第2話 霧の街区で受けた修理依頼
煉瓦塔へ続く坂道は、霧の中で途切れていた。
見慣れた港町の景色が、白い布をかぶせられたように消えている。石畳の継ぎ目も、軒先に吊るされた魚籠も、数歩先へ進めば輪郭を失った。
私は工具箱を抱え直し、管理人の後を追った。
「急いでくれ。ユアンは気が短い」
「依頼人が待っているなら、まず故障箇所を見せてもらいます。修理内容も、部品の状態を確認しなければ決められません」
「そういうところが気に入られんのだ」
「会ったこともない人に気に入られる必要はありません」
管理人は振り返り、呆れたように眉を上げた。
「工房を追い出されたばかりのくせに、ずいぶん強気だな」
「追い出された理由と、私の腕は別です」
言い切ったものの、胸の奥には重い石が残っていた。
私は本当に、腕だけで仕事を得られるのだろうか。さっきまでいた工房では、私の名前すら信用にならなかった。けれど、壊れたものを見れば、直すべき場所はわかる。そのことだけは、誰にも奪えない。
坂を上りきると、霧の向こうに古い門が現れた。
門柱には、黒ずんだ鉄板が掛けられている。
霧街区。
港の北側にある、古い職人町の名だった。潮風が強く、船大工や染物職人が住みついていた頃には栄えていたらしい。今では道幅の狭い路地と、年季の入った家々が残るばかりで、外の人間はほとんど足を踏み入れない。
門をくぐると、音が変わった。
港のざわめきが遠のき、代わりに窓を閉める音や、誰かが戸口で息をひそめる気配が重なる。霧街区全体が、見知らぬ者を警戒しているようだった。
「この街区は、外から来た職人を嫌うんですか」
「嫌っているのは商人だ。職人には、昔からのやり方を壊されると思っている」
「壊れたやり方を守っても、時計は動きません」
「だからユアンと衝突する」
管理人が立ち止まった先に、背の高い男が立っていた。
濃紺の外套を着て、片手に古い懐中時計を持っている。髪は黒く、霧の水滴が肩に白く浮かんでいた。年齢は私より少し上に見えるが、目元には実際の歳より深い疲れが刻まれている。
「その娘が修理職人か」
「職人見習いです」
私が訂正すると、男の視線が工具箱へ落ちた。
「見習いに、止まった時鐘を直せるのか」
「見習いだから直せない、という根拠はありません。直せるかどうかは、鐘を見てから判断します」
男は懐中時計の蓋を閉じた。
「私はユアン。霧街区の監督官だ」
「リゼットです」
「工房を追われたそうだな」
管理人が余計なことを言う前に、私は一歩前へ出た。
「成果を横取りされ、壊れていない部品まで私の責任にされたので出ました」
「それを追われたと言う」
「呼び方はどちらでも構いません。依頼の話をしてください」
ユアンの眉がわずかに動いた。怒ったのか、面白がったのかはわからない。
「時鐘を直してほしい。ただし、文字盤だけではない。この街区では、鐘が鳴る時刻に合わせて暮らしが決まる。朝の開店、薬湯の火入れ、夜警の交代。三日も鳴らなければ、街区の仕組みが崩れる」
「塔へ案内してください」
「条件がある」
ユアンは懐中時計を外套の内ポケットへしまった。
「部品を勝手に交換しないこと。音を変えないこと。住民に説明なく、古い仕組みを捨てないこと」
「故障原因によっては交換が必要です。音も、原因を直せば変わる可能性があります」
「この鐘は百年以上、街区の人間が守ってきた」
「守ることと、壊れたままにすることは違います」
霧の中で、どこかの窓が開いた。
老人らしい声が飛んでくる。
「また外の職人かね」
「若い娘に鐘がわかるものか」
別の窓から、女の声が重なった。
私は言い返そうとしたが、ユアンが手を上げて制した。
「ここでは、言葉より音で判断する」
「なら、聞いてください。私が直せる音かどうか」
