第4話 鳴らない鐘と消えた設計図
扉の向こうで、鍵がもう一度回った。
ユアンは身じろぎもしなかった。片手を扉の横に添え、低い声で言う。
「ここは立入禁止だ。用件があるなら、明日の朝、役所へ届け出ろ」
「役所に届けたところで、鐘は鳴りません」
男の声には、笑いが混じっていた。
「鳴らない鐘を抱えて暮らすより、新しい時鐘を買ったほうが住民のためでしょう。商会は、必要なものを安く提供するだけです」
「頼んだ覚えはない」
「頼まれるのを待っていては、街区は朽ちますよ」
扉の錠が軋んだ。
私は銅線を押さえたまま、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。ばねは油で動きを鈍らせている。それでも完全に止まったわけではない。指を離せば、金属片が軸受けへ飛び込む。
ユアンが振り返った。
その目が、塔の隅にある古い鐘の舌を示す。
私は小さく首を振った。鳴らせば、細工が残ったまま歯車が動き、軸が壊れる。
ユアンは一度だけ頷いた。
「リゼット、そこから動けるか」
「この線を固定できれば」
「何かないか」
「針金と木片を」
ユアンは工具箱を引き寄せ、針金を取り出した。私は片手だけで受け取り、銅線の下へ木片を滑り込ませる。ばねの先端を押さえ、針金を二重に巻いた。
扉が大きく揺れた。
「監督官殿、あなたもわかっているはずだ。古い仕組みは、いつか人を裏切る」
「古い仕組みが人を裏切るのではない」
ユアンの声が、塔の石壁を震わせた。
「人が仕組みを裏切るのだ」
錠が外れた。
扉が開きかけた瞬間、ユアンは肩で押し返した。隙間から伸びた手を掴み、扉の外へ押し戻す。だが、相手は一人ではなかった。階段の下から別の足音が駆け上がってくる。
私は針金を締め終え、立ち上がった。
「固定できました。三分ほどなら、機械を動かしても耐えます」
「三分で何をする」
「鐘を鳴らすんです」
「細工が残っている」
「だから、普段の動力ではなく、手で動かします」
私は塔の壁際にある点検用の短い鎖を引いた。重りを使わず、歯車を一枚ずつ送るための非常用機構だ。古い時鐘には、停電や凍結に備えた手動装置がある。
鎖を引くと、最初の歯車がゆっくり回った。
銅線が震える。
軸受けが軋む。
私は歯車の歯を目で追いながら、一定の速さで鎖を引いた。急げば壊れる。遅すぎれば、ばねが細工を締めつける。
扉の向こうでユアンが唸った。
「あと二人いる!」
「こちらはあと六枚です!」
「数え方が楽観的だな!」
「職人は、壊れる前の音を聞いています!」
五枚目。
銀色の粉が歯の間からこぼれた。
六枚目。
塔全体が低く震えた。
最後の歯車が動き、鐘の舌が持ち上がる。
私は鎖から手を離した。
次の瞬間、街区に鐘の音が響いた。
けれど、それはいつもの澄んだ音ではなかった。低く、短く、途中で途切れた音だった。
それでも、霧の向こうで窓がいくつも開いた。
遠くから、誰かの声が上がる。
「鐘だ!」
「まだ鳴るんだ!」
住民たちが路地へ出てくる気配がした。
扉の外の男たちが怯んだ。その隙に、ユアンは扉を押し開け、先頭の男を階段へ突き飛ばした。男は転がり落ち、二人目が慌てて逃げる。
私は機械の覆いを閉じ、工具箱を抱えた。
「追いますか」
「いや」
ユアンは階段の下を見つめた。
「彼らが何を探していたのか、先に確かめる」
塔の裏口には、濡れた革靴の跡が残っていた。足跡は階段を下り、管理室の前で途切れている。
管理室の扉は、鍵がかかっていなかった。
中には古い帳簿と、街区の建物を描いた大きな設計図が置かれていた。だが、中央にあるはずの時鐘塔の図面だけが切り取られている。
ユアンが机の引き出しを開けた。
「ない」
「何がですか」
「原図だ。塔を建てた職人が残した設計図。時鐘の内部構造と、修理の記録がすべて書かれている」
「誰かが持ち出した?」
「この部屋の鍵を持つ者は、私と管理人だけだ」
私は切り取られた紙の端を調べた。刃物で切った跡のそばに、黒い粉が付着している。三本の針を描いた紋章。その一部だった。
床には、紙片が一枚落ちていた。
拾い上げると、裏側に鉛筆で短い文字が残っていた。
『鐘を直すなら、海門倉庫へ来い。設計図はそこで待つ』
ユアンが紙を覗き込む。
「罠かもしれない」
「罠でなければ、設計図は戻りません」
「今夜行くつもりか」
「夜明けまで待てば、相手は移動します」
彼は黙った。
そのとき、塔の外から子どもの声がした。
「監督官さん! 鐘、もう一度鳴らせる?」
扉の隙間から、小さな顔がいくつも覗いている。霧の中で、住民たちが集まり始めていた。誰もが不安そうで、それでも鐘が鳴ったことを喜んでいる。
ユアンは紙片を折り、私に渡した。
「海門倉庫へ行く」
「決まりですね」
「ただし、条件がある」
「何ですか」
「私の指示に従え」
「内容によります」
「君は、実に扱いにくい」
「歯車よりは扱いやすいでしょう」
ユアンは初めて、わずかに笑った。
鳴り終えた鐘は、再び沈黙していた。
けれどその沈黙は、壊れたものの沈黙ではなかった。次に鳴る時を、誰かと共に待つための沈黙だった。




