第6話 市場の屋根と、雨を知らせる小時計
朝の鐘を鳴らすために、私たちは街区の中央市場へ向かった。
市場は、塔の東側にある古い石造りの建物だった。屋根は高く、魚売りの声や荷車の音がよく響くように、中央だけが大きく開いている。けれど今朝は店が半分も開いていなかった。霧の水滴が屋根の縁から落ち、濡れた石床に細い輪を作っている。
「水門は市場の下ですか」
「正確には、市場の地下にある貯水槽を通っている」
ユアンは古びた鍵束を握っていた。
「街区が造られた頃、雨水を集めて海へ流す仕組みがあった。けれど市場の屋根を改築したとき、排水路の一部が使われなくなった」
「使われなくなった?」
「記録では、十七年前の改築を最後に記載が途切れている」
私は屋根を見上げた。梁の間に、奇妙な小時計が吊されている。丸い木枠の中で、短針と長針が重なったまま止まっていた。
「あれは何ですか」
「雨告げ時計だ」
「雨告げ?」
「海から湿った風が入ると、気圧の変化を感じて針が動く。雨が近いと、鐘ではなく小さな鈴を鳴らす」
「時刻を知らせる時計ではないんですね」
「市場の人間には、時刻より雨のほうが大事だった。魚も布も、濡れれば売り物にならない」
ユアンは脚立を運び、時計の下に置いた。
「昨日までの私なら、古い習慣だと言って取り外していたでしょう」
「今は?」
「屋根の排水路を探すなら、あれが役に立つかもしれない」
私は脚立を上り、時計の裏蓋を外した。内部には小さな銅板と、薄い金属膜が仕込まれている。金属膜は湿気でわずかに湾曲し、その動きをばねへ伝える仕組みだ。
だが、膜の表面に黒い粉が付着していた。
「これも同じです」
鑢の先で粉をこすると、金属膜の下から細い傷が現れた。誰かが故意に動きを止めている。
「雨告げ時計まで壊した理由は?」
「住民に雨を知らせないため?」
「それだけではないと思います」
私は時計の背面から伸びる銅線をたどった。銅線は梁の中を通り、屋根の端へ向かっている。線の先には小さな鈴があり、鈴の振動を受けて屋根裏の留め金が動くようになっていた。
「この時計は、鈴を鳴らすだけではありません。排水路の弁も開けます」
「雨が降る前に、水を逃がしていたのか」
「ええ。だから時計を止めれば、雨水が市場の地下に溜まる」
ユアンの顔から血の気が引いた。
そのとき、市場の入口から老人が駆け込んできた。魚屋のグレンだった。片足を引きずりながら、濡れた帽子を脱ぐ。
「監督官、塔へ行く前に地下を見てくれ。貯水槽の水が増えている」
「どのくらいだ」
「昨日の倍だ。雨はまだ降っていないのに」
私は時計の金属膜を外し、油差しから一滴だけ油を落とした。黒い粉が油を吸い、膜の表面で泥のように固まる。
「屋根裏へ上がります。弁を手で開けられるか確認します」
「危険だ」
「地下よりはましです」
ユアンは私を見た。
「単独では行かせない」
「では、遅れないでください」
市場の屋根裏は、梁と梁の間に細い通路があるだけだった。足元の板は湿って軋み、ところどころ空が見える。奥へ進むと、銅線が一本の滑車につながっていた。
滑車の軸には、見覚えのある金属片が差し込まれている。
「やはり、細工です」
私は金属片を抜こうとした。しかし、固く噛み込んでいる。無理に引けば銅線が切れる。
「ユアン、滑車を支えてください」
彼は梁に身体を寄せ、両手で滑車を押さえた。私は金属片の根元へ細い鑢を差し込んだ。昨夜から眠っていないせいで、指が重い。遠くで市場の人々が騒ぎ始める声が聞こえた。
そのとき、屋根を叩く音がした。
一つ。
また一つ。
雨が降り始めたのだ。
金属膜のない雨告げ時計が、空回りするように震えた。屋根裏の弁は動かず、雨水が屋根の溝へ集まっていく。
「急げ、リゼット」
「急いでいます!」
鑢を角度を変えて差し込む。金属片の先端に刻まれた溝へ、工具の先が入った。
私は息を止め、手首をひねった。
ぱきん、と小さな音がした。
金属片が折れ、滑車が一気に回った。銅線が引かれ、屋根裏の奥で弁が開く。溜まっていた雨水が石の管へ流れ込み、地下から低い轟音が響いた。
市場全体が揺れた。
同時に、梁から小さな鈴の音が降ってきた。
りん。
雨告げ時計が、止まったままの針を震わせていた。私は折れた金属片を拾い上げる。表面には、三本針の紋章が刻まれている。
「証拠が増えましたね」
ユアンは雨の向こうを見た。
「だが、地下の水はまだ残っている」
「水門を開けたことで、海へ流れ始めています」
「鐘の軸受けも?」
「完全には戻りません。けれど、これ以上腐るのは防げます」
屋根裏から降りると、市場の人々が集まっていた。グレンが雨に濡れた手で、小時計を見上げている。
「鈴が鳴ったのは、何年ぶりだ」
「三年です」と、布屋の女が答えた。「母が亡くなる少し前まで鳴っていた」
ユアンは壊れた金属片を住民たちに示した。
「この街の仕組みは、古いから壊れたのではない。壊されていた」
誰も声を上げなかった。
ただ、雨の音の中で、何人もの人が塔を振り返った。
私は雨告げ時計を抱え、屋根の下から空を見た。霧は雨に押し流され、塔の輪郭が少しずつ現れている。
「ユアン」
「なんだ」
「次は、地下へ行きます」
「わかっている」
「それから、鐘を鳴らす」
彼は短くうなずいた。
市場の小時計が、もう一度だけ鈴を鳴らした。
雨を知らせる音は、街の人々に危険を告げるだけではなかった。忘れられた仕組みがまだ生きていることを、静かに知らせていた。