ユアンはしばらく私を見つめた。
やがて、門の奥にある塔を顎で示した。
「来い」
塔の中は、湿った石と古い油の匂いがした。螺旋階段を上るたび、足元から冷気が這い上がってくる。壁には、街区の歴代監督官の名札が並んでいた。どれも百年以上前の名前で、最後の一枚だけが新しかった。
ユアン・レインハルト。
私はその名を横目で見ながら、さらに上へ進んだ。
最上階の扉を開けると、巨大な機械が霧の中に浮かび上がった。
歯車は止まり、振り子は途中で固まっている。だが、完全に動力を失ったわけではない。重りは落ちきっておらず、鎖も切れていなかった。
私は工具箱を床に置き、機械へ近づいた。
「触っても?」
「そのために呼んだ」
私はまず、脱進機を見た。歯先に傷はない。軸受けも摩耗しているが、今すぐ止まるほどではなかった。
次に重りの鎖を持ち上げる。
指先に、ざらりとした感触が残った。
銀色の粉。
第1話の朝に見たものと同じだった。
「これを、いつ掃除しましたか」
「昨日の夕方だ。管理人が油を差している」
「その後、誰かが触れましたか」
管理人が青ざめた。
「塔の鍵を持っているのは、私とユアンだけだ。昨夜、鐘を確認したのも……」
「私だ」
ユアンの声が低くなった。
「十一時四十七分。異常な音がした」
その時刻を聞いた瞬間、工具箱の底にある金属片が脳裏に浮かんだ。
私は鎖の継ぎ目を照らした。粉の奥に、細い切れ込みが見える。誰かが鎖を削り、内部へ細工を施している。
「自然故障ではありません」
「やはりか」
ユアンは驚かなかった。
私は振り返った。
「知っていたんですか」
「この街区では、先月から水路の弁が勝手に閉じ、共同窯の火口まで塞がれた。すべて事故として片づけられたが、故障した場所には同じ銀色の粉が残っていた」
ユアンは機械の奥を見つめた。
「霧街区を安く買いたい商会がある。住民が暮らせなくなれば、土地を手放すと思っているらしい」
胸の中で、工房にあった金属片の紋章が重なった。
黒い波の上に、三本の針。
「この紋章を知っています」
私は金属片を取り出し、ユアンへ見せた。
彼の顔から、初めて余裕が消えた。
「それをどこで?」
「今朝、工房を出たときに工具箱の中から」
ユアンは金属片を受け取らず、目だけで刻印を追った。
「商会の正式な紋章ではない。だが、裏で動く修理請負人が使う印だ」
「私の元いた工房も、関わっている可能性があります」
「なら、君を追い出したのも偶然ではないかもしれない」
止まった歯車の奥で、霧が細く流れた。
私は工具を取り出し、鎖の覆いを外した。
「依頼を受けます」
ユアンがこちらを見る。
「条件を聞かないのか」
「さっきの条件なら、ひとつだけ変更します」
「何を」
「古い仕組みを捨てない。ただし、必要なら新しい部品を使う。街区を守るためなら、昔の形にこだわりません」
ユアンは長く黙った。
やがて、懐中時計を開いた。針は十一時四十七分で止まっている。
「この時計も、同じ時刻で止まった」
私はその針を見つめた。
霧街区の時鐘と、工房の時鐘。二つの時計が、同じ時刻に息を止めている。
誰かが意図的に、時間を止めたのだ。
「まず鎖を外します。今夜中に原因を特定できるかもしれません」
「今夜中に?」
「直せるかどうかは、見てから判断すると言いました。でも、原因を探すだけなら始められます」
ユアンは塔の窓を開けた。
霧が一気に吹き込み、頬を冷たく撫でる。遠くで、鳴らないはずの鐘の内部から、かすかな金属音が響いた。
ひとつ。
誰かが、どこかで歯車を動かした。
ユアンが窓の外を睨む。
「今の音を聞いたか」
「ええ」
私は工具を握り直した。
壊れた時鐘の向こうで、見えない誰かが次の手を打ったのだ。
ならば私は、この街区の止まった時間を、必ず動かしてみせる。




