第20話 春を告げる新しい時鐘
翌朝、霧は晴れていた。
港から吹く風はまだ冷たかったが、石畳の隙間には小さな草が顔を出している。冬のあいだ固く閉じていた街区の窓も、ひとつ、またひとつと開いていった。
時計塔の上では、空になっていた機構が、再び元の場所へ戻されようとしていた。
「重いな」
ユアンが息を吐いた。
「昨日より軽いでしょう」
「昨日は皆で運んだ。今日は君と私だけだ」
「鍛冶屋の老人が、下から見張っているわ」
「見張っているだけで、手は貸してくれない」
「腰を痛めたら、時鐘が鳴る前にあなたが寝込むもの」
私が言うと、ユアンは苦笑した。
昨夜の公開修復会は、夜更けまで続いた。
商会の技師は、自分が受けた指示をすべて話した。壊れた歯車に細工をしたこと。修理に必要な部品を港へ運ばせなかったこと。役所の役人へ、街区は危険であり、住民は立ち退かせるべきだと伝えていたこと。
住民たちも、それぞれの記憶を語った。
商会の使いが店を訪れ、立ち退けば高く買うと言ったこと。断った家には、突然の検査や罰金が続いたこと。夜中に塔の扉をこじ開けようとする影を見たこと。
証言は一つひとつ、ばらばらの糸のようだった。けれど、広場の机の上でつなぎ合わせると、一本の太い綱になった。
役所の管理官は、最後には命令書を撤回した。商会の代理人は連れて行かれ、正式な調査が始まることになった。
街区が買われずに済んだ、と誰かが言った。
けれど私は、そう思わなかった。
街区は、誰かに救われたのではない。住民たちが、自分たちの暮らしを手放さなかったのだ。
私たちは機構を持ち上げ、塔の中へ運び込んだ。中心軸を固定し、歯車を順番に組み込む。昨日まで仮の台に置かれていた部品が、今は石壁に囲まれた本来の場所へ戻っていく。
最後に、私は新しい留め具を締めた。
「これで終わり?」
ユアンが尋ねる。
「まだよ。時計は組み立てただけでは動かないわ」
私は振り子を手に取った。
古い振り子には、無数の傷があった。磨いても消えない傷だった。けれど、その傷があるからこそ、私はこれがこの街区の時計だと思えた。
新しいものに替えてしまえば、もっと正確に動くかもしれない。
だが、古いものを残し、足りないところだけを補う。それがこの時計に、そしてこの街区に必要な修復だった。
振り子を取り付け、そっと揺らす。
かちり。
かちり。
小さな音が、塔の中に響いた。
ユアンは黙ってその音を聞いていた。
「あなた、昔からこの時計を守っていたのね」
私は振り子を見ながら言った。
「監督官になる前から?」
「ああ。祖父がこの塔の管理をしていた。子どもの頃、毎朝ここへ来て、鐘を鳴らすのを手伝った」
「だから、伝統にこだわっていたのね」
「こだわっていたというより、失うのが怖かったのだと思う」
ユアンは窓の外を見た。
「人が街を離れ、店が閉まり、鐘までなくなれば、ここに住んでいた人々のことを覚えているものがなくなる。私はそれが嫌だった」
「でも、昔のままでは守れなかった」
「君が教えてくれた」
私は彼を見た。
「私は、壊れたものを直す時、使う人のことを忘れていた。君は、直すことは過去を閉じ込めることではなく、次へ渡すことだと教えてくれた」
胸の奥が、静かに温まった。
「私も、あなたに教えられたわ」
「何を?」
「時計は、正確なだけでは足りないってことを」
ユアンが笑った。
その時、下から大きな声が響いた。
「準備はできたかい!」
パン屋の女主人だった。広場には、昨夜よりさらに多くの人が集まっている。鍛冶屋の老人、技師の少年、港の荷運び人たち。商会の買収話を受けていた家々の主人も、役所の者たちもいた。
私は針を確認した。
「時刻は合っている」
「今度は五分遅れではないのか」
「ええ。あなたが余計なことを言わなければ」
ユアンが鐘を鳴らすための綱を握った。
私は隣で、最後の調整ねじに指を添えた。
「鳴らして」
「君が合図をするまで待つ」
「どうして?」
「この鐘は、君が直したから」
「違うわ」
私は塔の窓から広場を見下ろした。
「皆が直したのよ」
ユアンは一度だけ頷いた。
私は手を上げた。
綱が引かれる。
歯車が回り、重りが落ち、槌がゆっくりと持ち上がった。
そして、鐘が鳴った。
深く、澄んだ音だった。
塔の石壁を震わせ、屋根を越え、港の水面を渡っていく。霧のない空へまっすぐ伸びた音は、遠くの船にも届いたらしい。港から返事のように汽笛が鳴った。
広場で歓声が上がる。
泣いている人もいた。笑っている人もいた。パン屋の女主人は、焼きたてのパンを空へ掲げている。鍛冶屋の老人は、誰にも見られないように目元を拭っていた。
私は鐘の余韻を聞きながら、ユアンの手に触れた。
彼が指を絡めてくる。
「新しい時鐘だな」
「古い鐘よ」
「新しい音がする」
私は笑った。
午後、塔の下に小さな看板が掛けられた。
――リゼット時計工房。
港から街区へ入る角に、住民たちが空き店舗を貸してくれたのだ。窓は大きく、日当たりもよい。壁には工具を並べる棚があり、作業台は鍛冶屋の老人が作ってくれた。
看板の横には、もう一枚の札が掛かっている。
――時刻を守る人、思い出を守る人。
「その文句、誰が考えたの?」
「私ではない」
ユアンが答えた。
「住民たちが相談して決めたそうだ」
「ずいぶん大げさね」
「気に入らないか」
「いいえ。少しだけ、気に入ったわ」
店の中には、修理を待つ時計が三つ並んでいた。止まった懐中時計、針の折れた置き時計、港で塩をかぶった小さな目覚まし時計。
私は作業台の前に座った。
ユアンは隣の椅子に腰を下ろす。監督官の席ではない。私の手元を覗き込むための、少し低い椅子だった。
「仕事の邪魔をしない約束でしょう」
「記録を取るだけだ」
「記録?」
「この工房で、どんな時計が直され、誰の暮らしへ戻っていったのかを残す」
私は工具を手に取った。
「あなたらしいわね」
「君の隣にいるには、これくらいは必要だろう」
窓の外で、時鐘がもう一度鳴った。
春を告げる音だった。
私は止まった時計の裏蓋を開く。小さな歯車が、光を受けてきらめいた。
「では、始めましょうか」
「ああ」
私たちは並んで、最初の時計へ向き合った。
霧に閉ざされていた街区は、もう霧の向こうにはない。
鐘はこれからも、朝を知らせ、嵐を告げ、帰る場所を思い出させるだろう。壊れる日もある。遅れる日もある。それでも誰かが手を伸ばし、誰かが隣で支える限り、時はまた動き出す。
私は新しい工房の窓を開けた。
港の風が吹き込み、春の匂いがした。
その風の中で、時鐘が鳴っている。
私の作る音と、あなたの守る記憶が、これからも同じ街に響き続ける。
物語は、終わった。
けれど時計は、今日も動いている。




