げた。


「誰から聞いたんです」


「港の職人たちからだ。お前の修理を別の職人の名で売っていたと」


「それが、今と何の関係が?」


「ある。お前は自分の仕事を証明するために、誰より早く直そうとする」


 胸の奥を、細い針で刺されたような気がした。


「早く直さなければ、また誰かに持っていかれます」


「だからこそ、急ぐな」


 ユアンは師匠と同じ言葉を口にした。


「直したものが、誰の手で、何のために使われるのかを見届けろ。名前を刻むのは最後でいい。動いた仕組みが、誰かの暮らしを支えたとき、お前の仕事は奪われない」


 私はしばらく黙っていた。


 水槽の中で、弁の板ばねがかすかに震えた。私が掻き出した粉の隙間から、水が細く流れ始めている。


 住民たちが声を上げた。


「流れている!」


 私は弁の取っ手をゆっくり回した。重かったが、今度は途中で止まらなかった。濁った水が管の奥へ吸い込まれ、地下にこもっていた轟音が少しずつ遠ざかっていく。


 その瞬間、地上から鐘の音が落ちてきた。


 まだ小さく、歪んでいる。それでも、確かに一度鳴った。


 誰もが顔を上げた。


 私は胸元の匙を握った。師匠から受け取った言葉は、古い工具よりも重く、けれど水の流れより静かに、私の中へ沈んでいった。


 直したつもりで、同じ場所を壊さない。


 私はその意味を、ようやく理解し始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。