第3話 伝統を守る監督官は、歯車が嫌い
鐘の内部から響いた金属音は、すぐに霧へ溶けた。
塔の窓から身を乗り出しても、見えるのは白い街区だけだった。屋根の端、煙突の影、細い路地の石畳。そのどこにも、人の姿はない。
「下です」
私は窓枠から離れ、床に膝をついた。
時鐘の台座に耳を当てる。冷たい金属の向こうで、かすかな振動が続いていた。止まったはずの歯車が、ひとつだけ戻ろうとしている。
「歯車が噛み合いかけています。鎖を外すまで動かさないでください」
「動かすなと言われても、すでに動いている」
「だから急ぐんです」
私は工具箱を開いた。細い鍵、油差し、拡大鏡、磁針。工房を出るとき、持ち出せた道具は多くなかった。けれど、必要なものは手の中にある。
覆いの留め具を外し、機械の奥へ指を入れる。鎖の継ぎ目に絡んだ銀色の粉が、指先でざらついた。粉は単なる金属屑ではない。磁針を近づけると、針が小刻みに震える。
「磁性粉……」
「何かわかるのか」
「鉄の粉に、別の金属が混じっています。歯車の間に入れば、摩擦が増える。けれど、これだけでは鐘を止めるほどではありません」
「では、何が原因だ」
「誰かが、止まるように細工したんです」
私は鎖を少しずつ緩めた。重りが落ちないよう、ユアンに支えてもらう。
「そこを持ってください。力を入れすぎると鎖が歪みます」
「この私に、歯車の扱いを命じるのか」
「監督官なら、住民を守るために手を汚すくらいはできるでしょう」
ユアンの目が細くなった。
「私は歯車が嫌いだ」
突然の言葉に、工具を持つ手が止まった。
「嫌いなら、なぜ監督官を?」
「この街区は歯車で動いていない」
ユアンは鎖を握ったまま、機械ではなく窓の外を見た。
「朝、薬師の婆さんが窯に火を入れる。鐘が鳴る前に起きる家もある。パン屋は鐘が二度鳴ったら戸を開け、夜警は三度目の音で交代する。時鐘は合図にすぎない。人が人を思い出すためのものだ」
「でも、その合図を作っているのは歯車です」
「だから嫌いなんだ。歯車は、合図だけを残して人の手を消してしまう」
その声には、怒りよりも古い痛みがあった。
私は何も言わず、鎖の表面を削った。粉の下から、細い銅線が現れる。鎖の継ぎ目に巻きつけられ、歯車の軸へ伸びていた。
「これを見てください」
ユアンが身を寄せる。
「銅線?」
「内部に小さなばねが仕込まれています。鐘が動き出すと、線が引かれて軸を締める。動力がかかるほど、止まりやすくなる仕掛けです」
「なら、外せばいい」
「簡単にはいきません。無理に引けば、軸受けが割れます」
私は銅線の先を追った。軸の裏側に小さな金属片が埋め込まれている。黒い波の上に、三本の針。工房で見つけたものと同じ紋章が、そこにも刻まれていた。
胸の奥が冷たくなる。
「やっぱり、工房の仕事とつながっています」
「元の工房がこの街区を狙っているのか」
「工房そのものか、そこに出入りしていた誰かかはわかりません。でも、私が追い出された日に、この細工は完成していたはずです」
「君が知りすぎたから追い出された」
「知っていたのは、壊れていない部品を交換するなということだけです」
「それは十分だ」
ユアンは銅線を睨んだ。
「この街区の時鐘が止まれば、住民は暮らせない。商会はそれを待っている」
「なら、今夜だけでも動かします」
「音を変えるなと言ったはずだ」
「変えません。細工を外して、元の音を戻します」
私は鎖の継ぎ目に細い刃を差し込んだ。銅線を切れば早い。だが、残ったばねが軸へ飛び込み、機械を壊す可能性がある。
思案していると、塔の下から扉を叩く音がした。
「ユアン! 灯りが見えたぞ!」
管理人の声だった。
「誰かが塔の裏口を開けようとしている!」
続けて、金属をこする音が響く。
私は反射的に工具箱を閉じた。
「ここに来たことを、誰かに見られていたかもしれません」
「裏口は内側からしか開かない」
「それなら、鍵を持っている人間が三人目ということです」
ユアンは窓を閉め、塔の扉へ向かった。
「君はここにいろ」
「嫌です」
「危険だ」
「時鐘を直す依頼を受けました。依頼人だけが危険に向かうのは、契約違反です」
「契約などしていない」
「なら、今からします」
私は工具箱から油差しを取り出し、細い管に油を満たした。
「私が銅線を押さえます。あなたは扉を守ってください。誰かが入ってきたら、時間を稼いで」
「私を使うのか」
「監督官は、住民を守るために手を汚すのでしょう」
ユアンは一瞬、呆れたように目を伏せた。
それから、剣も持たずに扉の前へ立った。
「三つ数えたら始めろ」
「二つで十分です」
私は銅線へ刃を当てた。
塔の下で、鍵が回る音がした。
ひとつ。
歯車の奥で、何かが跳ねた。
ふたつ。
私は刃を押し込み、ばねの動きを油で鈍らせた。
その瞬間、扉の向こうから低い声が響いた。
「監督官殿。古い鐘は、もう役目を終えたんですよ」
ユアンの表情が変わった。
私は銅線を切らず、指先で押さえたまま息を止める。
誰かが、塔の中へ入ろうとしていた。




