第19話 私の工房と、あなたの隣
夜明け前、霧はまだ街区の屋根を覆っていた。
私は時計塔の中で、最後の留め具を締めていた。中心軸は新しく鍛えた金具に替わり、ひびの入っていた歯車には、鍛冶屋の老人が作った薄い補強板を添えてある。傷跡は消えなかったが、歯車はもう、回ることをためらわなかった。
ユアンが梯子の下から見上げる。
「眠っていないだろう」
「あなたもでしょう」
「私は監督官だから」
「便利な言い訳ね」
言い返すと、ユアンは少し笑った。
その笑顔を見ると、昨夜から胸の奥に残っていた焦りが、ほんの少しだけほどけた。商会がいつ動くのか、証拠を守りきれるのか、公開修復会で誰も脅されずに話せるのか。不安はいくつもあった。
けれど、今は一人で抱えていない。
塔の外から、木槌の音が響いた。鍛冶屋が扉の蝶番を補強しているのだろう。路地ではパンを焼く匂いが漂い、広場には住民たちが集まり始めていた。
「そろそろ時間だ」
ユアンが言った。
「まだ針が五分遅れています」
「それでも、皆は待っている」
「時刻を間違えた鐘を鳴らすのは、職人として許せないわ」
「君が許せなくても、住民は君を待っている」
私は黙って針を見た。
昨日まで、この時計を正確に動かすことだけを考えていた。壊れた部分を見つけ、最短の手順で交換し、誤差をなくす。それが職人の仕事だと思っていた。
けれど、この街区の鐘は、ただ時刻を示すためにあるのではない。朝を知らせ、店を開ける合図をし、嵐の前には人を避難させる。音を聞いた人が、互いの存在を思い出すためのものだ。
だから、五分の遅れを恐れるより、今ここにいる人々へ確かに届く音を作らなくてはいけない。
私は調整ねじを一目盛り戻した。
「これでいい」
「本当に?」
「ええ。今のこの街区に必要なのは、完璧な時間より、同じ音を聞くことだから」
ユアンが梯子を上ってきた。狭い足場で肩が触れる。彼は何か言いかけたが、塔の下から少年の声がした。
「監督官! 商会の馬車が来た!」
私たちは同時に振り向いた。
霧の向こうから、黒い車輪がゆっくり現れた。商会の代理人と、見覚えのない男が二人。さらに背後には、役所の紋章をつけた馬車が続いている。
広場の空気が硬くなった。
代理人は昨日とは違い、落ち着いた顔をしていた。
「公開修復会を中止していただきたい」
彼は広場の中央で声を張った。
「安全検査の結果、この時計塔には倒壊の危険がある。住民の皆さんを危険にさらすわけにはいかない」
ざわめきが広がる。
ユアンが塔から降り、代理人の前に立った。
「安全検査をしたのは、あなた方の技師だろう」
「専門家の判断だ」
「その専門家は、昨夜、部品破損の指示を受けたと証言した」
代理人の眉が動いた。
「証言? 脅されて言わされたのではないか」
役所の馬車から、灰色の外套を着た男が降りた。港の管理官だった。彼は書類を掲げる。
「この塔の使用停止命令だ。公開修復会も、ここでは行えない」
一瞬、誰も声を出さなかった。
商会は証拠を消せなかった代わりに、場所そのものを奪いに来たのだ。
私は塔の扉を見た。補強された蝶番。新しい鍵。広場に集まった住民たち。昨夜、皆で守ったものが、紙一枚で閉じられようとしている。
すると、パン屋の女主人が前へ出た。
「修復会は塔の中でなければいけないのかい?」
管理官が戸惑う。
「鐘の音を聞くのに、塔へ入る必要はないでしょう」
鍛冶屋の老人が続けた。
「証拠を見せるなら、広場で見せればいい。機構を運び出せるように、台を作ろう」
住民たちが動き始めた。
誰かが長机を運び、誰かが布を敷く。少年たちは霧の向こうへ走り、まだ来ていない住民を呼びに行った。役所の男が止めようとしたが、広場はすでに人の手で満たされていた。
ユアンが私を見る。
「できるか」
「時計を塔から出すの?」
「君の工房を、ここに作る」
その言葉が胸に落ちた。
工房というものは、壁や看板で決まるのではない。壊れたものを直したいと願う人がいて、それを支える手があって、もう一度動く瞬間を皆で見届ける場所だ。
私は頷いた。
「できるわ」
住民たちとともに、私たちは機構を慎重に塔から運び出した。中心軸を布で包み、歯車を一つずつ木箱に収める。最後に鐘へつながる槌を外した時、塔は空っぽになった。
だが、街区は空っぽではなかった。
広場の中央に置かれた台の上で、私は歯車を組み始めた。ユアンは隣で、商会の書類と証言を並べていく。誰かが疑問を口にすれば、別の誰かが記憶を語った。
やがて、霧の向こうから朝日が差した。
「リゼット」
ユアンが小さく呼んだ。
「この公開修復会が終わったら、君はどうする?」
「工房を開くわ」
私は歯車を軸にはめながら答えた。
「港の近くに。壊れた時計を持ってくる人が、名前や身分を問われずに入れる工房を」
「そうか」
「あなたは?」
ユアンはしばらく黙ってから、私の手元を見た。
「隣にいてもいいだろうか」
私は思わず顔を上げた。
「監督官として?」
「それでもいい。だが、君の仕事を監督するつもりはない」
「では、何として?」
「対等な伴侶として。君が作る音を、一番近くで聞く人として」
歯車が、かすかに噛み合った。
私は笑った。
「それなら、隣の席を作っておくわ。仕事の邪魔をしないなら」
「努力しよう」
「努力だけでは困るわね」
「では、約束する」
私は最後のねじを締めた。
広場に集まった人々が息を呑む。
重りを吊るし、仮の台に固定した槌を調整する。塔の鐘はここにはない。それでも、鐘へつながる機構は確かに生きていた。
私はユアンに合図を送った。
彼が重りを放す。
歯車が回る。
槌が持ち上がり、広場の端に置かれた小さな試験鐘を打った。
一度。
二度。
三度。
澄んだ音が霧を押し分け、街区の隅々へ走っていった。
代理人は何も言えなかった。役所の男も、命令書を下ろした。
音を聞いた人々が、さらに広場へ集まってくる。証言するために。真実を確かめるために。そして、自分たちの暮らしを、自分たちの手で選ぶために。
私は動き続ける歯車を見つめた。
明日、最後の鐘を塔へ戻す。
その音で、商会の嘘を終わらせる。
そしてその先には、私の工房と、あなたの隣がある。
霧の街区に、朝の鐘が鳴り始めていた。




