第1話 壊れた時鐘と、私を追い出した工房
港町セレスタには、朝を告げる鐘が三つある。
東の岬に立つ灯台鐘、船渠の見張り塔に吊られた潮鐘、そして街の中心、古い煉瓦塔の最上階に据えられた時鐘だ。
時鐘が鳴るたび、魚市場の戸が開き、パン屋の窯に火が入り、船乗りたちは潮の変わり目を知る。鐘の音は、町の人々にとって時計の針より確かな一日の合図だった。
だから、その音が止まった朝、港町はまるで息を止めたようになった。
「また、あなたのせいね」
工房の奥で、親方のバルドが吐き捨てた。
私は作業台の上に広げた歯車から顔を上げた。窓の外では、霧に濡れた屋根がぼんやり白く浮かんでいる。まだ鐘は鳴らない。いつもなら三度、低く腹に響く音が、今朝は一度も聞こえなかった。
「私が触ったのは脱進機だけです。軸受けの摩耗は昨日の時点で見つけていました。交換部品を頼んでほしいと、帳面にも――」
「言い訳は結構だ」
バルドは帳面をつまみ上げ、私の目の前に放った。革表紙の端が、油で黒ずんだ床に落ちる。
「お前が調整した直後に止まった。客にどう説明する?」
「調整した直後ではありません。夜半から振り子の周期が乱れていたはずです。誰かが重りを――」
言葉を止めた。
時鐘の重りを吊るしていた鎖には、細かな銀色の粉が付着していた。鋼を削った粉だ。自然に出るものではない。けれど、今それを指摘すれば、さらに責任を押しつけられる。
バルドの背後には、先輩職人のグレイが立っていた。彼は腕を組み、私の作業台を眺めながら薄く笑っている。
「リゼットは最近、親方より自分のほうが詳しいと思っているらしいですよ」
「そんなつもりはありません」
「では、なぜ勝手に設計を変えた?」
グレイが指したのは、私が三日前に描いた補助ばねの図面だった。古い時鐘の癖に合わせ、力の逃げ道を作るための小さな改良だった。試運転では、鐘の音が以前より澄んだ。けれど、その成果を確かめる前に、図面は親方の机から消えた。
そして昨日、同じ改良を施した時鐘を、グレイが自分の考案として役所に報告した。
「その図面は、私が――」
「もういい」
バルドの声には、話を終わらせる硬さがあった。
彼は工房の壁から、私の名札を外した。釘が抜ける音が、鐘の止まった朝には妙に大きく響いた。
「今日限りで出ていけ」
空気が冷えた。
「……え?」
「住み込みの部屋も明日の朝までだ。道具は置いていけ。工房の備品を持ち逃げされては困るからな」
胸の奥で、何かが小さく割れた。
この工房に来たのは五年前だった。父の遺した壊れた懐中時計を直したくて、掃除でも薪割りでも何でもすると頭を下げた。最初に歯車へ触れさせてもらった日のことを、私は今でも覚えている。金属の輪が噛み合う瞬間、世界の奥に隠れていた呼吸が聞こえた気がした。
それから私は、誰より早く起き、誰より遅くまで働いた。壊れた時計を直し、客の癖を覚え、失敗した部品を何度も削り直した。
それでも、私の名札はたった一枚の板だった。
「親方、時鐘の停止は工房の信用にも関わります。原因を調べる時間をください。私が直します」
「お前にはもう任せない」
「でも――」
「出ていけ、リゼット」
グレイが満足そうに息を吐いた。
私は作業台の端に置いた小さな工具箱へ手を伸ばした。蓋を開けると、父の形見である細身のドライバーが一本だけ入っている。柄に刻まれた青い線は、幼い頃の私が何度も撫でた跡で擦れていた。
それだけを取り、工房を出た。
扉の外には、朝市へ向かう人々が集まっていた。時鐘が鳴らないせいで、皆、落ち着かず空を見上げている。私の背後で扉が閉まり、鍵が回った。
霧が港から這い上がってくる。
行く場所などなかった。手持ちの銅貨は、パンを二つ買えば尽きる。頼れる家族も、雇ってくれる工房もない。
それでも私は、煉瓦塔の上を見た。
時鐘の文字盤は霧に隠れていたが、針だけは見えた。長針が、ありえない位置で止まっている。
十一時四十七分。
その時刻は、昨夜、私が工房を出た時刻と同じだった。
偶然だろうか。
工具箱の底で、何かが触れ合って音を立てた。取り出してみると、昨日はなかった細い金属片が転がっている。先端には、見覚えのない紋章が刻まれていた。
黒い波の上に、三本の針。
港の商会が掲げる紋章にも似ていたが、完全には同じではない。
そのとき、霧の向こうから鐘塔の管理人が駆けてきた。
「おい、そこの娘!」
私は振り返った。
「時鐘を直せる職人を知らないか。塔の中で、誰かが待っている」
「誰が?」
管理人は、霧の奥を恐れるように見た。
「街区監督官のユアンだ。あの男は鐘が止まった理由を、ただの故障だとは思っていない」
私は手の中の金属片を握りしめた。
追い出されたばかりの私に、頼まれた仕事はひとつしかなかった。
壊れた時鐘の、その理由を探ること。
私は煉瓦塔へ向かって歩き出した。霧の中で、見えない誰かがこちらを見ている気配がした。




