第5話 最初の鐘が、街の朝を取り戻す
夜明け前の霧は、海から這い上がる生き物のように街区を包んでいた。
私は海門倉庫へ続く坂道を、ユアンの半歩後ろから歩いていた。工具箱の中には、細い鑢、予備の銅線、油差し、それから昨夜、塔の管理室で見つけた紙片が入っている。
ユアンは手ぶらだった。
「武器を持たないんですか」
「監督官が武器を持って歩けば、住民は余計に怯える」
「相手は二人以上いました」
「君は工具を持っている」
「工具は武器ではありません」
「使い方次第だ」
霧の向こうで、波が防波堤にぶつかった。海門倉庫は、かつて港の荷を一時的に預かった建物だった。今では商会の倉庫として使われているらしいが、表向きの看板は外され、扉にも文字がない。
ユアンが足を止めた。
「裏口がある」
石壁に沿って進むと、錆びた鉄扉が見えた。鍵はかかっていない。扉の下から、かすかに油と焦げた金属の匂いが流れてくる。
私はしゃがみ込み、敷居を指でなぞった。
「黒い粉があります」
「昨夜の細工と同じか」
「似ています。けれど、こちらのほうが粒が大きい」
ユアンは扉を少しだけ開け、中を覗いた。倉庫の奥には、木箱が積まれている。霧が入り込んでいるせいで、内部は薄暗く、天井から吊されたランプだけが揺れていた。
誰もいない。
私たちは音を立てないように中へ入った。
木箱の一つに、三本の針を描いた印が押されていた。商会の紋章だ。ユアンが蓋を持ち上げると、中には真新しい歯車が並んでいた。歯の形も大きさも、街区の時鐘に使われているものと同じだった。
「新しい時鐘を買え、という話は、ずいぶん用意がいいですね」
「壊れることを知っていたから、部品を作れた」
「部品を作ったから壊した、とも言えます」
別の箱には、固定具と細い金属片が入っていた。私は金属片を手に取る。端が鋭く削られ、ばねの隙間へ差し込める形になっている。
その瞬間、倉庫の奥で何かが落ちた。
ユアンが私の腕を引いた。
次の瞬間、頭上から木箱が降ってきた。床にぶつかって蓋が割れ、中から大量の鉄片が散らばる。私はユアンに引かれた勢いで壁際へ倒れ込み、頬のすぐそばを鉄片が跳ねた。
「怪我は」
「ありません。あなたは?」
「同じく」
だが、声がした。
「そこまでわかっているなら、もう戻れないでしょう」
倉庫の二階に、男が立っていた。昨夜、塔の扉の向こうで話していた男だ。革の外套の胸元には、三本針の紋章が縫いつけられている。
「設計図を出せ」
ユアンが言った。
「設計図は、街区の所有権と一緒に新しい管理者へ渡ります」
「街区は売り物ではない」
「住民はそう思っていないようですよ。壊れた鐘を見上げて、誰もが不安になっている。暖房も水路も、いずれ同じように壊れる。商会なら、まとめて面倒を見られる」
「面倒を見る?」
私は散らばった鉄片を拾い上げた。
「壊した部品を売ることを、そう呼ぶんですか」
男の表情が変わった。
その隙に、ユアンが階段へ走った。男は身を翻し、二階の奥へ逃げる。私は床に落ちた鉄片を一つ、指先で弾いた。
金属音が倉庫に響いた。
上階の男が振り向く。
「リゼット、何をしている」
「音を聞いています」
天井裏から、一定の間隔で振動が返ってくる。倉庫の床下に、何か大きな機械がある。私は壁際へ駆け寄り、古い滑車の軸を見つけた。滑車には新しい油が塗られている。
「ユアン、ここです!」
彼が階段から戻ってきた。逃げた男は、二階の窓から外へ飛び降りたらしい。
ユアンは滑車の下に手を入れた。
「重い」
「床下に昇降機があります。たぶん、鐘の部品を運ぶためのものです」
「下りられるか」
「仕組みを止められれば」
私は滑車の軸を見た。軸受けの内側に、黒い粉が詰まっている。昨夜、塔へ仕込まれたものと同じだ。粉が油を固め、軸の動きを奪う。無理に回せば、逆に歯車を壊してしまう。
私は工具箱を開いた。
「三分ください」
「昨夜も聞いた」
「今度は二分半で」
細い鑢を差し込み、固まった粉を少しずつ削り出す。指先が震えた。だが、削るたびに軸がわずかに戻ってくる。
ユアンは周囲を警戒していた。
「住民に知らせるべきだった」
「知らせれば、相手も逃げます」
「一人で判断するな」
「では、あなたが歯車を削ってください」
「私は監督官だ」
「だから、見張りを頼んでいます」
ユアンは何も言わなかった。
最後の粉を取り除くと、滑車が低く鳴った。床板の一部がゆっくり持ち上がり、地下へ続く階段が現れる。
地下室には、丸められた紙と木箱が置かれていた。
その中から、私は一枚の設計図を取り出した。
古い羊皮紙の中央には、時鐘の内部構造が細かく描かれている。歯車の配置、鐘の舌を動かすばね、そして動力を塔全体へ伝える軸。だが、端の余白に赤い印がついていた。
そこだけ、後から書き足された記録だった。
『潮が満ちる刻、鐘は街の心臓となる。鐘を止める者は、街の記憶を止める』
その下に、故障の原因が記されていた。
塔の基礎に通じる排水路。その水門を閉じれば、海水が地下へ逆流し、軸受けが腐食する。
「壊したのは塔だけではない」
ユアンが設計図を見つめた。
「排水路も塞がれている」
「なら、そこを直せば鐘は鳴る」
「簡単ではない。水門は街区の地下を通っている」
地下室の奥から、水滴の落ちる音がした。
一滴。
また一滴。
私は設計図を巻き直した。
「朝までに、水門を見つけましょう」
「朝までに?」
「街の人たちは、今日も鐘を待っています」
地上へ戻ると、霧の向こうが少しずつ白み始めていた。
街区の中央では、窓を開けた住民たちが塔を見上げている。まだ鐘は鳴らない。けれど誰も、昨日のように背を向けてはいなかった。
ユアンは設計図を抱えた私を見た。
「リゼット」
「はい」
「今日の朝、最初の鐘を鳴らす」
その声に、迷いはなかった。
私は工具箱の蓋を閉じる。
「では、急ぎましょう。朝は、待ってくれません」
霧の向こうで、海が低く唸った。街の地下深く、閉ざされた水門が、長い眠りから目を覚まそうとしていた。




